2014年02月20日

浅田選手へのエール

オリンピック盛り上がってますね!!と言いながら、全然関心が無かった山口です^^;
しかし、女子フィギュアの浅田選手のショートプログラムについて「誰がどうの」と発言を伝え聞いて、自称「頑張っている人の応援団」としては黙っておられません。
急ではありますが...、しかも私が急いでもどうしようも無いのですが...、それでも居てもたってもおられず伊東の地からブログを通して浅田選手へエールを送りたいと思います!

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オリンピックが始まる前から下の娘が「まおちゃんに似ている」と言われてました!! ごめんなさい…

今は牧師をしておられる小坂忠さんというシンガーソングライターをご存知でしょうか。
彼がおつくりになった「勝利者」という名曲があります。
1984年のロサンゼルスオリンピック女子マラソンで、脱水症状に苦しみフラフラになりながら必死にゴールを目指したアンデルセン選手の姿に感動して生まれた曲だそうです。
出だしの歌詞はこんなです。
「何が苦しめるのか 何が喜びを奪い去るのか 
心の中にはいつでも 嵐のような戦いがある
勝利者はいつでも 苦しみ悩みながら それでも前に向かう



某氏の発言を聞いてカァァァ!!ときました。
一瞬Facebookに某氏の悪口雑言を書き連ねようかと思いましたが、止めました^^; 多分、自分の中にもああいう短絡的に人を判断したくなる愚かさ・醜さがあるからこそカチンとくるのだろうと思います。

結果なんかどうでも良いとは思いません。それは4年間必死に努力してきた浅田選手に失礼でしょう。
良い結果、それは順位以上に自分に出来る最高の演技をしたかったという、そういう意味での結果を求める思いは強かったと思います。ショートプログラムが終了した現時点ではどんなに悔しい思いをなさっているでしょう。

それでもやっぱり、一つの結果だけで価値を決めてしまいたくはありません。
ニュースではフリーのプログラムに向けて懸命に練習している浅田選手の姿が報道されていました。素晴らしいです。
最後まで自分のベストを尽くそうとする姿勢。そうやって4年間頑張ってこられ、今最後まで頑張り抜こうとしておられるご姿勢。これぞオリンピック選手、尊敬に値します。
金メダルの表彰式より自分の子どもに見てもらいたい、学んでもらいたい姿だなぁと思いました。

人生で苦しい局面の一つに、全力で懸命に頑張って、でも上手くいかない時。失敗してしまった時、ってあるのではないでしょうか。それでも最後までやり抜くこと。前に向かうこと。とっても大切だと思います。
「みんなに金メダル」とは思いません。順位付けがされるのがこの世の中。成功と失敗、合格と不合格に色分けされてしまうのが世の現実です。
そういう世の中だからこそ、メダルの色・順位・合格不合格を超える輝き、価値が鮮やかに浮かび上がるように思います。
金メダルがあるからこそ、金メダルを越えた輝きが際立つのだと思います。

浅田選手、応援してます(●^o^●)

そして、川奈聖書教会は苦しみながら、失敗しながらも前に向かっているあなたを応援しています!

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2014年02月13日

番外編:スペース伊豆夢より「ニーズは価値じゃない」

先日火曜礼拝にお越し下さった友人ゼイさんが、噂のスペース伊豆夢でのセミナーのDVDを下さいました。さっそく受講させて頂きましたよ〜。
というわけで、原先生からThe Grateful Dead というロックバンドを手掛かりにマーケティングについて教えて頂きました。。。
あっ、もちろん教会は事業では無いのですが...、でも正直大変勉強なりました。

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The Grateful Dead、このグループの特徴は自分たちをレコード会社の商品として売ってしまはなかったこと。多くの場合ミュージシャンってレコード会社・プロデューサーによって作られた虚像ですよね。
演じているだけで、見ている方はそれが実像では無いとどこかで分かっている...。
でも彼らは違った。「人の求める自分」ではなくて、「自分を喜んでくれる人」を大切にしていったという、この方向性が素晴らしい。。。

皆が期待する自分を演じて喜んでもらう。事業をなさっている方なら、お客さんのニーズに応えることで利益をあげて行かれるという、ごく当たり前と思える道筋にThe Grateful Deadと原先生は「そんなのNO<(`^´)>」!!
そうじゃなくて、自分がそもそも与えられている価値は何かを発見し、それを磨き上げ提供することで必要としておられる方に喜んでもらう。教会の言葉でいえば、ミッションに生きること。
The Grateful Deadって、他のグループに比べてものすごく息が長かったそうです。30年くらいとおっしゃってました。それは、彼らを喜ぶ人々の存在。そこで生まれた相互の関係性の深さと共に、虚像ではなく実像として生きられる彼ら自身の喜びがあったからだと思います。
演じて生きるって疲れますよね^^; もちろん、自分が生きたいように生きればそれで良いとは思いません。
でも自分が何者か分かっていなかったら、本当の意味で他者に価値ある物を提供することなんて出来ないし、人に喜びを与えることも本当には出来ないんです。

自分が神様によって与えられている価値を大切にし、ミッションに生きる。多分万人受けはしないと思います。でも本当にあなたを愛してくれる人、喜んでくれる人、必要としてくれる人が見つかります。
あなたに与えられている素晴らしい賜物・価値・ミッションが100人の喜びとなるものだったとして、500人に評価されたい・喜ばれたいと思った瞬間あなたは変質してしまいます。他者の求める自分を演じることで自分を失ってしまうからです。
自分の分を超えちゃダメだし、超えたいと思ったら上手くいきません。それは自分じゃないから。
自分を知り、自分を愛することが無かったら、「あなた」が愛されることも無いですよね。
The Grateful Deadは他のロックバンドのようなメガヒットがあるわけではないそうです。でもコアなファンが居て30年もの間愛され続けた。
僅かな期間で爆発的な人気を博することと、飛び抜けた人気が無くてもありのままを長く愛されること。
幸せなのは後者だと私は思います。

一つだけ知っていて下さい。人が求める偽りの自分が100人に評価されるより、本当の自分を喜んでくれる1人が居てくれる方が人生は絶対幸せなんです。
だからまずは、あなたを喜んでくれる100人を探すことより、ありのままのあなたを喜んでくれる1人に出会えることが目標です!
逆に自分らしさを失った自分が評価されることで、自分は益々惨めになり不幸せになっていきます。なぜなら、偽りの自分が評価されるとは、本当の自分が否定されることだから。

そう考えて行くと、大切なことは「何をすれば、どうすれば」のHow toではなくて、「なぜ上手くいかないのか、なぜ私は存在しているのか、何のために私は生きているのか」Whyに目を向け、そこに明確な答えを得て行くこと。
時間をかかるけれど、この問いを追求していくことは単に事業の成功に留まらない。人生の成功。それは物質的な成功では無くて、生きることの充足としての成功に繋がっていくでしょう。

原先生とスペース伊豆夢の皆さんのご活躍〜本当の意味でのご成功〜をお祈り申し上げます(^^)/
http://hara-k.com/

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2014年02月06日

番外編:佐村河内氏の事件に思うこと

交響曲第1番「HIROSHIMA」などの作曲で知られる佐村河内守氏の主要作品の大半が実は作曲家・新垣隆氏によるものだと分かった事件が連日大きく報道されています。
彼らの行為の問題性は明らかです。特に聴覚障害、被爆二世、こうした弱者を装ったやり方はあまりにも悪質です。ただ、ある特定の人の問題として片付けるのではなく、そのことを生みだした要因をそこに関わる人々が直視することは大切だと思います。
そういう意味で音楽に関わる方々や愛好家がプロアマ問わず率直にこの事件について自分の言葉を発していく必要があるように思います。
私というクリスチャンのアマチュア音楽家が感じたこと、考えたことを自らのブログにまとめたいと思います。

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私はテレビをあまり観ないこともあって、佐村河内守さんの音楽は幾人かの方の紹介でyoutubeで観たくらいでそれ程詳しく知りません。
漠然とした感想として「聴きやすい音楽だな」と思ったこと。そして現代に生きる作曲家がなぜこういうジャンルで曲を書くのか若干不思議に感じたことくらいで、むしろ遥かに印象的だったのは彼の持つストーリー。聴覚を失いながら、音を紡ぎだしていくというその作業。そこから生まれた曲であるという、作曲家と曲が一体化したストーリーが非常に印象深く心に残りました。
被爆二世であること、また特にも音楽をするには決定的なマイナス要因である聴覚の障害を持ちながら、いやむしろ聴覚障害を持っているからこそ生みだされてくる音楽として、彼の作品があることの意味は大きいと感じました。結局その物語が創作であった訳です…。

音楽に限らず芸術は、その作品を生みだしている人と観賞している人の人格と無関係には存在しません。人を離れて芸術作品が自立しているということはあり得ない訳で、人と人との間に音楽が存在する以上、そこに関わる人の持つストーリーが影響を及ぼすことは当然です。
ですから、新垣さんという真の作曲家が判明して今度は彼の作品としてこれらの音楽が変わらずに愛されていくかと言えば、当然そうはならない訳です。その音楽に人々が観ていたストーリーが偽物だと分かった以上、まったく違う物に変質してしまいます。

経営のプロである友人のゼイさんが良くおっしゃっていることは「伝え方」です。ゼイさんの所で勉強しておられるお肉屋さんのチラシをよく拝見するのですが、とっても美味しそうで食べたくなります。
値段や品質よりも、そのお肉を食べた人の感想。お肉をお家で調理して起こった家庭での出来事などが目に浮かぶように書かれていて思わず手が出てしまう。(実際、家族で美味しく頂きました(^^)v オススメ。。。)

で、今回の佐村河内さん事件の核心は宣伝されたストーリーが全くのインチキだったということですね。これは禁じ手です。でも考えてみて下さい。世の中、こういうことは珍しくないでしょう。
今人気のアイドルグループ、メンバーは恋愛禁止だそうです。10代・20代前半の少女たちが恋愛をしていない、そんなはずないこと誰でも分かります。
特定の恋人が居なかったとしても、恋愛感情が無い訳ではありません。無理して装っているだけ。その人本来の人格を歪めて売り出しているだけです。
しかし、演じる側も応援する側もお互いに「これは真実だ」と信じ合う。

そうやって演じる側は、本当の自分を殺して生きることで評価を得、観る側は自分を殺してファンの理想を演じるアイドルに時間とお金を使う。
虚像を演じる人と虚像を支える人、両者の間に成立する共依存関係はこの社会の縮図だと私は思います。「どちらが」ということではありません。両者が求め合っているのです。
今回の佐村河内さんの事件に、私は現代社会が持つアイドル信仰、あり得ない虚像を求める貪欲の問題を思います。だから彼が犠牲者だということではありませんが、このような偽りを暗躍させてしまう土壌は何かを考える必要があると思うのです。

私たちは劇的な物を求め過ぎるのではないでしょうか。佐村河内さんのキャッチフレーズは「現代のベートーヴェン」だったそうです。
偉大なクラシックの作曲家は沢山いますが多くの作曲家は生前それ程高く評価されていません。歴史の中で熟成されながら、巨匠としての地位を得たのであってリアルタイムでは無い。だから良いとさえ私には思えます。
現代にベートーヴェンは居ない、そのことを弁えられないわがままなアイドル信仰を私たちは反省する必要があるのではないでしょうか。

もう一つの側面について書いて終わります。
私は今教会の聖歌隊、そして市内の弦楽合奏団の指揮・指導をしています。どちらももちろんアマチュアです。技術的には未熟です。しかし、しばしば非常に豊かな音楽をそこに経験します。聖歌隊のコンサートでは毎回涙を流して聴いて下さるお客さんがおられます。
先日アマチュア合唱団のヴェルディ・レクイエムの演奏をDVDで拝聴しました。オケはプロです。しかし、そこで圧倒的に印象に残ったのはアマチュアの合唱団の演奏です。感動しました。
これらの経験を通して、アマチュアリズムということを考えさせられるのです。プロフェッショナルな方が専門性を持って突き詰めて勉強していき、結局そこで行きついたこと。専門家として提示される事柄が一般人には何ら意味の無い、意味の分からない物であるということがあるでしょう。

人と人との間に存在する音楽は、遥かに技術的に劣ったアマチュアの方々の音楽であってもそこに深い感動を生みだします。いや、アマチュアだからこそ生みだすことのできる感動があると言えるかもしれません。
一方、プロは専門性において厳しく問われます。それは当然のこととして、しかしプロフェッショナルである方がアマチュアリズムを失ってはいけないのです。高い専門性を持ちながら、一般の人々・愛好家と共有できる音楽の喜び・アマチュアリズムを持ち続けていなければ、プロフェッショナルな音楽家として本来ある意味を失ってしまうのではないでしょうか。

私は今回の出来事が、プロフェッショナルな世界において見落とされがちなアマチュアリズムと、愛好家が求めるアマチュアリズムの枠を超えたアイドル信仰と、この両者の隙間に起こった事件なのではないかと考えています。
そして、これらのことが音楽の世界に留まらない現代に共通する問題に思えてなりません。強く自戒を込めて長々と書きました。

注)全ての音楽家や全ての愛好家をこのように断定しているのではありません。この時代の大きな流れ・方向性として、また特にその中に生きている私自身を思って書きました。


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2014年02月04日

子どもに夫婦関係の愚痴を聞いてもらうのは止めましょう

二週間前に「子どもはカウンセラーではありません」というタイトルのブログを書きました。今日はその続きです。

「子どもカウンセラー」が親から受ける相談のNO.1はなんでしょうか?ずばり、夫婦関係の悩みです...。夫・妻に対する親の愚痴を子どもカウンセラーはたくさん聞かされるのです。色々事情があるのは分かります。伴侶との関係で心を痛めて、名一杯で誰かに話さないではおられない気持ちがあるでしょう。
でも話すべき相手を考えなければいけません。以前にも書きましたように、子どもは自分自身の課題に向き合い成長していくことが仕事です。親の悩みを聞かせ同情させていると、親の気持ちにばかり関心を向けるようになり、肝心の自分自身に向き合えなくなってしまいます。

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今年度最後の伊東牧師司祭会、素晴らしい同労・同志の先生方と共に歩めたことを心から感謝します(^^)/
特に妻・夫に対する不満・悪口、それはすでに関係が終わってしまった仲であったとしても、成長過程にある子どもにぶつけることは良いことではありません。
気持ちは分からないではありません。でもやっぱり、親が子どもにパートナーの悪口(過去の伴侶であっても)を言うことは慎まなければなりません。なぜでしょうか。
仮に、親にとってはすでに「元夫」「元妻」であり他人であったとしても、子どもにとってはいつまでも「父」であり「母」である、この事実は非常に重たいことなのです。

自分自身のことを考えてみて下さい。良くも悪くも両親それぞれの影響を感じない人はいないでしょう。
人は両親があって生まれてくる。神様の定められた真に厳粛なご摂理です。
仮に母親が子どもに対して夫を否定する話しを頻繁にしていたとします。子どもは母親の思いに同情してくれるかもしれません。一緒に夫・父親を非難する言葉を発するかもしれません。
しかし、そうやって片親を非難している子どもは、自分の内にある非難している片親の影響を無意識に感じながら、自分自身の半分を否定することになってしまいます。
あなたが非難しているどうしようもないと思えるその相手が、我が子の父・我が子の母である。この事実は厳しいことですが、尊重し続けなければいけない親としての重たい責任です。

両親がお互いを認め合っている場合、子どもは自分の内にある両親それぞれの影響を肯定的に受け止めることが出来ます。しかし父が母を、母が父を否定するような状況があからさまに見えてしまうと、子どもの中で半分の自分がもう半分の自分を嫌悪する自己否定が起こってしまいます。これはとても苦しいことです。

パートナーとの関係に痛み傷ついているあなたの心はケアされるべきです。信頼できる相談者にぜひ話して下さい。教会は喜んであなたの話を伺わせて頂きます。
けれども、お子さんが父・母をどのように評価するか。それはあなたの夫・妻への評価とは別にお子さんが自分でなさることです。
自分の内にある父・母の影響、自分自身とも言える父・母をどのように評価し、整理し、乗り越えていくか。お子さん自身が、自分の人生の中でなさっていくことですから、親が方向性を示すことではないのです。

理想論でをあなたを苦しめたいのではありません。
お子さんの健やかな成長を願っていますし、あなたの力になりたいと思っています。
ぜひご相談下さい。子育て相談、教育相談、無料でお受けします。電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
そしてぜひ礼拝に足を運んでみて下さい(^^)/
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00


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2014年01月24日

「感謝される機会が少ない仕事」について

「主婦の仕事」と決めつけること自体が問題ではありますが、現実としては多くの場合奥様方が担って下さっている家事仕事。そのご苦労ってなんでしょうか。
主婦の不満として良く耳にするのは「感謝される機会が少ない」ということです。

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主婦の仕事の特徴は現状を維持する役割が多いことです。例えば掃除は小まめにしないと直ぐ汚れたり散らかったりしますから大変です。
けれども、常に掃除が行き届いていたとしても、それは必ずしも目立つことではありません。しかし汚れは直ぐ目につきます。ですから感謝されるよりも、出来ていない場所を指摘される機会が多くなります。
ご主人が朝起きて会社に行くまで家に居て、夜仕事を終えて帰ってきて、その間綺麗に掃除がされていてもそれは「朝と夜と部屋が同じ状態にある」というだけのこととして映りがちです。
いつも電球が切れていないというのは管理が行き届いたことでありますが、「今日も電球が切れていないな」と目を留められることはほとんどありません。しかし電球が切れていると直ぐ目につくのです。
現状を維持する仕事は、そのことがしっかり為されている時には気づかれ辛く評価され辛いものであり、しかし出来ていない場所があると指摘されやすいものです。

どんな仕事にもその仕事固有の苦労があるものですから比較することではありません。
目に見えて結果・成果が現れる仕事と現状を維持する成果が見え辛い仕事と、双方の役割分担があって私たちの生活が支えられていることを忘れないでいたいものです。

新しく生み出されるもの。変化し成長していく物ももちろん大切ですが、昨日と変わらずに今日も存在してくれているもの。明日も今日と変わらずに存在してくれているもの。そういう「日常」と呼ばれる事柄の中に私たちの生活の土台があり支えがあります。
その場所を足場にして家族みんなの生活が成り立っています。
私たちにとって一番大切なものは、新しく手に入れたものではなく、日々変わらずに居てくれる存在や物事の中にこそあるのです。

今日太陽が昇り沈んだこと、月星が輝くことに感謝を覚えたでしょうか。それよりも、思い通りにならない事柄への不満の方が遥かに大きいでしょう。
評価されないお仕事で不満を抱えている方に知って頂きたいことがあります。現状を維持するお仕事の達人、しかも誰よりも評価されない方が居ます。それは神様です...。
こんなに素晴らしい世界を保って下さっている神様はしかしほとんど感謝されることはなく、むしろ思い通りにならないと文句ばかりを言われます。それでも昨日も今日も、そして多分明日も、私たちの生活を支え続けて下さるのです。
神様が整えて下さっている素晴らしい被造物を踏みつけ壊していくわがままな私たち人間を愛し、喜んで支えて下さるのです。なんとありがたいことでしょうか。

感謝されないことの悲しみを抱えておられる方も、感謝に欠けていたと反省される方も、私たちの生き方が変わっていくために一番大切なことは、私たちの人生をもっとも深い場所で支えて下さっている神様への感謝を持つことです。

川奈聖書教会は聖書を通して感謝する人生を、本当に大切な物を尊ぶ人生をお伝えしています。
礼拝に足を運んでみませんか!
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp

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2014年01月18日

過去と現在のあなたは繋がっていますか?

先週の日曜日は本当に嬉しいことがありました。川奈教会の礼拝に高校の時のクラスメートが家族で出席して下さったのです!卒業以来なので実に20年ぶりの再会。感動しました(T_T)

私は高校時代から音楽を専攻していました。県立高校の中に音楽の専攻課程があるという珍しい学校で、何と私の学年は音楽専攻が男子一人だけ、44人の女子の中に私と担任の先生二人だけが男という?!、簡単に言うと女子高生活を体験した男子なのです!
でも優しいクラスメートばかりだったので、いじめられることも、叩かれることも、追い出されることもなく楽しい高校生活を過ごさせて頂きました。
3-8の皆さん、ありがとう!

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二人ともわたしです...

高校時代の友人に久しぶりに再会して、過去の自分と今の自分の連続性ということを考えさせられました。
高校以来20年ぶりの再会です。私の記憶の中ではお会いしたクラスメートは18歳の女子高生だった頃で止まっています。突如再会して、結婚されステキなお母さんになっておられてびっくり仰天します。
そういう意味では20年という時間は実に大きく、ほとんど別人のようになっているとさえ言えるでしょう。けれども不思議なことに、18歳の時のクラスメートと今現在のクラスメートの中に明らかな連続性、繋がりを私は感じました。Mさんの朗らかなご性格、配慮ある言葉遣い、きちっと話しに耳を傾ける真面目さ。全然変わりません!
多分私自身もそうなのだと思います。高校生の時の自分と今の自分、一切何も関係ないように思えるのですが、改めて考えてみるとやっぱり繋がっています。
このような、自分の人生の中にある連続性を発見するとても大切なことではないでしょうか。

色々な経験があります。失敗、挫折、後悔、怒り、悲しみ。
時に私たちは、幼少期のつらい体験、青年期の手痛い失敗、結婚生活で経験した悲しみ・別れなど、過去のマイナスの出来事を否定すること・逃れることをモチベーションに生きていこうとします。
過去の辛い出来事によって傷つき、同じ轍は踏まないとばかりに別人のようになって生きようとするのです。けれども、私たちの人生がある出来事を期に激変し、連続性が否定されてしまうと、以前とは違う自分になれたように錯覚をするのですが、実際はその場所で人生が足踏みしてしまい何も変わっていきません。
過去との戦い。過去を否定する戦いには終わりがないからです。
過去を変えることは出来ませんから、何年経っても、何十年経っても過去との戦いは続きます。その間その人は自分が否定している過去のその時にずっと立ち続けてしまい、前進することが出来ないのです。

過去の出来事を全て正当化する、ということではありません。
失敗を失敗として認め、悲しみを悲しみとして自覚し、痛みを痛みとして認識し、そのようなことを経た自分がこれからどのように生きていくのか。
過去に目をつむり、過去を無かったことにして生きるのではなく、良いことも辛かったことも、意味あることとして人生の糧として向き合い生かしていく。このような歩みが、私たちに成長・前進をもたらすのです。

30年生きた人は30年、50年生きた人は50年、もう記憶にも残っていないような一瞬一瞬さえ、今のあなたと無関係ではありません。無関係でないばかりか、そういう一瞬一瞬の積み重ねゆえに今のあなたがあるのです。
もし人生が堂々巡り、前に進むことが出来ていないなと思い当たる方がおられたら、あなたが今に至った人生の道筋。その一つ一つを受け止めていく作業を為さると良いでしょう。
過去を否定し、過去と決別しようともがいて足踏みを続ける人生では無く、「あの時の自分があって、今の自分がある」と過去の自分を受容すること。過去の自分と今の自分の連続性を認めることの中で、前に進んでいく人生に生きて欲しいと思うのです!

川奈聖書教会は聖書の御言葉通して、あなたの人生が意味あるものであることをお伝えします。
ぜひ礼拝に足を運んでみませんか!
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00
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2014年01月11日

子どもはカウンセラーじゃありません

人は一人では生きていくことができません。誰かの助けを必要としています。
何か専門的なアドバイスを受けるとか、教えを請うとか、そういうことではなかったとしても話しを聞いてもらうこと、悲しみや怒り・痛みを理解してもらうこと、慰めてもらうことを必要とする機会は誰にでもあるでしょう。
自分一人では受け止められないことを誰かに聞いてもらい共感してもらうことで助けられ、前に進むことができるのです。

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礼拝を担当するようになって11年が経ったキリスト教主義老人ホーム 伊豆高原十字の園。施設長の森さんはブログをご愛読下さっているそうで嬉しいです(^^)v

しかし誰に聞いてもらっても良いわけではありません。
まだ未成熟な子育て期間中の子どもに親の悩みや苦しみ・痛みを聞かせることを習慣化するのは決して良いことではありません。
ある局面において親の気持ち、また親の弱さを率直に子どもに伝えることが意味を持つ状況はあるのですが、それはあくまで限定的なケースです。子育て期間中に、日常的に親が子どもを良き相談相手、慰め手としてしまうことは子どもの心に傷を与えます。

「いや、家の子は私の悩み事を聞くのを苦にしていない。嫌ではないと言っている」とおっしゃるかもしれません。
確かに子どもは親の話しを喜んで聞いてくれるでしょう。他の誰よりも自分の痛みを理解してくれますし、深く同情してくれます。親子の精神的な繋がりは特別ですから、子は親の心を自分のことのように受け止める感性を持っています。言ってみれば最高のカウンセラーです。
だからと言って親が子を悩み事の相談相手として利用してしまうとどういうことが起こるでしょうか。

子どもの心は未成熟です。親のことを心配しながら、自分の人生にも責任を持つなどという器用さも余裕もありません。親の不安や問題、苦しみを我がことのように受け止める子どもは自分の人生に鈍感になります。
そして結果的にですが、親の気持ちに関心を持つことで自分の人生を回避する癖がつきます。
やがて様々な場面で自分から目を逸らすために人の人生に過剰に関わろうとする共依存性。もしくは、子ども時代に大人のように振る舞ってきた欠けを大人になって取り返すかのように他者に頼り切る依存性が現れやすくなります。

ですから子どもをカウンセラーにして親の心に関心を持たせるのではなく、自分の人生にしっかりと向き合うこと。悩みや不安、喜び希望、自分の人生に備えられた一つ一つの事柄に正面から向き合い十分に味わっていけるよう促すことが必要です。
そうやって自分の人生に責任を持って生きることを学ぶことによって、やがて成長し本当の意味で他者の痛みを知り、援助できる人間に成長するのです。

子どもはやっぱり親が大好きです。健気なほどに慕ってくれています。親が話さなくても子どもなりに親の苦労は分かっているんです。気遣ってくれているんです。
ありがたいことですよね。だから、それ以上を子どもに求めてはいけません。
では、どうしても辛いとき、苦しいとき、悲しいときどうしたらよいでしょうか。「身近に居て、話すのに手軽で、良く分かってくれる子ども、、、」ではなくて、ちゃんとあなたが相談すべき人を見つけましょう。
人に話すことは悪いことではありません。むしろ人生にはぜったい必要です。恥ずかしいとか、面倒とか、申し訳ないとか、そんなこと言わずに相談すべき人に責任を持って相談しましょう。話を聞いてもらいましょう。それが、あなたが子どものために出来ること。また、しなければならないことです。
子どもには全力で向かい合うべき自分の人生があるのですから!
繰り返しになりますが、言われなくてもあなたのことをとっても心配して気遣ってくれているのが子どもなんです。

あなたの抱える悩み、問題どうぞお話し下さい。
川奈聖書教会はあなたを、そしてあなたのお子さんの人生を応援しています(^^)/
44-1728 E-mail kawanachurch@ybb.ne.jp
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2014年01月04日

あなたはIDカードを持ってますか?

ブログをお読み下さるっている皆さん、新年明けましておめでとうございます!
と言ってもあまり正月気分はありませんが、どうぞ今年もお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

ある方と名刺交換をした際、その方の名刺にびっくりしました。表も裏も、その方が持っている肩書きがギッシリ書いてあったからです。
私がびっくりしたのはその方が沢山の肩書きを持ってらっしゃることではなく、肩書きがギッシリ詰まった名刺を持ちたいと思うセンスです。
でもその方を非難してばかりもおられません。肩書きに対する囚われは、気をつけないとすぐに私たちの内にも起こります。なぜでしょうか。
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元旦礼拝で川奈聖書教会の2014年の歩みがスタートしました!「私は何者か」この問いに聖書を通して向き合っていきます。日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00

普段あまり考えないことかもしれませんが、私たちの人生における一大問題は「自分とは何者なのか」という問いに答えをだしていくことです。アイデンティティという言葉が用いられることがありますが、いまいち漠然としていて分かり辛いかもしれません。
アイデンティティってつまりIDカード・身分証明書のことです。例えば外国に行ったとき、例えば特定の人しか入れない場所に入るときに、自分が何者であるかを証明してくれるIDカード。
私たちは人としての存在においてこのようなIDを手に入れるという課題を持っています。なぜならば、人間は絶対的な存在ではないからです。

この問いに対する答えは、本来的にはその人が持っている身分や地位、経歴とは関係ありません。
何がしかの肩書きがその人の存在を保証してくれる訳ではありません。けれども、一時的な肩書きに手っとり早く自分の存在保証を求めてしまう過ちがしばしばおこります。
名刺にギッシリ自分の肩書きを書いておられた方のように、自分を証明してくれる言葉を一つでも多く、少しでも大きく持ちたいという願望。けれども、そのようにして自分のIDを手軽に得るとどうでしょうか。
もしそのIDを失ったら自分を説明する言葉を失ってしまうから、肩書きというIDを必死に守ろうとするでしょう。
またもっと魅力的なIDを得ようとして、人生の目的が肩書きを得ることになってしまうでしょう。そういう人生はどこかで行き詰まり、無理があらわれます。

別に肩書きが悪いと言っている訳ではありません。今その人が得ておられる役割が何であるかを明確にすることは必要です。けれども、その人が得ている役割と、その人が何者であるのかという問いは異質だということを忘れてはいけません。
老いの中で、病の中で、苦闘しておられる方と関わらせて頂くときに、外面的に得ているIDカードの無力を痛感します。自分が得ている役割としてのIDが全部無くなってしまったときに、それでもなお「私は○○です」と言える言葉を持っているでしょうか?とっても大切な、疎かにしてはいけない問題です。
どんな状況でも自分の内面に「私は○○です」と言える明確なIDを持っている人は最強です!

つまらない肩書きを得て傲慢になるのはやめましょう。
それぞれの役割は尊く意味深いものであっても、それを存在としてのIDにしてしまったらつまらないものにしてしまいます。
○○会長、○○代表、○○先生、○○委員、○○議員、○○士、あっもちろん牧師もそうです。。。存在のIDにはなりません。
健康であろうと、病を得ようと。若かろうが、年老いていようが。尊敬されていても、無視されていても。
「わたしは○○です」と答えられる言葉。

川奈聖書教会は掛け替えのないあなたの人生のIDを見つけるお手伝いをさせていただきます!
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
教会website http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2013年12月31日

元旦礼拝のお知らせ

川奈聖書教会では1月1日午前11時から12時まで元旦礼拝を執り行います。
どなたでもお越し頂くことが出来ます。普段着で気軽に足をお運びください。
今年は教会の礼拝で新しい年をスタートしませんか!!

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2013年12月24日

クリスマスイヴ礼拝のお知らせ

本日24日夜7時から、川奈聖書教会にてクリスマスイヴ礼拝をおこないます。普段教会にお越しではない方、教会に行ったことがないという方もどなたでも自由に参加いただくことができます。
今年のクリスマス、教会で本当のクリスマスを味わってみませんか。
ご用意いただく物は何もありません。普段着でお越し下さい。お待ちしています!

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2013年12月23日

東京に向かうあなたへのエール

先日運転しながらラジオを聞いていると、クリスマスの思い出ということでリスナーからのお便りが紹介されていました。その中に、何年も前のクリスマスの思い出として、以前交際していた恋人との関係についてこんなことが読み上げられていました。

とっても大好きだった彼との関係が、クリスマスの前にひょんなことから破たんしてしまった。ちょっとした誤解だったのだけれども、その時は意地になってしまい相手を許すことができず別れてしまった。
けれども、今でもその人のことを時々思い出す。そして、もしあの時彼と別れていなかったら私の人生はどうなっていただろうか、と考えてしまう。
そんなメッセージでした。
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ラジオのお便りに一々目くじら立てるのもどうかと思いながら、しかし私はその投書をロマンチックなストーリーとして聞くことはできませんでした…。

私たちの人生には確かにターニングポイント・岐路と言える場所があると思います。
そして、後で振り返ったときに「もし別の道を選択していたらどうなっていたか」と考えたくなることはあるでしょう。
自分の選択だけではありません。誰かの影響によって、特にも不本意な事柄の中で心ならずも...、そういうことが自分の人生のターニングポイントになってしまったとするならば、整理することが難しいのは当然のことでしょう。
「もしあのことがなければ」「もしあの人がいなければ」、そうやって何年でも、何十年でも抱え続けてしまう痛みがあります。
けれども一方で「良い」と思えたことが、後になって悪い出来事に変わることがありますし、逆に「悪い」と思えたことが、後で良い経験に変わることがある。これが人生です。
つまり私たち人間には、その時その時に起こる出来事の良し悪しは判断できないのです。
ただひとつ、はっきりとした人生における不幸があるとしたら、それは「悪い出来事」と判断された事柄が5年たっても10年たっても20年たっても、なお「悪い出来事」のまま変わらずにその人の人生に置きっぱなしにされることです。
そして何か辛い時に、苦しい時に、その場所に戻って「あのことのせいで私の人生は」と愚痴ってしまう。

しかしそうやって、事あるごとに不幸な過去の出来ごとに逃げ込んでしまう人生は積み上げられていきません。10年前に起こった不幸を、今でも辛いことがあると「あの時のせいで」という人は、結局10年間同じ場所で足踏みを続けているということです。
「あの人と結婚したせいで」「あの時会社が倒産したせいで」「あの時、あちらの道を選んでおけば」、そうやって私たちが振り返ってしまう、逃げ込んでしまうその場所から私たちの人生は一歩も前には進んでいないのです。 
悪い出来事を、悪いことのまま放置する人生の不幸とはこういうことです。

今回のあなたの選択があなたの人生を決めるのではありません。
大切なことはこの選択を、また過去に起こった様々なことを逃げ場所にしないこと。
クリスチャン詩画家の星野富弘さんが「悲しみの意味」という詩を読みました。
「冬があり夏があり、昼と夜があり、晴れた日と雨の日があってひとつの花が咲くように、悲しみも苦しみもあって私が私になってゆく」

東京に移る人生のこの転機も、あなたが益々あなたらしくされていく大切な人生の時だと私は思っています。だから、前を向いて進んでいってください!これからも応援しています(^O^)/
牧師 山口

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2013年12月16日

影響力のある言葉を発するために

小言は子育てしていると“いけない”と思いながら、中々止められないものですね。
小言とを辞書で引くと「細かいことをいちいち取り立ててしかること。また、その言葉。」だそうです。私自身も子育て中の親として耳が痛いです...。

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本文とは何ら関係ない恐怖の「勝手に宣伝コーナー」。やっぱりこの方!! 誠実&一生懸命な人を応援しないではおられない温かいお人柄の原眞人税理士さん!私の大切な友人です。http://hara-k.com/

小言の一つの問題は、常時細かいこと・小さいことにガミガミ言っていると、いざ「これは重大」と思って注意した時に効き目があらわれないことです。
細かい事柄について日常的に注意を受け続けていると傾向として、細かい事柄に神経質と思える程注意深くなる一方で、周囲の人が唖然とするような大きな問題に対する無頓着が現れます。
大雑把な人は細やかな場所が行き届かなくても全体としてはバランス感覚に優れるという長所が現れやすく、一方細かい人というのは逆に全体としてみるとアンバランスを抱えていることが多いです。細やかにあれこれ気を使っているので、逆に注意力が散漫になる落とし穴がぽっかりどこかに開いてしまうのです。
つまり、人間が注意出来ること、気をつけられることには限界があるということです。

ですから、子育ての中ではやはり気になったことを片っ端から注意するのではなく、本当に気をつけて欲しいこと。子どもが成長していく上で欠かすことが出来ないと思える事柄と、そうではないことを取捨選択することが必要です。
特にお子さんが大きくなって来た時には、ドンドン親の言葉を受け入れる余地が少なくなります。お子さんが受け止めてくれる僅かな場所を小言で使ってしまうのは勿体ないですね。
お子さんに親として伝えたいこと、大切にして欲しい場所を、親自身の内でまず明確にしておく必要があるでしょう。

これは子育てに限ったことではありません。言葉に影響力を持つためには言葉の無駄遣いをしないことです。
「あの人が発する一言は重たい」そういう経験ってありますよね。小言など普段言わない人が、何か静かに一つの注意を口にするとその言葉が大変な影響力を持つのです。
例えば往年の名指揮者がほとんど体が動かなくなって、腕も満足に上がらないような状態でしかし名演奏を生み出すことがあります。それは、ホンの僅かな動きが逆に際立って肝心要の場所で大きなメッセージが伝わるからです。

一方で日頃から細かいことにあれこれ言っていると、いざという時に「またいつものあれか...」と耳を傾けてもらうことが出来ません。そうすると今度は、普段よりも更に大声を出したり、汚い言葉・威圧的な言葉を使ってことの重大性を表さないではおられなくなってしまうのです。
仮にそうやって人を動かすことが出来たとしても、関係性は壊れてしまいますし、不満が蓄積されてしまい後々必ず行き詰るでしょう。

人間が注意力を働かせることが出来る範囲には限界があります。親として子どもに与えられる影響力にも限界がありますし、子どもの成長と共に影響力はドンドン低下します。
集団の中でも同じです。健全な関係性の中で及ぼすことが出来る影響力はそれ程大きなものではありません。もしずば抜けて強い影響力を持っている人がいたとしたら、それはその人の振る舞いの中に大声や威圧的な言葉など不適切なものが含まれている可能性があるでしょう。
健全な関係性に留まりながら、限られた中で影響力を及ぼしていくことを考える時に、子どもに対して、隣人に対して、集団に対して、あなたが伝えたいこと。伝える責任があることを整理しておく必要があります。
いや、整理する前に自分にとって大切なものが何であるかをしっかりと弁え、そこに立って生きていることが必要です。自分自身の価値観が曖昧だから、あれこれ構わず口出ししてしまうのかもしれません。

子育てにおいて大切なことは、親自身が人生において価値あるものが何であるかをしっかりと弁えていること。そしてその価値観に相応しい人生を目指して生きていることです。
ぜひ教会に足をお運びください。聖書には本当に大切なものが何であるかがちゃんと書いてあります!
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
礼拝はどなたでもお越しになることが出来ます。
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00


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2013年12月10日

番外編:小さいことをしまい込まずに

情熱大陸で有名なヴァイオリニスト葉加瀬太郎さんの演奏をネットで見ていて思いだしたことがあります。
彼は元々クライズラー&カンパニーっていうグループで活躍しておられましたが、ほとんど同じ時期に「G-クレフ」というアコスティック楽器使ったバンドが活躍してたのご記憶の方いらっしゃるでしょうか。
どちらも芸大生が結成したバンドで、G-クレフはデビューの年に紅白にも出演しました。

あのG-クレフの中心メンバーだったヴァイオリニストの後藤勇一郎さんが、中学生の時に私のクラスに教育実習生として2週間来ておられたんです。音楽の授業だけじゃなくて学活とか給食の時間も一緒に過ごしました。

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ちょうど教育実習期間に合唱祭があって、私はピアノ伴奏者でした。
その頃は男子がピアノ弾くなんてすごく恥ずかしいことみたいに思っていて、私は人前でピアノ弾くの嫌だったんですけど、そうしたら教育実習生の後藤先生が「山口くん、ピアノすごく良いよ。音楽はいろんなことできるから絶対続けた方が良い」と何度か声をかけて励まして下さいました。
何か普通の人と違うカッコよさがある後藤先生のその励ましが嬉しくて全然練習しなかったピアノをそれからボチボチ頑張るようになって、その後私が音高に進学する一つのきっかけになったんだなと、なぜか急にそのことを思い出しました。
先生にとっては何気ない言葉だったのでしょうが、私の人生にはズシリときました〜。

後藤先生が教育実習を終えられる時に最後のあいさつで「実は私はG-クレフというバンドでデビューするんです」みたいなことをお話しになられて、デビューコンサートのポスターを教室に担任の先生が貼って下さいました。
みんなで「こういうのは絶対売れないよな。止めとけよ」とかムチャクチャからかったのも良く覚えているんですが、結局あれよあれよと言う間に評判になって、一緒にお弁当食べた後藤先生がその年の紅白歌合戦に出演し、演奏している姿を私は家のテレビで見るという驚きの展開だったのです。

私の大好きなマンガ「家裁の人」の第8巻で桑田判事が言ってます。「私達が少年に対してできることは、小さなことです。だけど小ささを恥じて、それをしまい込む人が多過ぎるんです」、その通りですね桑田さん(ToT)/
相手が抱えている問題の大きさと自分がして上げられることの小ささと、そのギャップがあまりにも広過ぎて絶望的な思いになることってありますよね。私はしばしばです。
でも、10の問題に対して私は1しか出来なかったとしても、1出来る人が他に9人いればその方に対して有効な関わりが成立するんです。

最近教会に来てくれる子どもたちがまた少し増えて、全員来ると20人以上の子どもたちが教会に繋がってくれています。その分、自分の無力さを痛感することが多くなりました。それでも、私にできる1、教会にできる1をしまい込みたくはありません。

話しを元に戻しますが、その後先生はG-クレフをお辞めになり、G-クレフも解散になって、すっかり忘れていたんですが、葉加瀬太郎さんをネットで娘と見ている時に突然このエピソードを思い出しました。
「あぁ、私が今も音楽続けているのはあの時に先生が励まして下さった言葉が影響しているな」と。それで、先生どうしておられるのかと思ってインターネットで検索したら、ヴァイオリニストとして今も幅広くご活躍とのことでした(^O^)/ 
がんばれ後藤先生〜!!


週一ブログの今日は番外編でした。。。

posted by pastoryama at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 番外編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月08日

ホントにその人はそういう人ですか?

前回は何か大きな目標を立てることの中で、あたかもそのような自分になったかのように錯覚して現実の自分から目を逸らす「逃避」についてお話しをしました。
今回は人に対する認識の中で起こる「逃避」をテーマにご一緒に考えていきたいと思います。

「人を信じる」ことは素晴らしいことのようでありますが、盲目的な信頼の問題ということもあります。
例えばもうパートナーが明らかに裏切り行為をしている。親が友人が、わたしを裏切っていることは明らかである。
しかし本人は「何か事情があったのだ」「本当はこんなことする人では無い」「いつか分かってくれる」「本心では私を愛しているのだ」などなど、そうやって現実を認めず裏切った相手を弁護し良い方に解釈をしようと為さいます。
実際には問題が起こっていることは分かっているのです。自分が裏切られていることを知っています。けれどもそのことを認めて、問題に向き合うことを回避してしまうのです。
なぜでしょうか。自分を裏切った相手と、自分を大切にしてはいない相手と向き合うことが出来ないからです。相手の問題から逃避し、空想上のストーリーの中で自分を安心させようとしてしまうのです。
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本文とは一切何ら関係ありませんが、わたしはLUCEとおがちゃんが大好きです(^^♪
https://www.facebook.com/LUCE.IZU

しばしばこのような他者に対する逃避は、辛い子ども時代を生き抜くために身に付いた癖であることが多いです。
子どもは経済的な面だけでなく、精神的にも親に依存しています。親の愛情や両親の夫婦関係の誠実さを欲しています。
けれども、親から虐待を受けるとか、親のパートナーに対する不誠実な姿を目の当たりにするとか、子どもの心が締め付けられるような体験をする時に、子どもは「でも本当はお父さんはこんな人じゃない」「本当はお母さんは私のことを愛してくれている」などと現実を歪めることで自分を守ろうとします。それは決して責められることではありません。逃避することで子どもなりに必死に生き抜いているのです。

ただ、そのような緊急避難的な対応がやがて生き方としての大きな問題になってしまいます。成長してなお、他者に対する見方が常に逃避的になってしまうのです。
そうすると、残念なことに不思議と自らが過去に経験した悲しみと同種の痛みを与えるパートナーを選んでしまうようなことがしばしば起こってしまいます。
ですからどこかで、真実の相手と向き合う生き方に転換していかなければなりません。そうしないと人生はどうしても開けてこないのです...。

無力で無防備な子ども時代に現実に痛みつけられた方は、現実を恐れるのは当然です。そのこと自体が責められる訳ではありません。
思い当たる節がある方は、そうやって辛い中を生き抜いてきた自分を温かく受け入れて上げて下さい。その上で、今はもう無力な自分では無い。自分を本当の意味で守って上げられる、安全な生き方を提供して上げられる自分であることを信じて欲しいのです。
それは「何でも自分で」ということではなく、真実に生きるために・傷ついている自分を守っていく為に必要な助けを得ていくことですし、真実に生きるための良き仲間を得ることですし、そうやって生き方を転換させていたくための安全な場所を得ていくことです。
ぜひ逃避では無い一歩を踏み出して下さい。応援しています(^^)/

川奈聖書教会は、たった一度の掛け替えの無いあなたの人生を応援しています!
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2013年12月01日

その目標は逃避じゃないですか?

早いものでいよいよ12月。一年の締めくくりの月を迎えて皆さんに嫌な質問をします。元旦に「今年こそは」と決意した目標、どれだけ達成することが出来ましたか?!
今日はご一緒に「逃避」について考えてみましょう。

クリスチャンの方の良くある新年の目標は「今年こそ聖書を最初から最後まで読み通すぞ」というものです。けれども、レビ記辺りであえなく撃沈する方が多いでしょうか...。
新年に限らず何がしか目標を立てることは良いことだと思いますが、多くの場合その手の目標が現実逃避に過ぎないということがあります。
負い目を感じている自分。嫌な自分。例えば「○○が続かない自分」「体重の増えてしまった自分」「○○が止められない自分」などなど、そういうダメな自分が大きな目標を掲げる時に、あたかもそのことが現実化したような錯覚を味わうのです。
一年の目標を考えながらその目標を達成して生まれ変わった自分を想像することで、自分に対する嫌悪感から一瞬目を逸らす。こういうことを「逃避」と言います。
逃避によって掲げられた目標は大抵三日坊主に終わります。

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12月7日(土)午後1時半から3時まで、読み聞かせ会を開催します。ぜひ遊びにいらして下さい!

目標を掲げることが悪い訳ではありません。けれども、現実から目を逸らした目標は成長をもたらしません。
もし私たちが本当に目標を掲げ、成長を目指すのであれば真っ先にしなければならないことは現実を直視することです。
自分が嫌悪している自分の習慣や状態がどれだけ深刻で根深いものであるか。今まで解決しようとしながらまったく実行できなかった無力な自分であること。それを「今度こそは」と決意し実現させるのは容易では無いこと。
このように課題・問題の大きさと、自らの弱さという現実を直視する苦しみに向き合っていくことが、困難な目標を達成していくために必要な第一歩です。
そして、このように現実を直視した時に、この難題を乗り越えていく為に何をしたらよいか、何が出来るか、何が出来ないか、どういう助けが必要か、そういう実現への道筋が少しずつ見えてくるのです。

「年が改まるから新たな自分に変われる。職場が変わるから、引っ越しをするから…」、こういうのは基本的に逃避です。
本当に変われる人は年が改まらなくても変われます。同じ職場の中で、同じ住まいの中で、変えていけるはずです。環境・状況の変化の中で生まれ変わる自分を思い描くのは楽しいですが、それでは実際には何も起こりません。
あなたが思い描いている希望は現実を直視した上でのものでしょうか。

職場や住まい、同僚・上司・ご近所さん・パートナーとは離れるチャンスがあるかもしれません。けれども、絶対に離れることができない存在がいます。それは自分です。“自分”という存在とは絶対離れることが出来ません。一生涯共に生きていくのです。
そして、もし自分自身に問題があるのなら、外面的な状況が変わったとしても常に同じ問題が起こるでしょう。
自分から目を逸らし、誤魔化しながら過ごすのではなく、この機会に向き合ってみませんか。
もしかして、本当の問題はあなたの周囲にあるのではなくあなた自身の中にあるのかもしれません。いや、それは分かっているけれども、でもどうしても向き合えないのかもしれませんね。

私たちの教会にお手伝いさせて下さい。
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教育相談・子育て相談室もあります
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