2014年03月20日

“計画”に依存していませんか?

毎日の生活が予定通り進んでいくことは少ないですね。
楽しみにしていたテレビ番組が始まる直前に、急の呼び出しの電話...。こういう類のことを皆さん経験されるのではないでしょうか。子育ても正にそういうことの連続です。
久しぶりに友達とご飯を食べに行こうとお母さんが計画していたら、直前でお子さんが体調を崩されるとか。。。

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おかげさまで次女、卒園することが出来ました。3年間娘を支えてくれた伊東聖母幼稚園の先生方、そして娘と共に歩んでくれた幼稚園のお友達一人一人に感謝します<(_ _)>

大事な時に限って、、、楽しみにしていた時に限って、、、。そういう経験は多くの方がお持ちであろうと思います。しかし、大事な時・楽しみにしている時に限って不意の出来事が起こる確率が飛躍的に高まる、ということは実際には無いのだろうと思います。あくまで私たちの感じ方の問題です。
楽しみにしていたことがダメになることは印象深いですから記憶に鮮明に残ります。つまり、普段あまり気にならないことであっても、計画が妨げられるとそのことが重く感じられてしまうのです。

無計画な人生というのは褒められたものではありませんが、一方で計画的であることが必ずしも良いこととは言えません。
なぜ不意の出来ごとにイラついてしまうのか。計画通りにいかなくなるからです。
逆に言いますと、計画なんか無ければ何が起こってもイライラしません。ですから、基本的に必要のない計画は立てないこと。必要最低限の計画に留めることは、例えば子育て中のご両親にとっては大切なことです。
もしくは、計画を立てたとしても「これはあくまで目安であって、恐らくその通りはいかない」と最初から思って計画を立てることが肝心でしょう。

事柄の主従を見誤らない目を持っていることは人生において常に大切です。
例えば学校の規則とは何のためにあるのでしょうか。学生たちの学校生活が良いものになるために定められています。決して、規則を守るために学生が存在している訳ではありません。学生のために規則があるのです。
計画も同じです。計画を実行するために人が居るのではなく、良い時間を過ごすために計画があるのです。

つまり計画にしても、規則にしても、それは人がより良く生きる為の道具にすぎません。道具ですから、それを人は用いなければなりません。当然、道具は人の幸せや喜びを保証はしてはくれないのです。
計画通りに過ごせば、規則を全て守られば、幸せになるか・楽しいか?そんなことはあり得ないのです。
どう用いるか、人の責任が問われます。
けれども、しばしば私たちはそうした決まりごとに依存してしまいます。規則を守り、計画をその通り遂行することに心を奪われてしまいます。そうやって、私たちはしばしば本当の喜びや楽しみを失っているのかもしれません。

昨晩、上の娘との何気ない会話の中でこんなことを彼女が話してくれました。「パパ、私はね。朝は気持ち良く挨拶したいと思って心がけているんだ。友達が朝から暗い顔をしていたら私は嫌だからね」
娘は寝起きは悪いですが、確かに朝食の席に着いた時には明るく挨拶をします。そういう性格なんだろうくらいに思っていたのですが、実は家族で気持ち良く朝の時間を過ごすために娘なりに考えてくれていたのだと知って驚きました。
そして、そのような娘の思いに応える挨拶が自分はどれだけ出来ていたのだろうかと考えると、本当に申し訳ない思いがしました。
正に私たちが良い時間を過ごせるかどうかは、計画の着実な遂行ではなくこのような隣人への愛の有無が問われるのです。

楽しい時間、充実した時間、喜びの体験。そのような一日を過ごすことは簡単ではありません。
規則や計画は助けにはなるでしょうが、そういうものに依存して生きているといつの間にか私たちは決まりごとの奴隷になってしまい、冷たい生活を送るようになってしまうでしょう。
当たり前のことですが、配慮が必要です。思いやりがあり、犠牲があり、感謝があり…。
愛の中で計画や規則を用いる時に、その道具ははじめて有意義な物となるのです。
計画通りにいかない人生だからこそ、愛を働かせることで本当の喜び・共に生きることの幸いが現れてくるのではないでしょうか(^^)/

聖書の言葉はいつも私たちに大切な気づきを与えてくれるものです。
ぜひ川奈聖書教会にいらして下さい!
毎週日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00
子ども礼拝は日曜日のAM9:15-10:30
誰でもお越し頂くことができます。何の準備もいりません。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2014年03月10日

「今」があなたの人生

日本のホスピス医療の第一人者として知られるクリスチャンドクター柏木哲夫先生が「矢先(やさき)症候群」という面白い言葉を使っておられます。
矢先症候群とは、人生に訪れる思いがけない出来事。病気や災害など思わぬことが起こる時がしばしば「○○しようとした矢先」であるということです。

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大好きな音楽仲間のマスターのジャズなお店、Butter Note。ビーフシチューが絶品であることは有名。実は長崎皿うどんもすっごく美味しい(^^♪ http://www13.plala.or.jp/butternote/Home/Top_page.html

私たちは知らず知らずの内に何かを目指して今を生きてしまいやすいものです。
「今は大変だけれどもお休みになったら...。今は自分の時間が無いけれど子どもたちが巣立っていけば...。今は楽しくは無いけれど会社を退職したら...。」このように、この先に訪れるであろう“いつか”に期待して今の苦しみを乗り越えようとするのです。
けれども、そうやってようやく目指していた場所に辿り着いたと思った“矢先”に思わぬことが起こる、と言うのが柏木先生のおっしゃる矢先症候群です。

これは運命のいたずらとか、巡り合わせの悪さとかそういうことではありません。
私たち人間に与えられている時間は「今」だけであることを弁えている必要があります。過去は変えられません。そして未来は私たちの手の中にはありません。
私たちに与えられている時間は「今」だけなのです。
矢先症候群とは未来・将来が自分の手の内にあると思い込む勘違いの中で、「今」から目を逸らしてしまった結果起こることではないでしょうか。

家庭や子育て、人間関係、仕事、どこで何をしていても一つの問題が解決したと思うと直ぐまた別の問題が生じてしまう。そのことの繰り返しです。
そういう中で、問題を解決することばかりに気をとられると、私たちは大切な「今」という時を失ってしまいます。
すっきりはしないかもしれません。自分の望む生活とは少し違うかもしれない。やっかいな問題を抱えていて、苦労が絶えない。でも、そういう「今」が実はあなたの人生そのものなのです。
「今」の生活の中にある幸せや恵みを味わうことをせず、喜ぶことをせず、しかし将来には幸せが待っていると考えるのは逃避以外のなにものでもありません。
ですから問題の解決に心を奪われ、理想的な将来を夢見て今を生きる人が、矢先症候群に陥った時に考えることはなんでしょうか。「あの頃は良かったな・・・」、そういうことかもしれません。

将来に希望を抱いているあなたがその“将来”に辿り着いた時に気が付く理想の時は“過去”だった。
そんな皮肉なことではたった一度の人生あまりにももったいない。そしてそういうことがしばしば起こるのが人生です。
掛け替えのない「今」を無駄にしないで下さい。今が最高の時。そしてそれが分かると、この先もずっと最高です(*^^)v
あなたの人生を応援しています。ぜひ教会に足をお運びください。色々な機会があります。

今週は「子育てともとも」、本多先生のリトミック指導です。3月14日(金)午前10時から12時
私も可愛いワッペン付けてお待ちしています。気軽に声をかけて下さいね!
礼拝は休みなく毎週日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00
子ども礼拝は日曜日のAM9:15-10:30です。

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2014年02月27日

家庭におけるタブーの話し

皆さんが自分の子ども時代を振り返った時、子どもながらに案外色々なことに気付いていた、知っていたということがあるのではないでしょうか。
ご相談を受ける時に割と良くある話しは「実は私が子どもの頃、私の両親は○○のようなことをしていたのです。でもそのことには触れてはいけないことになっていました」みたいなことです。
社会で生きる顔と家庭の中での顔がまったく同じということはありません。
牧師ななどは正にそうですが、教師など社会で模範的であることを期待される職業の方は特に、家庭の内と外でのギャップが大きいということが起こりやすいようです。

社会的に非常に尊敬され理想的な人として見られている方の家庭の中に深い闇があるということはしばしばあることです。
多少外と内でのギャップがあっても、子どもが「家のパパは教会では○○だけど、家では○○だよ(笑)」くらいのことを言えれば良いのですが、「家の父は教会でも家庭でも常に信仰深く完璧です」みたいなことしか言えない、言ってはいけないと育てられているお子さんの内面はどのようなことになるでしょうか。

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“子育てともとも”も相談するのに最適の場所。お子さんを観て下さるスタッフも居ますので気軽に声をかけて下さい。リトミックの本多先生のご指導も素晴らしいですよ(^^)/写真左が本多先生、右は牧師(わたし) ともともは2月28日・3月14日午前10時から。。。

これはタブーの問題です。4人家族であれば4人が家庭の中で確かにそのことを見ているのです。しかし、それは存在しない、無かったことに・見なかったことに・口にしないようにしようと、暗黙の了解が作られていきます。
例えば父親が浮気をしていて、それは家族全員が知っていることであるけれども口にすることが出来なかったとします。良い家庭であることを演じながら、傷ついた家庭を誤魔化して生きるということは子どもにとって大きな負担、ストレスです。
あたかも足に大きな怪我を負っていながら、健康を装い皆と同じように行動し続けているようなことですから。当然どこかでその無理が現れます。

更に、子どもの立場に立って考えてみましょう。
目の前におかしなことが起こっている⇒しかしそれを口にすることは許されず、何事も無いかのように偽って生きることを求められる⇒大きなストレスを抱える

この大きなストレスを抱えているサインはそれぞれの子どもが必ず何がしかの形であらわします。子どもがしまい込み消化してしまう、ということは決してありません。
例えば、身体的・精神的・性的な行為におけるストレスを子どもが受けながら、そのことを拒否したり、訴えたりすることが許されなかったとすると、ごく単純な可能性として、学校などの場で自分が受けている行為と類似する問題行動を起こす可能性が高くなります。
親に叩かれている子どもが、学校で友達を叩いてしまうとか、家庭で目を向けてもらえない子どもが、学校で友達を無視するとか、類似の行動で抱えているストレスを発散しようとするのです。

しかし、それで子どものストレスが解消する訳ではありません。
ある専門家は「すり替え欲求」という言葉を使うのですが、親から受けた暴力を友人を叩くことで解消しようとしたとします。欲求をすり替えたのです。
けれども、すり替えていますから当然真の充足はありません。いやむしろ、すり替えられることで益々ストレスは増幅し、そのすり替え行為が繰り返されエスカレートするようになっていきます。
こうして依存症や嗜癖と言われる問題が生じてきます。

聖書の中に「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」と書いてあります。
隠すことでは問題は絶対に解決しませんし、やり過ごすことはできません。もし一時的に通り過ぎることが出来たとしたら、その問題は数年後遥かに大きな問題になって帰ってくるでしょう。

第一歩は話すこと。相談することです。信頼できる人に恥ずかしくても、心配でも相談して下さい。
隠されてきた問題に光が当たる、それだけですでに解決への大きな一歩を踏み出したことになるのです。
あなたにその問題を解決する力は無かったとしても話すことは出来ます。そして、話すこと・相談することはあなたの大切な責任です。

教会にも遠慮なくご相談下さい。子育て相談、教育相談、無料でお受けします。電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
そしてぜひ礼拝に足を運んでみて下さい(^^)/
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00

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2014年02月20日

浅田選手へのエール

オリンピック盛り上がってますね!!と言いながら、全然関心が無かった山口です^^;
しかし、女子フィギュアの浅田選手のショートプログラムについて「誰がどうの」と発言を伝え聞いて、自称「頑張っている人の応援団」としては黙っておられません。
急ではありますが...、しかも私が急いでもどうしようも無いのですが...、それでも居てもたってもおられず伊東の地からブログを通して浅田選手へエールを送りたいと思います!

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オリンピックが始まる前から下の娘が「まおちゃんに似ている」と言われてました!! ごめんなさい…

今は牧師をしておられる小坂忠さんというシンガーソングライターをご存知でしょうか。
彼がおつくりになった「勝利者」という名曲があります。
1984年のロサンゼルスオリンピック女子マラソンで、脱水症状に苦しみフラフラになりながら必死にゴールを目指したアンデルセン選手の姿に感動して生まれた曲だそうです。
出だしの歌詞はこんなです。
「何が苦しめるのか 何が喜びを奪い去るのか 
心の中にはいつでも 嵐のような戦いがある
勝利者はいつでも 苦しみ悩みながら それでも前に向かう



某氏の発言を聞いてカァァァ!!ときました。
一瞬Facebookに某氏の悪口雑言を書き連ねようかと思いましたが、止めました^^; 多分、自分の中にもああいう短絡的に人を判断したくなる愚かさ・醜さがあるからこそカチンとくるのだろうと思います。

結果なんかどうでも良いとは思いません。それは4年間必死に努力してきた浅田選手に失礼でしょう。
良い結果、それは順位以上に自分に出来る最高の演技をしたかったという、そういう意味での結果を求める思いは強かったと思います。ショートプログラムが終了した現時点ではどんなに悔しい思いをなさっているでしょう。

それでもやっぱり、一つの結果だけで価値を決めてしまいたくはありません。
ニュースではフリーのプログラムに向けて懸命に練習している浅田選手の姿が報道されていました。素晴らしいです。
最後まで自分のベストを尽くそうとする姿勢。そうやって4年間頑張ってこられ、今最後まで頑張り抜こうとしておられるご姿勢。これぞオリンピック選手、尊敬に値します。
金メダルの表彰式より自分の子どもに見てもらいたい、学んでもらいたい姿だなぁと思いました。

人生で苦しい局面の一つに、全力で懸命に頑張って、でも上手くいかない時。失敗してしまった時、ってあるのではないでしょうか。それでも最後までやり抜くこと。前に向かうこと。とっても大切だと思います。
「みんなに金メダル」とは思いません。順位付けがされるのがこの世の中。成功と失敗、合格と不合格に色分けされてしまうのが世の現実です。
そういう世の中だからこそ、メダルの色・順位・合格不合格を超える輝き、価値が鮮やかに浮かび上がるように思います。
金メダルがあるからこそ、金メダルを越えた輝きが際立つのだと思います。

浅田選手、応援してます(●^o^●)

そして、川奈聖書教会は苦しみながら、失敗しながらも前に向かっているあなたを応援しています!

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2014年02月13日

番外編:スペース伊豆夢より「ニーズは価値じゃない」

先日火曜礼拝にお越し下さった友人ゼイさんが、噂のスペース伊豆夢でのセミナーのDVDを下さいました。さっそく受講させて頂きましたよ〜。
というわけで、原先生からThe Grateful Dead というロックバンドを手掛かりにマーケティングについて教えて頂きました。。。
あっ、もちろん教会は事業では無いのですが...、でも正直大変勉強なりました。

写真 2014-02-13 16 16 18 (1).jpg

The Grateful Dead、このグループの特徴は自分たちをレコード会社の商品として売ってしまはなかったこと。多くの場合ミュージシャンってレコード会社・プロデューサーによって作られた虚像ですよね。
演じているだけで、見ている方はそれが実像では無いとどこかで分かっている...。
でも彼らは違った。「人の求める自分」ではなくて、「自分を喜んでくれる人」を大切にしていったという、この方向性が素晴らしい。。。

皆が期待する自分を演じて喜んでもらう。事業をなさっている方なら、お客さんのニーズに応えることで利益をあげて行かれるという、ごく当たり前と思える道筋にThe Grateful Deadと原先生は「そんなのNO<(`^´)>」!!
そうじゃなくて、自分がそもそも与えられている価値は何かを発見し、それを磨き上げ提供することで必要としておられる方に喜んでもらう。教会の言葉でいえば、ミッションに生きること。
The Grateful Deadって、他のグループに比べてものすごく息が長かったそうです。30年くらいとおっしゃってました。それは、彼らを喜ぶ人々の存在。そこで生まれた相互の関係性の深さと共に、虚像ではなく実像として生きられる彼ら自身の喜びがあったからだと思います。
演じて生きるって疲れますよね^^; もちろん、自分が生きたいように生きればそれで良いとは思いません。
でも自分が何者か分かっていなかったら、本当の意味で他者に価値ある物を提供することなんて出来ないし、人に喜びを与えることも本当には出来ないんです。

自分が神様によって与えられている価値を大切にし、ミッションに生きる。多分万人受けはしないと思います。でも本当にあなたを愛してくれる人、喜んでくれる人、必要としてくれる人が見つかります。
あなたに与えられている素晴らしい賜物・価値・ミッションが100人の喜びとなるものだったとして、500人に評価されたい・喜ばれたいと思った瞬間あなたは変質してしまいます。他者の求める自分を演じることで自分を失ってしまうからです。
自分の分を超えちゃダメだし、超えたいと思ったら上手くいきません。それは自分じゃないから。
自分を知り、自分を愛することが無かったら、「あなた」が愛されることも無いですよね。
The Grateful Deadは他のロックバンドのようなメガヒットがあるわけではないそうです。でもコアなファンが居て30年もの間愛され続けた。
僅かな期間で爆発的な人気を博することと、飛び抜けた人気が無くてもありのままを長く愛されること。
幸せなのは後者だと私は思います。

一つだけ知っていて下さい。人が求める偽りの自分が100人に評価されるより、本当の自分を喜んでくれる1人が居てくれる方が人生は絶対幸せなんです。
だからまずは、あなたを喜んでくれる100人を探すことより、ありのままのあなたを喜んでくれる1人に出会えることが目標です!
逆に自分らしさを失った自分が評価されることで、自分は益々惨めになり不幸せになっていきます。なぜなら、偽りの自分が評価されるとは、本当の自分が否定されることだから。

そう考えて行くと、大切なことは「何をすれば、どうすれば」のHow toではなくて、「なぜ上手くいかないのか、なぜ私は存在しているのか、何のために私は生きているのか」Whyに目を向け、そこに明確な答えを得て行くこと。
時間をかかるけれど、この問いを追求していくことは単に事業の成功に留まらない。人生の成功。それは物質的な成功では無くて、生きることの充足としての成功に繋がっていくでしょう。

原先生とスペース伊豆夢の皆さんのご活躍〜本当の意味でのご成功〜をお祈り申し上げます(^^)/
http://hara-k.com/

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2014年02月06日

番外編:佐村河内氏の事件に思うこと

交響曲第1番「HIROSHIMA」などの作曲で知られる佐村河内守氏の主要作品の大半が実は作曲家・新垣隆氏によるものだと分かった事件が連日大きく報道されています。
彼らの行為の問題性は明らかです。特に聴覚障害、被爆二世、こうした弱者を装ったやり方はあまりにも悪質です。ただ、ある特定の人の問題として片付けるのではなく、そのことを生みだした要因をそこに関わる人々が直視することは大切だと思います。
そういう意味で音楽に関わる方々や愛好家がプロアマ問わず率直にこの事件について自分の言葉を発していく必要があるように思います。
私というクリスチャンのアマチュア音楽家が感じたこと、考えたことを自らのブログにまとめたいと思います。

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私はテレビをあまり観ないこともあって、佐村河内守さんの音楽は幾人かの方の紹介でyoutubeで観たくらいでそれ程詳しく知りません。
漠然とした感想として「聴きやすい音楽だな」と思ったこと。そして現代に生きる作曲家がなぜこういうジャンルで曲を書くのか若干不思議に感じたことくらいで、むしろ遥かに印象的だったのは彼の持つストーリー。聴覚を失いながら、音を紡ぎだしていくというその作業。そこから生まれた曲であるという、作曲家と曲が一体化したストーリーが非常に印象深く心に残りました。
被爆二世であること、また特にも音楽をするには決定的なマイナス要因である聴覚の障害を持ちながら、いやむしろ聴覚障害を持っているからこそ生みだされてくる音楽として、彼の作品があることの意味は大きいと感じました。結局その物語が創作であった訳です…。

音楽に限らず芸術は、その作品を生みだしている人と観賞している人の人格と無関係には存在しません。人を離れて芸術作品が自立しているということはあり得ない訳で、人と人との間に音楽が存在する以上、そこに関わる人の持つストーリーが影響を及ぼすことは当然です。
ですから、新垣さんという真の作曲家が判明して今度は彼の作品としてこれらの音楽が変わらずに愛されていくかと言えば、当然そうはならない訳です。その音楽に人々が観ていたストーリーが偽物だと分かった以上、まったく違う物に変質してしまいます。

経営のプロである友人のゼイさんが良くおっしゃっていることは「伝え方」です。ゼイさんの所で勉強しておられるお肉屋さんのチラシをよく拝見するのですが、とっても美味しそうで食べたくなります。
値段や品質よりも、そのお肉を食べた人の感想。お肉をお家で調理して起こった家庭での出来事などが目に浮かぶように書かれていて思わず手が出てしまう。(実際、家族で美味しく頂きました(^^)v オススメ。。。)

で、今回の佐村河内さん事件の核心は宣伝されたストーリーが全くのインチキだったということですね。これは禁じ手です。でも考えてみて下さい。世の中、こういうことは珍しくないでしょう。
今人気のアイドルグループ、メンバーは恋愛禁止だそうです。10代・20代前半の少女たちが恋愛をしていない、そんなはずないこと誰でも分かります。
特定の恋人が居なかったとしても、恋愛感情が無い訳ではありません。無理して装っているだけ。その人本来の人格を歪めて売り出しているだけです。
しかし、演じる側も応援する側もお互いに「これは真実だ」と信じ合う。

そうやって演じる側は、本当の自分を殺して生きることで評価を得、観る側は自分を殺してファンの理想を演じるアイドルに時間とお金を使う。
虚像を演じる人と虚像を支える人、両者の間に成立する共依存関係はこの社会の縮図だと私は思います。「どちらが」ということではありません。両者が求め合っているのです。
今回の佐村河内さんの事件に、私は現代社会が持つアイドル信仰、あり得ない虚像を求める貪欲の問題を思います。だから彼が犠牲者だということではありませんが、このような偽りを暗躍させてしまう土壌は何かを考える必要があると思うのです。

私たちは劇的な物を求め過ぎるのではないでしょうか。佐村河内さんのキャッチフレーズは「現代のベートーヴェン」だったそうです。
偉大なクラシックの作曲家は沢山いますが多くの作曲家は生前それ程高く評価されていません。歴史の中で熟成されながら、巨匠としての地位を得たのであってリアルタイムでは無い。だから良いとさえ私には思えます。
現代にベートーヴェンは居ない、そのことを弁えられないわがままなアイドル信仰を私たちは反省する必要があるのではないでしょうか。

もう一つの側面について書いて終わります。
私は今教会の聖歌隊、そして市内の弦楽合奏団の指揮・指導をしています。どちらももちろんアマチュアです。技術的には未熟です。しかし、しばしば非常に豊かな音楽をそこに経験します。聖歌隊のコンサートでは毎回涙を流して聴いて下さるお客さんがおられます。
先日アマチュア合唱団のヴェルディ・レクイエムの演奏をDVDで拝聴しました。オケはプロです。しかし、そこで圧倒的に印象に残ったのはアマチュアの合唱団の演奏です。感動しました。
これらの経験を通して、アマチュアリズムということを考えさせられるのです。プロフェッショナルな方が専門性を持って突き詰めて勉強していき、結局そこで行きついたこと。専門家として提示される事柄が一般人には何ら意味の無い、意味の分からない物であるということがあるでしょう。

人と人との間に存在する音楽は、遥かに技術的に劣ったアマチュアの方々の音楽であってもそこに深い感動を生みだします。いや、アマチュアだからこそ生みだすことのできる感動があると言えるかもしれません。
一方、プロは専門性において厳しく問われます。それは当然のこととして、しかしプロフェッショナルである方がアマチュアリズムを失ってはいけないのです。高い専門性を持ちながら、一般の人々・愛好家と共有できる音楽の喜び・アマチュアリズムを持ち続けていなければ、プロフェッショナルな音楽家として本来ある意味を失ってしまうのではないでしょうか。

私は今回の出来事が、プロフェッショナルな世界において見落とされがちなアマチュアリズムと、愛好家が求めるアマチュアリズムの枠を超えたアイドル信仰と、この両者の隙間に起こった事件なのではないかと考えています。
そして、これらのことが音楽の世界に留まらない現代に共通する問題に思えてなりません。強く自戒を込めて長々と書きました。

注)全ての音楽家や全ての愛好家をこのように断定しているのではありません。この時代の大きな流れ・方向性として、また特にその中に生きている私自身を思って書きました。


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2014年02月04日

子どもに夫婦関係の愚痴を聞いてもらうのは止めましょう

二週間前に「子どもはカウンセラーではありません」というタイトルのブログを書きました。今日はその続きです。

「子どもカウンセラー」が親から受ける相談のNO.1はなんでしょうか?ずばり、夫婦関係の悩みです...。夫・妻に対する親の愚痴を子どもカウンセラーはたくさん聞かされるのです。色々事情があるのは分かります。伴侶との関係で心を痛めて、名一杯で誰かに話さないではおられない気持ちがあるでしょう。
でも話すべき相手を考えなければいけません。以前にも書きましたように、子どもは自分自身の課題に向き合い成長していくことが仕事です。親の悩みを聞かせ同情させていると、親の気持ちにばかり関心を向けるようになり、肝心の自分自身に向き合えなくなってしまいます。

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今年度最後の伊東牧師司祭会、素晴らしい同労・同志の先生方と共に歩めたことを心から感謝します(^^)/
特に妻・夫に対する不満・悪口、それはすでに関係が終わってしまった仲であったとしても、成長過程にある子どもにぶつけることは良いことではありません。
気持ちは分からないではありません。でもやっぱり、親が子どもにパートナーの悪口(過去の伴侶であっても)を言うことは慎まなければなりません。なぜでしょうか。
仮に、親にとってはすでに「元夫」「元妻」であり他人であったとしても、子どもにとってはいつまでも「父」であり「母」である、この事実は非常に重たいことなのです。

自分自身のことを考えてみて下さい。良くも悪くも両親それぞれの影響を感じない人はいないでしょう。
人は両親があって生まれてくる。神様の定められた真に厳粛なご摂理です。
仮に母親が子どもに対して夫を否定する話しを頻繁にしていたとします。子どもは母親の思いに同情してくれるかもしれません。一緒に夫・父親を非難する言葉を発するかもしれません。
しかし、そうやって片親を非難している子どもは、自分の内にある非難している片親の影響を無意識に感じながら、自分自身の半分を否定することになってしまいます。
あなたが非難しているどうしようもないと思えるその相手が、我が子の父・我が子の母である。この事実は厳しいことですが、尊重し続けなければいけない親としての重たい責任です。

両親がお互いを認め合っている場合、子どもは自分の内にある両親それぞれの影響を肯定的に受け止めることが出来ます。しかし父が母を、母が父を否定するような状況があからさまに見えてしまうと、子どもの中で半分の自分がもう半分の自分を嫌悪する自己否定が起こってしまいます。これはとても苦しいことです。

パートナーとの関係に痛み傷ついているあなたの心はケアされるべきです。信頼できる相談者にぜひ話して下さい。教会は喜んであなたの話を伺わせて頂きます。
けれども、お子さんが父・母をどのように評価するか。それはあなたの夫・妻への評価とは別にお子さんが自分でなさることです。
自分の内にある父・母の影響、自分自身とも言える父・母をどのように評価し、整理し、乗り越えていくか。お子さん自身が、自分の人生の中でなさっていくことですから、親が方向性を示すことではないのです。

理想論でをあなたを苦しめたいのではありません。
お子さんの健やかな成長を願っていますし、あなたの力になりたいと思っています。
ぜひご相談下さい。子育て相談、教育相談、無料でお受けします。電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
そしてぜひ礼拝に足を運んでみて下さい(^^)/
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00


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2014年01月24日

「感謝される機会が少ない仕事」について

「主婦の仕事」と決めつけること自体が問題ではありますが、現実としては多くの場合奥様方が担って下さっている家事仕事。そのご苦労ってなんでしょうか。
主婦の不満として良く耳にするのは「感謝される機会が少ない」ということです。

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主婦の仕事の特徴は現状を維持する役割が多いことです。例えば掃除は小まめにしないと直ぐ汚れたり散らかったりしますから大変です。
けれども、常に掃除が行き届いていたとしても、それは必ずしも目立つことではありません。しかし汚れは直ぐ目につきます。ですから感謝されるよりも、出来ていない場所を指摘される機会が多くなります。
ご主人が朝起きて会社に行くまで家に居て、夜仕事を終えて帰ってきて、その間綺麗に掃除がされていてもそれは「朝と夜と部屋が同じ状態にある」というだけのこととして映りがちです。
いつも電球が切れていないというのは管理が行き届いたことでありますが、「今日も電球が切れていないな」と目を留められることはほとんどありません。しかし電球が切れていると直ぐ目につくのです。
現状を維持する仕事は、そのことがしっかり為されている時には気づかれ辛く評価され辛いものであり、しかし出来ていない場所があると指摘されやすいものです。

どんな仕事にもその仕事固有の苦労があるものですから比較することではありません。
目に見えて結果・成果が現れる仕事と現状を維持する成果が見え辛い仕事と、双方の役割分担があって私たちの生活が支えられていることを忘れないでいたいものです。

新しく生み出されるもの。変化し成長していく物ももちろん大切ですが、昨日と変わらずに今日も存在してくれているもの。明日も今日と変わらずに存在してくれているもの。そういう「日常」と呼ばれる事柄の中に私たちの生活の土台があり支えがあります。
その場所を足場にして家族みんなの生活が成り立っています。
私たちにとって一番大切なものは、新しく手に入れたものではなく、日々変わらずに居てくれる存在や物事の中にこそあるのです。

今日太陽が昇り沈んだこと、月星が輝くことに感謝を覚えたでしょうか。それよりも、思い通りにならない事柄への不満の方が遥かに大きいでしょう。
評価されないお仕事で不満を抱えている方に知って頂きたいことがあります。現状を維持するお仕事の達人、しかも誰よりも評価されない方が居ます。それは神様です...。
こんなに素晴らしい世界を保って下さっている神様はしかしほとんど感謝されることはなく、むしろ思い通りにならないと文句ばかりを言われます。それでも昨日も今日も、そして多分明日も、私たちの生活を支え続けて下さるのです。
神様が整えて下さっている素晴らしい被造物を踏みつけ壊していくわがままな私たち人間を愛し、喜んで支えて下さるのです。なんとありがたいことでしょうか。

感謝されないことの悲しみを抱えておられる方も、感謝に欠けていたと反省される方も、私たちの生き方が変わっていくために一番大切なことは、私たちの人生をもっとも深い場所で支えて下さっている神様への感謝を持つことです。

川奈聖書教会は聖書を通して感謝する人生を、本当に大切な物を尊ぶ人生をお伝えしています。
礼拝に足を運んでみませんか!
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp

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2014年01月18日

過去と現在のあなたは繋がっていますか?

先週の日曜日は本当に嬉しいことがありました。川奈教会の礼拝に高校の時のクラスメートが家族で出席して下さったのです!卒業以来なので実に20年ぶりの再会。感動しました(T_T)

私は高校時代から音楽を専攻していました。県立高校の中に音楽の専攻課程があるという珍しい学校で、何と私の学年は音楽専攻が男子一人だけ、44人の女子の中に私と担任の先生二人だけが男という?!、簡単に言うと女子高生活を体験した男子なのです!
でも優しいクラスメートばかりだったので、いじめられることも、叩かれることも、追い出されることもなく楽しい高校生活を過ごさせて頂きました。
3-8の皆さん、ありがとう!

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二人ともわたしです...

高校時代の友人に久しぶりに再会して、過去の自分と今の自分の連続性ということを考えさせられました。
高校以来20年ぶりの再会です。私の記憶の中ではお会いしたクラスメートは18歳の女子高生だった頃で止まっています。突如再会して、結婚されステキなお母さんになっておられてびっくり仰天します。
そういう意味では20年という時間は実に大きく、ほとんど別人のようになっているとさえ言えるでしょう。けれども不思議なことに、18歳の時のクラスメートと今現在のクラスメートの中に明らかな連続性、繋がりを私は感じました。Mさんの朗らかなご性格、配慮ある言葉遣い、きちっと話しに耳を傾ける真面目さ。全然変わりません!
多分私自身もそうなのだと思います。高校生の時の自分と今の自分、一切何も関係ないように思えるのですが、改めて考えてみるとやっぱり繋がっています。
このような、自分の人生の中にある連続性を発見するとても大切なことではないでしょうか。

色々な経験があります。失敗、挫折、後悔、怒り、悲しみ。
時に私たちは、幼少期のつらい体験、青年期の手痛い失敗、結婚生活で経験した悲しみ・別れなど、過去のマイナスの出来事を否定すること・逃れることをモチベーションに生きていこうとします。
過去の辛い出来事によって傷つき、同じ轍は踏まないとばかりに別人のようになって生きようとするのです。けれども、私たちの人生がある出来事を期に激変し、連続性が否定されてしまうと、以前とは違う自分になれたように錯覚をするのですが、実際はその場所で人生が足踏みしてしまい何も変わっていきません。
過去との戦い。過去を否定する戦いには終わりがないからです。
過去を変えることは出来ませんから、何年経っても、何十年経っても過去との戦いは続きます。その間その人は自分が否定している過去のその時にずっと立ち続けてしまい、前進することが出来ないのです。

過去の出来事を全て正当化する、ということではありません。
失敗を失敗として認め、悲しみを悲しみとして自覚し、痛みを痛みとして認識し、そのようなことを経た自分がこれからどのように生きていくのか。
過去に目をつむり、過去を無かったことにして生きるのではなく、良いことも辛かったことも、意味あることとして人生の糧として向き合い生かしていく。このような歩みが、私たちに成長・前進をもたらすのです。

30年生きた人は30年、50年生きた人は50年、もう記憶にも残っていないような一瞬一瞬さえ、今のあなたと無関係ではありません。無関係でないばかりか、そういう一瞬一瞬の積み重ねゆえに今のあなたがあるのです。
もし人生が堂々巡り、前に進むことが出来ていないなと思い当たる方がおられたら、あなたが今に至った人生の道筋。その一つ一つを受け止めていく作業を為さると良いでしょう。
過去を否定し、過去と決別しようともがいて足踏みを続ける人生では無く、「あの時の自分があって、今の自分がある」と過去の自分を受容すること。過去の自分と今の自分の連続性を認めることの中で、前に進んでいく人生に生きて欲しいと思うのです!

川奈聖書教会は聖書の御言葉通して、あなたの人生が意味あるものであることをお伝えします。
ぜひ礼拝に足を運んでみませんか!
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp

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2014年01月11日

子どもはカウンセラーじゃありません

人は一人では生きていくことができません。誰かの助けを必要としています。
何か専門的なアドバイスを受けるとか、教えを請うとか、そういうことではなかったとしても話しを聞いてもらうこと、悲しみや怒り・痛みを理解してもらうこと、慰めてもらうことを必要とする機会は誰にでもあるでしょう。
自分一人では受け止められないことを誰かに聞いてもらい共感してもらうことで助けられ、前に進むことができるのです。

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礼拝を担当するようになって11年が経ったキリスト教主義老人ホーム 伊豆高原十字の園。施設長の森さんはブログをご愛読下さっているそうで嬉しいです(^^)v

しかし誰に聞いてもらっても良いわけではありません。
まだ未成熟な子育て期間中の子どもに親の悩みや苦しみ・痛みを聞かせることを習慣化するのは決して良いことではありません。
ある局面において親の気持ち、また親の弱さを率直に子どもに伝えることが意味を持つ状況はあるのですが、それはあくまで限定的なケースです。子育て期間中に、日常的に親が子どもを良き相談相手、慰め手としてしまうことは子どもの心に傷を与えます。

「いや、家の子は私の悩み事を聞くのを苦にしていない。嫌ではないと言っている」とおっしゃるかもしれません。
確かに子どもは親の話しを喜んで聞いてくれるでしょう。他の誰よりも自分の痛みを理解してくれますし、深く同情してくれます。親子の精神的な繋がりは特別ですから、子は親の心を自分のことのように受け止める感性を持っています。言ってみれば最高のカウンセラーです。
だからと言って親が子を悩み事の相談相手として利用してしまうとどういうことが起こるでしょうか。

子どもの心は未成熟です。親のことを心配しながら、自分の人生にも責任を持つなどという器用さも余裕もありません。親の不安や問題、苦しみを我がことのように受け止める子どもは自分の人生に鈍感になります。
そして結果的にですが、親の気持ちに関心を持つことで自分の人生を回避する癖がつきます。
やがて様々な場面で自分から目を逸らすために人の人生に過剰に関わろうとする共依存性。もしくは、子ども時代に大人のように振る舞ってきた欠けを大人になって取り返すかのように他者に頼り切る依存性が現れやすくなります。

ですから子どもをカウンセラーにして親の心に関心を持たせるのではなく、自分の人生にしっかりと向き合うこと。悩みや不安、喜び希望、自分の人生に備えられた一つ一つの事柄に正面から向き合い十分に味わっていけるよう促すことが必要です。
そうやって自分の人生に責任を持って生きることを学ぶことによって、やがて成長し本当の意味で他者の痛みを知り、援助できる人間に成長するのです。

子どもはやっぱり親が大好きです。健気なほどに慕ってくれています。親が話さなくても子どもなりに親の苦労は分かっているんです。気遣ってくれているんです。
ありがたいことですよね。だから、それ以上を子どもに求めてはいけません。
では、どうしても辛いとき、苦しいとき、悲しいときどうしたらよいでしょうか。「身近に居て、話すのに手軽で、良く分かってくれる子ども、、、」ではなくて、ちゃんとあなたが相談すべき人を見つけましょう。
人に話すことは悪いことではありません。むしろ人生にはぜったい必要です。恥ずかしいとか、面倒とか、申し訳ないとか、そんなこと言わずに相談すべき人に責任を持って相談しましょう。話を聞いてもらいましょう。それが、あなたが子どものために出来ること。また、しなければならないことです。
子どもには全力で向かい合うべき自分の人生があるのですから!
繰り返しになりますが、言われなくてもあなたのことをとっても心配して気遣ってくれているのが子どもなんです。

あなたの抱える悩み、問題どうぞお話し下さい。
川奈聖書教会はあなたを、そしてあなたのお子さんの人生を応援しています(^^)/
44-1728 E-mail kawanachurch@ybb.ne.jp
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2014年01月04日

あなたはIDカードを持ってますか?

ブログをお読み下さるっている皆さん、新年明けましておめでとうございます!
と言ってもあまり正月気分はありませんが、どうぞ今年もお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

ある方と名刺交換をした際、その方の名刺にびっくりしました。表も裏も、その方が持っている肩書きがギッシリ書いてあったからです。
私がびっくりしたのはその方が沢山の肩書きを持ってらっしゃることではなく、肩書きがギッシリ詰まった名刺を持ちたいと思うセンスです。
でもその方を非難してばかりもおられません。肩書きに対する囚われは、気をつけないとすぐに私たちの内にも起こります。なぜでしょうか。
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元旦礼拝で川奈聖書教会の2014年の歩みがスタートしました!「私は何者か」この問いに聖書を通して向き合っていきます。日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00

普段あまり考えないことかもしれませんが、私たちの人生における一大問題は「自分とは何者なのか」という問いに答えをだしていくことです。アイデンティティという言葉が用いられることがありますが、いまいち漠然としていて分かり辛いかもしれません。
アイデンティティってつまりIDカード・身分証明書のことです。例えば外国に行ったとき、例えば特定の人しか入れない場所に入るときに、自分が何者であるかを証明してくれるIDカード。
私たちは人としての存在においてこのようなIDを手に入れるという課題を持っています。なぜならば、人間は絶対的な存在ではないからです。

この問いに対する答えは、本来的にはその人が持っている身分や地位、経歴とは関係ありません。
何がしかの肩書きがその人の存在を保証してくれる訳ではありません。けれども、一時的な肩書きに手っとり早く自分の存在保証を求めてしまう過ちがしばしばおこります。
名刺にギッシリ自分の肩書きを書いておられた方のように、自分を証明してくれる言葉を一つでも多く、少しでも大きく持ちたいという願望。けれども、そのようにして自分のIDを手軽に得るとどうでしょうか。
もしそのIDを失ったら自分を説明する言葉を失ってしまうから、肩書きというIDを必死に守ろうとするでしょう。
またもっと魅力的なIDを得ようとして、人生の目的が肩書きを得ることになってしまうでしょう。そういう人生はどこかで行き詰まり、無理があらわれます。

別に肩書きが悪いと言っている訳ではありません。今その人が得ておられる役割が何であるかを明確にすることは必要です。けれども、その人が得ている役割と、その人が何者であるのかという問いは異質だということを忘れてはいけません。
老いの中で、病の中で、苦闘しておられる方と関わらせて頂くときに、外面的に得ているIDカードの無力を痛感します。自分が得ている役割としてのIDが全部無くなってしまったときに、それでもなお「私は○○です」と言える言葉を持っているでしょうか?とっても大切な、疎かにしてはいけない問題です。
どんな状況でも自分の内面に「私は○○です」と言える明確なIDを持っている人は最強です!

つまらない肩書きを得て傲慢になるのはやめましょう。
それぞれの役割は尊く意味深いものであっても、それを存在としてのIDにしてしまったらつまらないものにしてしまいます。
○○会長、○○代表、○○先生、○○委員、○○議員、○○士、あっもちろん牧師もそうです。。。存在のIDにはなりません。
健康であろうと、病を得ようと。若かろうが、年老いていようが。尊敬されていても、無視されていても。
「わたしは○○です」と答えられる言葉。

川奈聖書教会は掛け替えのないあなたの人生のIDを見つけるお手伝いをさせていただきます!
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
教会website http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2013年12月31日

元旦礼拝のお知らせ

川奈聖書教会では1月1日午前11時から12時まで元旦礼拝を執り行います。
どなたでもお越し頂くことが出来ます。普段着で気軽に足をお運びください。
今年は教会の礼拝で新しい年をスタートしませんか!!

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2013年12月24日

クリスマスイヴ礼拝のお知らせ

本日24日夜7時から、川奈聖書教会にてクリスマスイヴ礼拝をおこないます。普段教会にお越しではない方、教会に行ったことがないという方もどなたでも自由に参加いただくことができます。
今年のクリスマス、教会で本当のクリスマスを味わってみませんか。
ご用意いただく物は何もありません。普段着でお越し下さい。お待ちしています!

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2013年12月23日

東京に向かうあなたへのエール

先日運転しながらラジオを聞いていると、クリスマスの思い出ということでリスナーからのお便りが紹介されていました。その中に、何年も前のクリスマスの思い出として、以前交際していた恋人との関係についてこんなことが読み上げられていました。

とっても大好きだった彼との関係が、クリスマスの前にひょんなことから破たんしてしまった。ちょっとした誤解だったのだけれども、その時は意地になってしまい相手を許すことができず別れてしまった。
けれども、今でもその人のことを時々思い出す。そして、もしあの時彼と別れていなかったら私の人生はどうなっていただろうか、と考えてしまう。
そんなメッセージでした。
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ラジオのお便りに一々目くじら立てるのもどうかと思いながら、しかし私はその投書をロマンチックなストーリーとして聞くことはできませんでした…。

私たちの人生には確かにターニングポイント・岐路と言える場所があると思います。
そして、後で振り返ったときに「もし別の道を選択していたらどうなっていたか」と考えたくなることはあるでしょう。
自分の選択だけではありません。誰かの影響によって、特にも不本意な事柄の中で心ならずも...、そういうことが自分の人生のターニングポイントになってしまったとするならば、整理することが難しいのは当然のことでしょう。
「もしあのことがなければ」「もしあの人がいなければ」、そうやって何年でも、何十年でも抱え続けてしまう痛みがあります。
けれども一方で「良い」と思えたことが、後になって悪い出来事に変わることがありますし、逆に「悪い」と思えたことが、後で良い経験に変わることがある。これが人生です。
つまり私たち人間には、その時その時に起こる出来事の良し悪しは判断できないのです。
ただひとつ、はっきりとした人生における不幸があるとしたら、それは「悪い出来事」と判断された事柄が5年たっても10年たっても20年たっても、なお「悪い出来事」のまま変わらずにその人の人生に置きっぱなしにされることです。
そして何か辛い時に、苦しい時に、その場所に戻って「あのことのせいで私の人生は」と愚痴ってしまう。

しかしそうやって、事あるごとに不幸な過去の出来ごとに逃げ込んでしまう人生は積み上げられていきません。10年前に起こった不幸を、今でも辛いことがあると「あの時のせいで」という人は、結局10年間同じ場所で足踏みを続けているということです。
「あの人と結婚したせいで」「あの時会社が倒産したせいで」「あの時、あちらの道を選んでおけば」、そうやって私たちが振り返ってしまう、逃げ込んでしまうその場所から私たちの人生は一歩も前には進んでいないのです。 
悪い出来事を、悪いことのまま放置する人生の不幸とはこういうことです。

今回のあなたの選択があなたの人生を決めるのではありません。
大切なことはこの選択を、また過去に起こった様々なことを逃げ場所にしないこと。
クリスチャン詩画家の星野富弘さんが「悲しみの意味」という詩を読みました。
「冬があり夏があり、昼と夜があり、晴れた日と雨の日があってひとつの花が咲くように、悲しみも苦しみもあって私が私になってゆく」

東京に移る人生のこの転機も、あなたが益々あなたらしくされていく大切な人生の時だと私は思っています。だから、前を向いて進んでいってください!これからも応援しています(^O^)/
牧師 山口

posted by pastoryama at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 番外編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

影響力のある言葉を発するために

小言は子育てしていると“いけない”と思いながら、中々止められないものですね。
小言とを辞書で引くと「細かいことをいちいち取り立ててしかること。また、その言葉。」だそうです。私自身も子育て中の親として耳が痛いです...。

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本文とは何ら関係ない恐怖の「勝手に宣伝コーナー」。やっぱりこの方!! 誠実&一生懸命な人を応援しないではおられない温かいお人柄の原眞人税理士さん!私の大切な友人です。http://hara-k.com/

小言の一つの問題は、常時細かいこと・小さいことにガミガミ言っていると、いざ「これは重大」と思って注意した時に効き目があらわれないことです。
細かい事柄について日常的に注意を受け続けていると傾向として、細かい事柄に神経質と思える程注意深くなる一方で、周囲の人が唖然とするような大きな問題に対する無頓着が現れます。
大雑把な人は細やかな場所が行き届かなくても全体としてはバランス感覚に優れるという長所が現れやすく、一方細かい人というのは逆に全体としてみるとアンバランスを抱えていることが多いです。細やかにあれこれ気を使っているので、逆に注意力が散漫になる落とし穴がぽっかりどこかに開いてしまうのです。
つまり、人間が注意出来ること、気をつけられることには限界があるということです。

ですから、子育ての中ではやはり気になったことを片っ端から注意するのではなく、本当に気をつけて欲しいこと。子どもが成長していく上で欠かすことが出来ないと思える事柄と、そうではないことを取捨選択することが必要です。
特にお子さんが大きくなって来た時には、ドンドン親の言葉を受け入れる余地が少なくなります。お子さんが受け止めてくれる僅かな場所を小言で使ってしまうのは勿体ないですね。
お子さんに親として伝えたいこと、大切にして欲しい場所を、親自身の内でまず明確にしておく必要があるでしょう。

これは子育てに限ったことではありません。言葉に影響力を持つためには言葉の無駄遣いをしないことです。
「あの人が発する一言は重たい」そういう経験ってありますよね。小言など普段言わない人が、何か静かに一つの注意を口にするとその言葉が大変な影響力を持つのです。
例えば往年の名指揮者がほとんど体が動かなくなって、腕も満足に上がらないような状態でしかし名演奏を生み出すことがあります。それは、ホンの僅かな動きが逆に際立って肝心要の場所で大きなメッセージが伝わるからです。

一方で日頃から細かいことにあれこれ言っていると、いざという時に「またいつものあれか...」と耳を傾けてもらうことが出来ません。そうすると今度は、普段よりも更に大声を出したり、汚い言葉・威圧的な言葉を使ってことの重大性を表さないではおられなくなってしまうのです。
仮にそうやって人を動かすことが出来たとしても、関係性は壊れてしまいますし、不満が蓄積されてしまい後々必ず行き詰るでしょう。

人間が注意力を働かせることが出来る範囲には限界があります。親として子どもに与えられる影響力にも限界がありますし、子どもの成長と共に影響力はドンドン低下します。
集団の中でも同じです。健全な関係性の中で及ぼすことが出来る影響力はそれ程大きなものではありません。もしずば抜けて強い影響力を持っている人がいたとしたら、それはその人の振る舞いの中に大声や威圧的な言葉など不適切なものが含まれている可能性があるでしょう。
健全な関係性に留まりながら、限られた中で影響力を及ぼしていくことを考える時に、子どもに対して、隣人に対して、集団に対して、あなたが伝えたいこと。伝える責任があることを整理しておく必要があります。
いや、整理する前に自分にとって大切なものが何であるかをしっかりと弁え、そこに立って生きていることが必要です。自分自身の価値観が曖昧だから、あれこれ構わず口出ししてしまうのかもしれません。

子育てにおいて大切なことは、親自身が人生において価値あるものが何であるかをしっかりと弁えていること。そしてその価値観に相応しい人生を目指して生きていることです。
ぜひ教会に足をお運びください。聖書には本当に大切なものが何であるかがちゃんと書いてあります!
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
礼拝はどなたでもお越しになることが出来ます。
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00


posted by pastoryama at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 子育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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