2014年10月04日

退屈な人生の原因は?

伊東大田楽を観賞してきました。
今回は一般参加のお子さんたちも居たのでとっても賑やかでした。何の分野でも子どもたちが一生懸命取り組んでいる姿は良いものだなと改めて思いました。
ぜいさん夫妻のお嬢さんがいつも熱心に練習しておられて、最近良く大田楽のステージを見させて頂くのですが、あの単純なメロディとリズムの繰り返しの中に生まれてくる深遠な世界は癖になります。今や大田楽ファンです!

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クラシック音楽は基本的に同じことの繰り返しをしません。同じフレーズであっても二度目であることの必然的な変化というのを必ず表現するのです。
繰り返しといえばラベルのボレロが有名ですが、同じフレーズの中にこそ壮大な変化が表現されていきます。
https://www.youtube.com/watch?v=3KgpEru9lhw(←関係ないですがこのボレロは面白い)
一方大田楽のような音楽は、むしろまったく同じように繰り返される音とリズムの中にこそ美を見るのでしょう。延々と続く同じことの繰り返しの中に不思議と馴染んでいき深まっていくリズム・メロディが実に心地よく退屈しません。
それは恐らく、変わらない音楽の中でその音楽を受けとめている私自身が変化していくからです。同じことを経験している中で、自分自身が変化し、同じ音楽が受けとめる私の変化の中で新しい意味をもつようになる。
西洋音楽と東洋音楽のアプローチの違いのようなことを考えていました。

私たちの人生も同じではないでしょうか。
ともすると「単純な毎日の繰り返し...」と日々の生活をつまらないものと文句を言ってしまうことがあります。
毎日同じ時間にご飯を作って、洗濯機を回して、掃除機をかけて...。毎日同じ時間に起きて、ご飯を食べ、満員電車に揺られ、会社に着き...。
そうやって同じことの繰り返しに満足できなくなった時に、詰まらぬ変化に心を奪われ自分を支えてくれている変わらない大切なものを粗末にして、人生を傷つけてしまいます。

人生を退屈してしまう原因は変わり映えしない日々の生活や周囲の人々にあるのではありません。変わることができない、成長出来ない自分が居て、同じ事柄の中に新しさを見出すことが出来ていないのです。
同じことの繰り返しの中でも自分自身が成長していけば、そこにはいつも新しさがあるはずです。
楽器でもスポーツでも、何をするにも反復練習は大切です。例えば、フルート初心者の家の長女が取り組んでいると同じ基礎練習曲をフルーティストの義妹は今もこなしているそうです。
同じ練習であっても、演奏する本人が成長することでその練習が益々深い意味を持つということでしょう。

今日が、明日が、退屈な変わり映えしない一日であるか、はたまたワクワクするような新しい一日であるか、そこに生きる私たち自身が問われていることを受けとめることができたら、それだけで私たちの人生は前に進み始めるものです。
たった一度の掛け替えの無いあなたの人生が素晴らしいものとなるように、川奈聖書教会はあなたを応援しています!
牧師とお話ししたい方はE-mail kawanachurch@ybb.ne.jp 44-1728 気軽に連絡下さい!

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2014年09月03日

子どもは大人に悩んで欲しいんです

子どもさんのことで相談頂き関わらせて頂く中で、結果的として良い方向に進んだのだけれども、しかしなぜ問題が改善したのか理由は良く分からない、ということが案外あります。
一つの理由は、問題が解決していった要因が幾つかの事柄が複合的に繋がり合った結果だったからということです。様々なことが上手く連動した結果、問題が解決していくということは多いように思います。

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9月6日(土)午後一時半から読み聞かせ会開催します。今回は読み聞かせ+浦島さんのミニライブ!!ぜひ遊びにいらして下さい。

もう一つしばしば感じる大切なことは、親御さんや援助者が何かをしたからというのではなくて「どうしたらよいだろうか...」とその子のことで散々頭を悩ませ、時間を使い、あれやこれやと行動し、そうやって自分に関心を向けてくれている人たちの存在を感じながら、それを力にして前に進み出すということがあるように思うのです。

子どもたちとの関わりは難しいです。私自身、思い悩むことが本当に多いです。そしてまた、子どもを援助していく時に考え込んだり悩んだりという行為は不可欠だとも思っています。
子どもさんというのは、実は誰よりも自分に必要なものが何であるかを知っています(もちろん無意識にでありますが)。
子どもが大人の頭を悩ませる時というのは、往々にしてその問題を通して周囲の人たちが自分に目を向け、関心を持ち、時間を使い、そうやって自分に注目してくれることを必要としている時なのです。
私たち大人は子どもたちの成長を応援することは出来ますが、子どもたちが直面する課題を替わってあげることは出来ません。
どこかの段階で、子どもさんが自分自身と向き合い、目の前の課題に挑戦していくしかありません。
そうやって前向きな一歩を踏み出していくためのエネルギーが不足している時に、子どもは何がしかの問題行動などによって大人の関心を無意識に自分に向けようとするのです。

ですから、子どもとの関わりにおいて必要なことは真剣にその子のことを考え、本気で悩み苦しみ、時間を使うことです。何をどうするかテクニックの問題ではなくて、「どうしたら良いのだろうか...」と自分のために真剣に悩んでくれることをこそ、子どもたちは求めています。
専門家がああだこうだもっともらしい話しをしてもあまり役には立ちませんし、そうやって自分を単純化され安易に答えを出されることは悩みの中にある子どもたちにとって一番不本意なことではないでしょうか。

自分のために悩んでくれる人がいる、心を痛めて心配してくれる人がいる、時間を使ってくれる人がいる、そうやって自分のために犠牲を払ってくれる人たちの存在の中で自らの価値を確認し、愛されていることを感じながら、子どもたちは自分の足で一歩を踏み出していく力を得ていきます。
そして、真剣に子どもさんのために悩めた時ほど、不思議と「悩んでいた私たちは一体なんだったの??」と思えるほど、ある日突然何事も無かったかのように子どもさんが前に進み出すようなことが起こります。

正解を出すよりも、悩んであげること・考え込んであげること・右往左往してあげることの方が大切な時があります。
川奈聖書教会では無料で教育相談、子育て相談をお受けしています。
教師歴34年の浦島さんと牧師の山口が、あなたと一緒に「ああでもない、こうでもない」とお子さんのことに頭を悩ませます!気軽に連絡して下さいね。
kawanachurch@ybb.ne.jp 44-1728

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2014年08月18日

孤独とどう向き合うか

現代人は孤独が苦手です。そしてまた「孤独=悪」という発想があるように思います。しかし私たちの生活には孤独が必要です。

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最高に楽しかった教会学校キャンプ!!子どもたちの人生を替わりに生きることは出来ませんが、自分の人生を小さな足で踏みしめ歩こうとする子どもたち一人一人を教会学校は全力で応援しています(^^)/

数年前、クリスチャン新聞の新年号に掲載する説教の依頼を頂きました。「地方教会の苦労とその中に見出される望み」というようなテーマを頂いたように記憶しています。
それで今から7年前くらいに起こった一つのエピソードを紹介しました。ある朝、外階段を降りて教会の玄関の前に立つとそこにビリビリに破かれた聖書が散らばっていたのです。散乱する破かれた聖書を拾い集めた時の悲しみは忘れられません。
しかし、そうやって「こんな辛いことがありました」と紙面に書ける苦労というのは本当の苦労ではありません。本当に苦しかったこと、辛かったことは紙面には書けません。いや、書いてはいけないことなのです。

しばしば孤独についての悩みを伺う機会があります。「そんな物は悩みでは無い」というつもりはありません。ただ、その悩みは決して思いがけないことでは無いのです。
私たち全ての人間には神様から与えられた使命があります。そして、自分に与えられた使命を果たすためには孤独は避けて通れません。なぜなら、それが「あなただけに与えられた特別な仕事」だからです。

いつもブログに書きますように相談することは大切です。「孤独な場所こそが私の使命」と耐えられない苦しみを黙って担い続けることをおススメしているのでは決してありません。
人は一人では生きられません。助けを必要としています。友を必要としていますし、助言をくれる先生が必要です。私自身ももちろんそうです。
ただ自分に助けが必要な時には、責任を持って相談しなければいけません。
「これは私には負い切れない重荷であるから助けを求めよう」、と自覚的に信頼できる人や力になってくれる人に助けを求める、これは責任ある優れた行動であって何ら恥ずべきことではありません。しかし、現代においてはしばしば孤独を安易に(厳しい言葉を使えば“無責任に”)回避してしまうのです。

最近ですとSNSなどで自分の近況を簡単に発信することができます。
SNSは良い意味で孤独を回避するツールだと感じる面は多々あります。例えば病院に入院している時に、病院に居ても家族や友人の様子を知り繋がることが出来る。外国でコミュニケーションの困難やストレスの中にある時。子育ての苦労の中で友達と関わることが中々出来ない状況。などなど、SNSは人生の危機の中で非常に有益な助けになる面があり大いに活用されるべきだと思います。

でも一方で、あまりにも手軽に聞いてもらえる、知ってもらえる、励ましてもらえるゆえに、自分自身で向き合わなければいけない課題や責任を安易に公開し、「いいね!」と応援してもらったり「大変だね〜」と慰めてもらえたり、「そうだそうだ」と同調してもらったり、そういうことがあるのではないでしょうか...。
私たちの人生には責任を持って向き合わなければいけない「必要な孤独」があります。理解されない苦しみや、誤解される悲しみ、先行きの見えない不安、人の不条理、仕事や家事の苦労、身に覚えの無い批判、様々人生に「孤独」があるでしょう。
繰り返しますが、そう言う中で相談したり助けを求めることを「悪い」と言っているのではありません。ただ、相談したり助けを求める時には、責任を持って自覚的にそのことを為すべきです。自覚的に「孤独」に向き合い生きることの中で人間は成長するのです。
一方、その場所を「安易」に、「無責任」に扱っていると、人生はドンドンと綻んでいきます。SNSの依存症の要因の一つもこういう所にあるのではないでしょうか。

私自身もfacebookを多用して、皆さんに「いいね!」といつも励まして頂いて本当にありがたく思っています。だからこそ、自分の担うべきものにはしっかりと向き合いけじめをつけていきたいと自戒させられますし、助けが必要な時には自覚的にしっかりとそのことを相手に伝え、助けを得ていこうと思います。

川奈聖書教会は自分の課題に向き合おうとするあなたをいつも応援しています。
あなたの人生を替わりに生きることは出来ません。でもあなたが自分の人生に向き合おうとするその思いを精一杯応援させて頂きます!いつでも連絡下さい。
Email kawanachurch@ybb.ne.jp
44-1728


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2014年07月30日

もう取り返しがつかないと思った時こそが人生の岐路

ブログを書いたりFBをするようになって、より多くの方と知り合いご相談頂く機会が増えているように思います。しかし私の力不足もあって、中々有効なサポートにならないこともあり申し訳く思うことも多々あります。
相談にお見えになり心機一転歩み出す決意をなさっても、その気持ちを持続できず失敗を繰り返してしまわれる方もおられます。

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伊東に赴任した頃、下田から遥々伊東市の牧師会に参加しておられた故松本牧師のご子息が南伊東でmakotoというケーキ屋さんをなさっていました(^^)/ホントにびっくりしました〜。南伊東の靴流通センターの裏にあります。「牧師ブログを見て来た」と言って下さいね。サービスしてくれます。。。

「三歩進んで二歩下がる」などと言いますように、一足飛びに人生が進む訳ではありません。
でも私たちの人生にはそれどころではなく「二歩進んで三歩下がる」と言えるような、むしろ人生が後退してしまうような出来ごとが起こるのです。
人生つまづいたり失敗することは避けられません。大切なことは失敗しない、つまづかない人生に固執することではなく、避けられない失敗・つまづきの中でその次にどのような一歩を選ぶか、ここにあると思います。

しばしば私たちがやってしまう悪い選択は、失敗に失敗を重ねることです。
失敗したことを受け止められず、今度はそれを隠すためにより大きな過ちを犯し、その過ちを誤魔化すためにまた...、と過ちのスパイラルに落ち込んでしまうことです。
失敗した時に大切なことは、速やかにその失敗を認めることです。そして誰かに迷惑をかけたならば言い訳をせずに謝罪すべきです。そうすることで、それ以上の後退を防ぐことができます。
このことが疎かになると、歯止めが利かなくなりどこまでも後退していってしまうのです。

例えば受験に失敗したお子さんが「もう自分の人生オシマイ」と思って絶望してしまわれるようなことがあります。
大人は「何を受験の一つくらい」と思うのですが、子どもさんにとっては受験の正否が「生きるか死ぬか」と思えるほど大きなことに映ってしまうのです。
同じように周囲からみたら、まだいくらでも取り返しがつくと思える状況であっても、本人にとっては絶望的に思えてしまう、そういう状況があるでしょう。それゆえ何とか今の場所に留まりたいと思って、失敗を認めず誤魔化し続け、そうやってドンドン状況を悪化させ結果として失う必要の無いものまで失ってしまうことになります。

大きな失敗を犯した時、大問題が起こった時、私たちがそこで次にどのような一歩を踏み出すか、ここが人生の分かれ道です。
とても大切なことです。人生の分かれ道とは、私たちが自分に見切りをつけたくなる場所や出来ごとの中にではなく、そのもう一歩先にあるものなのです。
私たちは失敗したり、つまづいた瞬間に「自分は人生の落伍者」と見切りをつけたくなりますが、本当に大切なのはそう思った時の自分です。
絶望した瞬間こそが人生の岐路なのです。今ここで自分がどのような選択をするかこそが、決定的に重要であることを思い出して欲しいのです。

「二歩進んで三歩下がる」ような経験、いえ「二歩進んで十歩下がる」ようなことも起こるでしょう。
自分のこれまでの人生が全て無駄になってしまうような出来ごと。それでも、なおそこからまた一歩前に足を踏み出していく、その一歩を私は応援したいといつも思っています。
イエス様の12弟子は全員イエス様を裏切りました。その中でイスカリオテ・ユダはイエスを裏切った自分に絶望し、自らに対して見切りをつけてしまいました。他の11人の弟子もイエスを裏切ったのですが、しかし彼らは裏切り者の自分に見切りをつけることをしませんでした。
自分の愚かさにも増してこんな自分を愛してくれる神様の深い憐れみに目を向けていったからです。そうやってなおキリストのご愛に促されながら一歩前に足を踏み出していった、その一歩から今に至る教会の歴史が始まりました。

私たちが今生きていること、それは神様が私たちに見切りをつけていないことの何よりのしるしです。
生かされている私たちは神様に愛されているし、神様は私たちに望みを抱いて下さっているのです。非は認めなければいけません。批判されたり、叱責を受けることもやむを得ないでしょう。
そこであなたがどうするか、これが人生の本当の岐路です。そこでなお、前に一歩足を踏み出そうとするあなたを私は応援します。そして神様の目に、その一歩は本当に尊いものだと信じています。

掛け替えのないあなたの人生を川奈聖書教会は応援しています!
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp

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2014年07月11日

幸せに値する存在だと信じていますか?

子育てにおいて、どこかで親は「子どものことは親の私が一番分かっている」と思っているものです。
けれども、案外そうも言いきれない所があります。
聖書の中にイエス・キリストがご自分の郷里に戻って伝道された場面が出てきます。どこに行っても尊敬を集めていたイエスでしたが、郷里ナザレの街においてだけは人々の反応が違ったのです。
歓迎されなかった訳ではありませんが、人々はイエスの言葉を敬意を持って受け止めることが出来ませんでした。「小さい頃から知っているイエス、立派になったイエス」という反応。つまり「あのイエス君が立派になって」というようなことでしょう。
ナザレの街の人々はイエスを幼いころから知っていたのです。そういう「自分たちはあの人を知っている」という先入観が邪魔をして、イエスの教えの新しさに目を開かれなかったのです。

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先日桜の里で行われた青空市で相棒ゼイさんと演奏してきました。ステージでも歌いましたがリハーサル替わりにのんびり演奏していたこっちの方が自分たちらしくて良かったと、これが二人の共通した結論でした。自分の個性を大切にしたいと思います。。。

こういうことが子育てにおいても起こります。
「家の子はこういう子」と親が子を決めつけてしまうことの中で、子どもさんが持っている可能性、成長の余地を見出せず親が考える限界の中に子どもを押し込めてしまうのです。
一方で、ほとんど面識の無い人が、子どもの可能性をスッと見抜いて導いてくれる。「この子にこんな一面があったとは!」そういうことがあるでしょう。 

以前参加していたある精神科医の先生の勉強会で「それ程経験を積んでいない若い医師が、経験を積んだベテラン医師が驚くような治療成果をあげることがある」と言う話しを伺いました。
その先生がおっしゃるのは、精神科医が経験を積み重ねると“この患者さんがどのくらい回復するか”早い段階で大体の予想がついてしまう。そうすると結局、医師が見込んだ程度までしか回復しないと言うのです。
しかし若い医師には経験に基づく予想が立たないゆえに、何とか出来ないかと精一杯関わり結果としてびっくりするような回復に繋がることがある。
こういうことは様々な分野において当てはまる先入観の弊害を教えているように思います。

「幸福になりたくないと考えている人はいないが、自分は幸福に相応しくないと考えている人は多い」とある心理学者が言いました。
幸福を求めながらも、一方において“自分は幸福に相応しくない、自分の人生はこの程度だ”と見切りをつけている人はとても多いのです。
このような思いに囚われてしまうことの原因の一つとして、虐待をあげることができます。
家庭において親から虐待を受けてきたお子さんは、“自分はそのように扱われるのが相応しい人間だ”と思いこんでしまいます。
虐待を受けた方が成人した時に、暴力をふるうパートナーを選びやすい傾向があると指摘されますが、それは無意識に自分が思いこむ自分のイメージに相応しい相手を選んでしまうからです。
毎日のように起こる親の夫婦喧嘩、愛情の欠如など辛い環境で育つお子さんは、自分に相応しい生活環境とはこのようなものだと受け止め、結局そのような自己像に見合う環境を常に作り出してしまいます。
どんなに幸福を求め、幸せな家庭・結婚を求めても、自分には相応しくないと思っていては現実は違うものになってしまうのです。

あなたが思い込んでいる自分、「自分なんか」というその思いを変えていかなければいけません。人生は結局、自分がイメージしている自分に相応しいものにしかならないのです。
聖書はあなたが神の目に掛け替えのない、代えのきかない、世界にたった一人の大切な存在であると教えています。この新しい事実を染み込ませて行く時に、結果として私たちの人生は必ず変わっていきます。
自分とは何者か。自分の価値とは。自分は幸せになるに値する人間なのか。そういう自己像を聖書を通して問い直し、考え直してみませんか。

川奈聖書教会はあなたの掛け替えのない人生を応援しています。
日曜礼拝 朝10時から12時 火曜礼拝 夜7時から8時 何の準備もいりません。どなたでもお越し頂けます。
牧師とお話ししたい方はE-mail kawanachurch@ybb.ne.jp 44-1728 気軽に連絡下さい!

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2014年07月04日

必要な助言とは

先月のことですが所属する教区の牧師会が川奈聖書教会で行われました。
20名くらいの牧師さんたちが集まって下さいました。色々審議などもあったりするのですが、厄介なのは会場教会の牧師が担当する説教演習。
大先輩から後輩さんまで様々な牧師を前に、その週の礼拝で語った説教を披露し批評してもらう時間です。
神学校で学んでいる時にはこの説教演習で毎回ズタボロに叱られて、最後は叱られ慣れてしまう程ですが...^^;、牧師になると中々そういう機会はありません。
ですから厄介ではありますがとっても貴重な機会。それぞれに心のこもった感想、気付きをまとめて下さって本当にありがたく思いました。

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一番上は見本。この下に20枚近く、様々な牧師さんから頂いた私の説教への助言がギッシリ書かれています(^^♪

自分を客観的に見つめ続けることは誰にも出来ません。
「自分は大丈夫。自分のことは自分が分かっている」と思っている方はすでに自分自身を正しく見つめる目を失っていると言って間違いないでしょう。
例えば様々な方の相談に乗るカウンセラーは必ず定期的に「スーパーパイズ」と言ってカウンセラーのためのカウンセリングを受けることが勧められます。
私が尊敬しお世話になったある分野において第一人者と呼ばれるカウンセラーの方は、今なお欠かさず定期的なスーパーパイズを受けておられます。
私自身も色々な方のご相談を受ける立場にあるからこそ、年に一度は必ず信頼する方のスーパーパイズを受けるようにしています。
人の意見、忠告、戒めを頂くことは決して楽しいものではありませんが、しかし絶対に必要です。

相談をお受けする時に、大きく分けて二つのタイプの方がおられます。
一つは客観的なアドバイスを得ることによってより良く生きていきたいと、耳の痛い言葉をも受け止めようと本気で助言を求めてこられる方。もう一つは、自分のしていること・やっていることをとにかく「それで良い」と肯定してもらいたい方
助言を求められたので良かれと思ってアドバイスしたら相手が不機嫌になった、という経験を皆さんお持ちだと思います。それはそもそも相手が助言を求めていたのではなく、ただ自分を肯定して欲しいだけだったのです。

助言とは字のごとく、“助けとなる言葉”です。例えば子どもが道路で遊んでいるのを見て「元気で良いね〜」と声をかけることと「道路で遊んではいけない!」と叱るのと、どちらが相手を生かす言葉か。助ける言葉か。それは明白です。
私たちは「あなたは正しい」「それで良い」と言ってくれる声を求めやすいものです。
でも、私たちが生きている場所が、私たちの生き方が道路の真ん中で遊んでいるような危険なものであったとして、「それで良いよ」と言ってくれる優しい人がいたとしてその言葉に愛はあるでしょうか。
そもそも、表面的に自分を肯定してくれる言葉だけを求める私たちは、自分自身を愛していると言えるのでしょうか?

聖書の中にこのような言葉があります。「戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道」
あなたが必要としている助言は、あなたの聞きたい言葉を発してくれる相手にではなく、あなたが聞きたくないと思っている相手の内にある言葉なのかもしれません。
無意識に避けてしまっている人、早くいなくなれば良いと思っている面倒な人、、、でもそういう人の存在が私たちの人生を守ってくれているということがしばしばあるのです。
そして、面倒なことを言われなくなってヤレヤレと思った所から私たちの人生は綻んでいくのです。
無責任な肯定の言葉ではなく、愛のある諭しの言葉を大切にするものでありたいと思います。

聖書は神様からの愛のメッセージ。慰めの言葉も戒めの言葉も、全てが私たちへの愛によって貫かれています。
聖書を通して神様からの助言を聞くことは、私たちの人生の歩みを確認する大切な機会になるものです。
ぜひ教会の礼拝に(^^)/ 日曜日午前10時半から12時 火曜日午後7時から8時
どなたでもお越しになることができます!

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2014年06月19日

一方通行から双方向の関係性に

サッカーのワールドカップ、盛り上がっていますね。
日本の初戦は残念な結果でしたが、選手の皆さんには次の試合に向けて切り替えて頑張って欲しいです!
最近しばしば思うのですが、サッカーに限らずスポーツで自分の応援していたチームが負けた時の選手に対する悪口雑言は酷いなぁと...、うんざりです。
調子の悪い選手、ミスをした選手に対するファンの怒り。それだけ熱心に応援しているということかもしれませんが、人格を否定するような言葉には違和感を覚えます。
テレビの向こうの別世界の存在だから...。庶民が一生かかっても稼げない額の給料もらっているんだから...。色々理由はあるでしょう。プロですから批判にさらされることも当然でしょう。しかし、スポーツ選手も一人の人間。人格を否定するような言葉を浴びせるべきではありません。

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私の家の本棚もただいまワールドカップ仕様です(^_-)-☆

バーチャルな時代の弊害でしょうか。他者に対する想像力の欠如が、年齢を問わず顕著のように思います。
テレビの向こうの存在に留まらず身近な存在。家族に対してでさえ、人格的な存在として認識することが出来なくなっています。
相手を利用していかに自分を満足させるかという発想ばかり。伴侶も子どもも、自分を満たすための道具に過ぎず、そこでかえって手間がかかったり相手のために犠牲が求められる状況に陥ると、相手を足手まとい・お荷物としか感じなくなります。
性の商品化という問題も同種のことです。人格的な関わりを失って、異性を道具としか見ることが出来ない思考の中で、相手を使って自分を満足させることだけを考えてしまう。
そういう寂しい人間関係の中では心の充足などあり得ないことです。

私の友人のゼイさん(原眞人税理士)が、一年前にシェアというキーワードを掲げてスペース伊豆夢というコミュニティーをスタートしました。
昨日のブログにはこのように分かりやすくコンセプトがまとめられていました。http://ameblo.jp/hara-ism/entry-11876662190.html
「地元、伊東市の経営者が自分の持っているスキルや情報をシェアし合って共有し、お互いの経営に役立て、この町の経済の活性化の一助とする」、まだまだ「勉強会」と誤解されることが多いとのことでしたが、友人ゼイさんのこのような高い志、そしてそのコンセプトを理解して集まっておられるメンバーの皆さんを心から尊敬し応援します!

私たちの生活は「代金を払うから、それ相応の物を出せ」というパターンにどっぷりはまっているのではないでしょうか。同じように人間関係においても自分を満足させてくれる相手を求めて、自分にとって役に立つ、利用できる存在を一方的に求めるのです。それを人間関係と誤解しています。
結局、あらゆる事柄・存在が「物」としてしか見られません。

けれども本当の関係性とは、相手を知り、相手の特徴・思い・考え・家族・職業、すなわち相手の人生全体に興味を持ち、また逆に自分に関心を持ち自分を知ってもらう。そのようにお互いの個性・人格を知り合い、尊重し合う繋がりに始まるものです。当然一朝一夕に手に入るものではありません。
「人格的な関係性」と「物としての関係性」の違いは、相手を尊重しようとする思いがあるか、相手を使って自分を満足させることだけを考えるか。つまり、一方通行と双方向の違いです。そして、私たちの人間関係はしばしば一方通行になってしまいます。
相手に知られることだけ・満たされることだけを求める人と、相手を知ることだけ・相手を満たすことだけを求める人が繋がり合う一方通行の関係性。これは共依存です。
ゼイさんの掲げる「シェア」のコンセプトは、正にこの場所への挑戦。双方向、つまり人格的な関係性を目指したものなのなのだと私は思います。
自分のニーズだけ、相手のニーズだけが満たされるのではない、お互いを尊重し合う本当の関係性の中で相手を喜び、自分も喜ばれる。

イエス様が残して下さった大切な教えは「互いに愛し合いなさい」です。自分を愛することと、他者を愛することが調和する、そういう繋がりを教えて下さいました。
一方的な満足を求める生き方はやめましょう。そうやって他者を道具のようにして損か得か、利用することばかり考えていると、あなた自身も誰かの道具にされてしまいます。そして、そんな生き方の中に充足なんて決して生まれません。

与え合う双方向の関係性、、、ずっと昔物々交換によって人々の生活が成り立っていた時代。物々交換は、自分の必要を得る喜びだけではなく、相手が必要としている物を提供できる自分を喜び、そうやって物を得るだけでは無い。お互いの存在を喜び合える豊かさがあったのではないかと想像します。
私たちが本当に求めているのはより多くの「物」ではなく、人と人とが繋がり合う本物の関係性です。物もその助けになるかもしれません。でも物が私たちを満たしてくれることは決して無いのです。
まずはあなたの周囲に居る人の人格を認め、双方向の関係性の構築にチャレンジしてみませんか。

あなたの掛け替えのない人生を応援している川奈聖書教会 山口でした(^^♪
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2014年06月12日

絵本を使った子どもとのコミュニケーション

「子どもの気持ち・心の内にある思いを親はどのように把握して行ったらよいのか?」というご質問を頂きました。
とても大切なテーマなので、今日は具体的なお子さんとのコミュニケーションの取り方について、一つのアイディアですが紹介させて頂きます。

幼稚園生とか小学校低学年くらいだと子どもは親に何でも話してくれているように思いますが、しかし案外言葉として出て来ない感情を子どもが抱え込んでいることがあるものです。
それは親に隠しているというよりも、上手く言葉に出来ないことが多いように思います。子どもは大人と違って、自分の心を客観視することが出来ません。ですから、心にある感情を言葉にして伝えるのは非常に難しいことなのです。
「何か心配なことは無い?」「困っていることは?」と言葉をかけることは良いことですが、そのようにして関心を持っていても結局把握することが出来ていない問題があった、ということは子育てにおいて良く起こることです。

子どもさんのカウンセリングの際に「エモーションカード」という道具を使うことがあります。
色々な感情、表情が描かれたカードがあって、それをゲーム感覚で使いながら子どもさんの素直な感情を引き出し、聴きとっていきます。
こういうことは、必ずしもそのような特別な道具が無くてもお家にある絵本で代用できます。

先程寝る前の娘と絵本を読んだので、その本を題材にして一緒に考えてみましょう。
「うみべのいえの犬 ホーマー」という本です。
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ゴールデンレトリバーでしょうか、ホーマーという可愛いワンちゃんが主人公。ホーマーのお気に入りの場所は海が見渡せる玄関前のポーチ。今日もホーマーがそこに寝そべっていると、仲間の犬たちが「遊びに行こう」と誘いにきますが「ぼくはいいよ」と答えます。
それから飼い主家族が海水浴や砂浜遊び、お花畑、買い物などに次々誘いにきますが、ホーマーは「ぼくはここにいるよ」と答えます。
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そして皆が外で楽しそうにしている様子をホーマーはじっとポーチから眺めているのです。
最後にホーマーは「だいじょうぶ ほしいものはみんなあるもの。ぼくにはみんながいるもの」と自分の満ち足りた心を現して絵本が終わります。
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私も先程はじめて読んだ本でしたが、単純ながらとても良いストーリーです。
本を読み終わったあと、お子さんにこんな質問が出来ますね。「ホーマーは色んな遊びに誘われたけど、○○ちゃんなら何が良かった?」、すると子どもさんは「海水浴!」などと答えるでしょう。
それでしばらく海水浴について会話を楽しむことができますね。そして次に「ホーマーはみんなが外で楽しく遊んでいる時に、一人でジッと見ていたんだね。なんでかな?どんな気持ちだったのかな?」という質問も出来ます。

例えば学校の休み時間、子どもさんがどのように過ごしているのか親としては気になる所です。お友達がいるのかどうか、寂しい思いをしていないのか、など。
でも親が心配になって「休み時間は一緒に遊ぶお友達いるの?」と直接聴いてしまうと、子どもに親の不安や緊張が伝わってかえってプレッシャーをかけてしまうかもしれません。子どもは緊張すると中々心にある本音を言葉に出来なくなってしまいます。
でも絵本の主人公を通してのやり取りだと、自然な会話の中でお子さんの気持ちを聴くことが出来ると思います。「絵本の主人公の気持ち」というワンクッションが、自分の心を客観視する助けになるのです。

また、上手く友達が作れなかったり、一人で居ることが多いお子さんに「ママもね、ホーマーみたいに一人で居るの悪くは無いと思うな〜。皆が楽しそうにしているのを一人でぼんやりホーマーみたいに眺めているの、ママは結構好きかな」などと話してあげると、絵本を通してお子さんの状況を肯定してあげることになるでしょう。
友達がいなくて一人でボッ〜とする時があっても、それはそれで悪くない過ごし方なんだと、子どもは安心することができます。そして不思議なことに、安心するとそういうタイミングで子どもからスッと本音が言葉になって現れてくるのです。

冒頭にも書きましたように、子どもにとって感情を言葉にするというのは思いのほか難しいことです。ですから、言葉によるコミュニケーションだけでは限界があります。感情、気持ちを共有することが子どもとのコミュニケーションにおいては非常に重要なことなのです。
それは本に限らず、遊びや歌や散歩など様々な事柄の中で出来ることです。が、私は絵本というのは子育てにおいて非常に有効な道具だと思っています。
ぜひ絵本を通して、お子さんの感情に触れ、お子さんの心を支援する、そんな子育てに挑戦してみて下さい!

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています(^^)/
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2014年05月30日

日常と非日常 子育てで大切なのはどちら?

決めることが苦手な方っておられるでしょうね。
例えばレストランに行ってメニューを決めるのにとても時間がかかったり、休日にどこに出かけるか決めるのに時間がかかったり、ちょっとした場面で中々決められなくて困っている方。(基本的にはゆっくり考えたら良いと思いますけど(^^♪)
そう言う方に、決めるのが早くなる魔法の言葉があります!

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6月14日14時から、世界的クラリネット奏者柳瀬洋さん、ピアニスト柳瀬佐和子さんをお招きしてのチャペルコンサートを開催します。入場無料です!ぜひ足をお運びください。

あなた自身が決断を苦手としているならば、決断を迫られる場面で「今日は、どうしようかな」とつぶやいてみて下さい。もし周囲の方が決めかねているのならば「今日は、何にする?」とさりげなくささやいてあげて下さい。「今日は」をさりげなく強調して繰り返していると、案外効果があるものです。

なぜ「今日はどうしようか」が決断の苦手な方への魔法の言葉になるのか。
決断が苦手な方というのは、一つの出来ごとに過度に思い入れてしまう傾向があります。
例えば人生で何度も行けないような高級レストランに行ったとして、誰でもそうやすやすとメニューを決められないでしょう。もう二度と来られないかもしれない特別な機会、失敗したくないと思うと決めることは簡単ではありません。
ちょっとした日常生活の中で考え込んでしまう方というのは、一つ一つの出来事を“二度といけないレストラン”のように過剰に受け止めて「今日しか」と考えてしまう傾向があります。
ですから「今日は」と声をかけることで「次がある」ことを無意識に確認することでプレッシャーを和らげることが出来るのです。

子育ての中で子どもに与えるべき重要な感覚とは、今日も昨日と同じように楽しい一日がある。明日も今日と同じように楽しい日が待っている。そういう日常の中にある安心感、充足感を持続させることです。
逆にどんなに楽しい特別な日があったとしても、明日がどんな日か分からない。明日は最悪の日かもしれない、そういう不安定さの中では子どもの心は健全に成長することが難しくなってしまいます。

一つぜひ覚えて頂きたい子育ての法則は「日常>非日常」です。親の立場からは、どうしても、普段十分に関わってあげられないなどの負い目を特別な日の特別な時間でカバーしたいと考えます。たまのお出かけを子どもは表面的には喜ぶでしょう。
しかし、子どもさんの健全な心の成長を考えた時には何気ない、でも温かい毎日の生活が持続することの方が、普段寂しさや緊張感を持っていてポツポツとSpecial Dayがあるよりも遥かに良いのです。

日常に寂しさや痛みがありSpecial Dayでカバーするパターンが定着してしまうと、特別な日や出来事に対する執着が強くなってしまい、普段の生活の欠けを特別な出来事で満たそうとして、過度に何かに思い入れてしまいやすくなります。
そういうご褒美を求める生き方が始まってしまうと、今目の前にある喜びや幸せが感じられなくなって益々心が枯渇してSpecial Dayに依存する悪循環に陥ってしまいます。

子育ての中で特別な体験、過度の喜びと言うのは親が思う程の意味を持ちません。それよりも、何気ない日常の中で与えるべき物を与えていくこと。
これは現代社会の忙しい生活の中では本当に難しいことで、私自身も決して模範的と言えないのですが、しかし目をそむけてはいけない課題です。
つまり「今日しか」ではなく「今日は」という発想が出来る心を育てていくことが大切なのです。
それは子育てだけではなく、私たち大人の毎日の生活にも言えることなのだと思います。特別なご褒美が無いと頑張れない生活に陥らないように。毎日の生活の中で、必要な物をちゃんと自分自身に与えてあげられる、そういう生活のリズムを作っていきたいですね。

あなたの掛け替えのない人生を応援している、川奈聖書教会 牧師の山口でした。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2014年05月08日

遊びの心を忘れずに

教会創立時からの信徒さんが入居しておられる老人ホームを訪ねました。
体調を崩され入院し一時は寝たきりの状態でしたが少しずつ健康を回復されています。ちょうどリハビリ中だったので、20分くらいその様子を拝見していました。
終了後、「体操はどうですか?」と伺うと「中々思うようにいかないけどさ〜」とおっしゃりながらも充実のお顔。「神様から頂いた体だから大切にしないといけませんよね〜」と満面の笑みで答えて下さいました。
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ステキだなぁと思いました。この方は一緒に生活するご家族がおられませんので、リハビリをしてまたご自宅に戻れるという状況でもありません。それでも今与えられている体力の中で体を動かし前向きにリハビリに取り組むお姿、その時間を喜んでおられる姿は輝いていました。

リハビリを拝見しながら、私は子どもたちが遊んでいる姿を思いだしておりました。「遊び」というとバカにしているような印象を持たれるかもしれませんが違います。
子どもたちが遊んでいる様子ってホントにステキです。何がステキなのか。遊ぶことそのものを喜びとして夢中になっている姿が何ともいえずステキなのです。
一方、私たち大人は何かをするのに目的、動機を必要とします。「これは健康のため、体を鍛えるため、人脈作り、仕事の成功のため」、目的と言えば聞こえが良いですが常に打算的とも言えるかもしれません…。

ご家族の問題、特にパートナーのメンタル面での問題やお子さんの不登校のことなどを思い悩むと知らず知らずの内に目的意識を持った関わりになってしまいます。
“このことをすると夫の妻の心の回復に有益ではないか”、“ここに行くことが。これこれに取り組むことが子どものメンタルの回復に役に立つのではないか”、そういう発想です。
気持ちは分かるのですが、そうすると遊びが無くなってしまいます。相手の問題の解決に心を奪われ、今自分が生きている、生かされていることの実体を見失ってしまいます。

また、目的があって為される行為は常に結果を求めてしまいます。ですから、意図していないのですが弱さの中にいらっしゃる方は「あぁ、これこれをしてもらったのだから元気にならなければ」「ここに行ったのだから明日はその分頑張らなければ」、そうやってプレッシャーを感じてしまいそのプレッシャーが逆効果をもたらしてしまうのです。

目的志向が強くなると、今そのものにある価値が分からなくなってしまいます。
難しいことですが、目的意識を持たずに今そのままのご主人・奥さん・お子さんとと共に過ごせる時間を喜んでいく、楽しんでいく、感謝していく、そんな心に目を向けていくことが必要ではないでしょうか。
「ここにあなたが居てくれる」、この事実は相手がどのような状況にあろとも掛け替えのない神様からのお恵みです。夢中になって遊ぶ、喜ぶ、そんな時間を忘れないでいたいですね。

あなたの掛け替えのない今を応援している川奈聖書教会です!
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2014年05月02日

子どもの感情に寄り添う子育て

心の安定というのは大切なことです。感情の起伏が一定の範囲を超えてしまうと日々の生活・人間関係に支障が出てしまいます。
どのようにお子さんの情緒を安定させていくか、子育ての重要な課題です。

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子どもさんの情緒の問題に関わる時に、大きく分けて二つのタイプの子どもさんがいらっしゃるように思います。
一つ目は、感情が常にある一定の方向に向きやすいお子さんです。イライラ、悲しくなる、不安になる等々、何か一つの決まった感情に繰り返し陥ってしまうお子さん。
もう一つは様々な感情が入り乱れて落差の大きいお子さんです。今日はとても機嫌が良い、今日はものすごく落ち込んでいる、今日はハイテンションで活動的、とその時々で感情の向かう方向性が大きく変わってしまうお子さんです。
それぞれのタイプで若干課題が異なってくるように思いますが、どちらの課題に対しても今日の話しは基本的に有効だと思います。

子どもさんに限った話ではありませんが、情緒を安定させていくためには共感されるという体験が非常に重要なります。
当教会で2カ月に一度くらい読み聞かせ会を行っています。(次回5月10日 13時半〜15時)
楽しい本ばかりでなく切ない本、悲しい本など色々な本を子どもたちに読み聞かせています。そうやって、子どもたちを中心に集まった2〜30人の方々が一緒に一つの話しから喜び、悲しみ、切ない感情を共有するのです。
例えば愛する人の死について、子どもさんにとってそれは悲しみに留まらず恐れや恐怖にさえなります。しかし、絵本の中で主人公が体験する近親者の死の悲しみを皆で共有する時に、子どもはそのような悲しみ・痛みの感情を受容していく力を得ていきます。
このように感情を共に味わってくれる人の存在によって、様々な感情を受け止めていく心の力をつけていくのです。

心理学では「情動調律」と言いますが、子育てにおいて子どもさんの心に共感する時間はとても大切です。
調律と言えば直ぐピアノの調律を思い出します。基準となる正しい音に合わせてピアノの弦を一本一本調整して行くのが調律です。同じように、お子さんの持つ様々な感情に親の感情を揃えることを「情動調律」と呼ぶのです。
子どもたちなりに色々なことを日々経験する訳ですが、そういう中で生じた子どもの感情に親が自分の感情を揃えること。共感すること。
そのようにして自分の情緒に共感されることによって、子どもは自分の中に生じる様々な感情を受け止め、コントロールする力を身につけていきます。情緒が安定していくのです。

情動調律と言われると何か難しいことのように思いますが、ちょっとしたことの積み重ねです。
例えば上に載せた写真。恥ずかしながら、私が6歳の娘と一緒に作ったそぼろ卵かけご飯です!?先日、夜の予定が大雨でキャンセルになったので、その時間で娘と何かしようと思って作りました。
ご覧の通り私工作などは苦手なので折り紙ちぎる程度しか…。でも、こんなことでも娘はとっても喜んでくれました(^^)/
何かを一緒に楽しむことの中で、自然と情動調律の機会を得ることが出来ます。
上記のように、本を読み聞かせるということもとっても貴重な時間です。

ただ一緒に居る時間が多ければ良いという訳ではありません。何かを一緒にする時間があっても、逆にお子さんの心を親御さんに合わせて調律してしまうようなことでは逆効果です。
まずは、子どもさんと一緒に楽しめるちょっとした時間の中で、お子さんの心に寄り添ってみる、そんなことからはじめてみませんか。

当教会には様々な子どもさん向けのプログラムがあります。
教会学校、教会塾、ピアノ教室、読み聞かせ会、どれも情動調律の機会としてお子様方一人一人の思いに寄り添い支援させて頂いております!
教会学校 毎週日曜日9時15分から10時半:毎週10〜15名くらいの子どもたちが集まってきています。
また教育相談、子育て相談、随時お受けしています。気軽にご相談ください。
Tel 44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp


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2014年04月19日

親だって助けを必要としている

子どもたちが犠牲になる痛ましい事件は今や報道で耳にするだけではなく、皆さんの身近でも様々に起こっているのではないでしょうか。
辛い状況に置かれているお子さんに接する時に私たちがしばしば感じることは気の毒な子どもさんへの同情と共に親御さんに対する怒りかもしれません。
けれどもどんなに深く子どもさんに同情し愛情を持って関わったとしても、親御さんに怒りを燃やしてしまっては中々有効な援助をすることはできません。

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例えば自分の子どもが教会でどんなに大切にされていたとしても、当の親が自分は教会から嫌われているとか非難されていると感じるならば、我が子を教会に送りたくはなくなるでしょう。
子どもさんを愛するということは、その子どもの親御さんをも愛する思いが無ければ機能しないのです。

よく聞く話しですが、子どもの問題行動が顕著になり親御さんが相談所などに行くと、相談員の方から子育ての問題を手厳しく指摘されて帰ってくるということがあるようです。
子どもさんの問題の原因を見つけることはそんなに難しいことではありません。例えば“親の子に対する愛情不足”“一緒に過ごす時間の不足”などなど、ある程度経験のある相談員であれば子どもさんの問題からその原因を見抜くことは容易です。でも、正解を出せば問題が解決する訳ではありません。何の役にも立たない正解って沢山あるのです。

家族療法の中で「直線的認識論」と「円環的認識論」という考え方があります。 仮に娘さんが母親に対して極度に依存的で様々な問題が起こり、困った母親が娘の相談をしに来たとします。そうした時に、直線的認識論で娘さんの問題を考えると想定される原因の一つは「母親の過保護、過干渉」でしょう。
でもこの推測が当たっていたとしても恐らくこれは“役に立たない正解”に終わるだろうと思います。正しい原因を指摘されてもお母さんには何の変化も起きないのです。

一方、円環的認識論で考えた時にお子さんの問題の原因として「母親の過保護・過干渉」は結論にはなりません。更にもう一歩踏み込んで、ではなぜ母親が娘に対して過保護になってしまうのかを考えるのです。
そこで次に見えてくるのは、母親とその夫の夫婦関係の問題であるかもしれません。夫婦の間に大きな溝があって母親は妻としての寂しさを抱えている。そこで本来夫に向うべき感情が行き場を失い、母親の寂しさが娘への過保護・過干渉に繋がっている。
そうすると、子どもさんの問題というのは直接的に子どもさんにアプローチするよりも、むしろ親御さんの夫婦関係を修正することで結果として解決していくことだと見えてくるのです。
そうした時にお子さんの問題よりも、お父さん・お母さんの夫婦関係の修復を援助したりその痛みに耳を傾けたりという関わりが優先されるのかもしれません。

家族の問題に関わらず、私たちは何か受け止めがたい出来事があると直ぐ直線的認識論によって犯人捜しをし、犯人を徹底的に非難して正義を晴らしたかのように錯覚します。でもそれはあまり意味のないことです。
犯人を見つけ、意味のない正解を突き付けて憂さ晴らししても、それでは何ら苦しんでいる方の力にはなれません。苦しんでいる本人だけでは無い、その周囲に居る方々をも愛し受容しサポートしていくことの中で、結果として問題が少しずつ解決に向かっていくということが起こるのです。

もしかして、支援を必要としているのはあなたのお子さんではなくあなた自身なのかもしれません。
川奈聖書教会の「子育て 教育相談室」は子どもさんの問題解決だけではなく、相談下さる親御さん自身を支援させて頂きます。
40年近い教師歴を持つ浦島さんと牧師山口が全力であなたを応援します!
気軽に連絡下さい(*^_^*)
Tel 44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp

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2014年04月05日

問われるのは聴き方

世の中、実に様々な評論家がいるものだと思います。
しばらく前にお亡くなりになられた吉田秀和さんのような優れた評論家も居る訳ですが、訳の分からない評論家も沢山います。
当然、必要とされるから多種多様な評論家が存在している訳で、それだけ日本人が評論家を欲しているということでしょう。
では、なぜ私たちは評論家を好むのでしょうか。

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いけばな教室の華展を4月17日(木)〜19(土)まで開催します。気軽に川奈聖書教会の礼拝堂にお立ち寄り下さい。

先日教会員の方がとても面白いことを教えて下さいました。
youtubeで様々な国のフィギアスケートの中継を見比べてみたそうです。日本ではご存知のように、終始解説者が演技に合わせて説明していきます。「トリプルアクセル、決まりました!」「ここまでとても良い演技です」のように一つ一つの技・演技の評価が同時に伝えられていきます。
しかし、多くの国のフィギアの実況中継ではほとんど演技中は解説が入らなかったとその方はおっしゃっておられました。

自分がどう感じるか以前にまず専門家はどう評価しているのかを確認し、それから自分の意見・考えをまとめようとする傾向は私たちの内に確かにあるように思います。
何か事件が起こった時、何かの現象が気になった時、誰かが腑に落ちる解説をしていないかとネットを検索し「私はこの人の意見に賛成」「この人の意見は気にいらない」、と言うようなことです。
しかし自分で考えることを放棄し、安全地帯に身を置きながら人の考えを良いだの悪いだのと批評することはまったく無意味・無価値です。

ある方が音楽評論家 吉田秀和さんの言葉を引用しておられました。
「批評とは結局、対象を切実に自分の内面で受け止め、問い直す作業ではないか」、非常に重たい言葉です。
本物の批評とはそれ自体が一つの実存的な言葉であり主張なのだと思います。つまり、批評・批判の中にその人が見えなければ、それは結局野球中継を見ながらピッチャーの継投に失敗した監督を「あいつはダメだなぁ。俺だったら…」などとつぶやいているオッチャンと同じレベルだということです。

自分の話しで恐縮ですが、家の娘はクラスで一番良く手を挙げて発言をする一人らしいのです。しかし勉強はひいき目に見てもせいぜい真ん中くらいだと思います。つまり…、良く発言するけれど良く間違えるということです^^;
授業参観の時にはさすがに慎重になるようですが、それでも勢いよく手を挙げて見事に間違える光景を何度か目撃しました?!
若干思慮深さに欠けることを懸念する思いもありますが、それでも基本的に「黙っていて心の中で正解するより、発言して間違えた方がずっと良い勉強なんだよ」と励ますようにしています。

何か優れた文章を発見し、共感し、サラッと読んでそれで自分が成長した気になってみたり、逆に誰かの意見・発言の上げ足をとって良い気持ちになってみたり、、、そんな無益なことをするくらいなら拙くても自分の存在に根差した言葉をとにかく発してみる方が遥かに有益だと思います。
情報が溢れ、言葉が溢れている時代ですが、そのほとんどはテレビの野球観戦レベルの無責任なつぶやき。もしくは自分を装うための言葉に過ぎないのかもしれません。
もちろん、真っ先にわたし自身の言葉に対する反省があってこのように書いている訳ですが...。

人の言葉では変わりません。人の言葉を聴いて成長することはありません。
吉田氏がおっしゃる「対象を切実に自分の内面で受け止め、問い直す作業」、このような人の言葉を自分という存在において正面から受け止め、問い直す、本当の自分と向き合う地道で誠実な作業が避けられません。
つまり本当の意味で人の言葉を聴くということは、自分の言葉を発するのと同じくらい重たいことなのだと思うのです。


そういう意味で、人の言葉によって変わることがあるし、人の言葉を聴いて成長することがあるとも思います。でもそこで問われているのは多分相手の言葉ではなく、聴く私たち自身なのではないでしょうか。

色々考えて、しばらくブログ更新のペースを二週間に一度に変更しようと思っています。何とかして意味のある言葉を発していきたいと試行錯誤です。。。
引き続き、牧師ブログお読みいただけたら嬉しいです!

あなたの言葉を聴かせて下さい!子育て・教育相談。その他、気軽にお問い合わせください。
川奈聖書教会 電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
そして聖書の言葉を聴きたい方はぜひ礼拝に(^^)/
日曜礼拝 AM10:30-12:00  火曜礼拝 PM7:00-8:00 どなたでもお越しいただけます。


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2014年03月28日

親子ゲンカのNGワード

お子さんが大きくなってくると段々お子さんと本気でケンカしてしまうようなことがあるかもしれません。
あまり頻繁なのは不味いですが、親子喧嘩自体はお子さんの成長過程で避けられないことです。
ただ、親子喧嘩のNGワードはいくつかあります。NGワードの代表選手の一つは「誰のおかげでご飯が食べられると思っているのか!」です。この言葉、止めましょう...。

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おかげさまで14回目の結婚記念日を迎えることが出来ました。夫をさせてくれている妻に、父親をさせてくれている子どもたちに、そして誰よりも神様に感謝を忘れずにいたいと思います。そして支え祈って下さる皆様に感謝


ケンカにはケンカのルールがあります。素手の相手に刃物を使うのはルール違反ですよね。
子どもの言葉にカチンとくることがあるでしょう。親だからと言っていつも平静を装う必要はありません。親にだって言われたら嫌なこと、悲しいこと、聞き流せないことがありますから、そのことは表現して良いと思います。
ただケンカするなら、正々堂々ケンカして下さい。
親が子どもに“誰のおかげでご飯が食べられるのか”という言葉を使うのは、素手の相手にナイフを突き付けるのと同じです。これではケンカになりません。
子どもには返す言葉がありませんので、そう言われたら従うほかありません。
けれども、このような言葉で子どもを押さえつけることをしていると、その関係は親子関係ではなく主従関係に変質してしまいます。

厳しいようですが、親御さんは自分自身に問いかけなければなりません。“誰のおかげで親をさせてもらっているのか”と。
子どもは自分で決断して親の下に生まれてきたのでは無いのです。子が「親の子」であることは、子の責任ではありません。
しかし、親が「子の親」であることは親の責任です。親は望んで子の親になったのです。そして親とは子どもが自立するまで、子どもに必要なものを提供する責任があります。
そのような親としての責任を承知の上で親になったにも関わらず、自らの責任を子に負わせるようなことを口にするのは不味いですね。

子どもは親が思うよりもずっと非力です。このように言われたら子は従うほかありません。けれどもそこで考えるでしょう。
「親に食べさせてもらっているのだから、親に従わなければならない」、それは裏を返せば「自分で食べられるようになったら親などもういらない」ということです。
親の子であるならば、何歳になっても子は子です。けれども親の奴隷であれば、やがて親との繋がりは失われるでしょう。
いや、実際にはやっぱり親子の縁はそう簡単には切れません。親を捨てることなど子には中々出来ないことです。
しかし、親を親として素直に愛することが難しくなってしまいます。いくつになっても親との関係に迷い悩み苦しみ。愛したいと思いながら愛せない。近づいたり離れたり、優しくしたり罵ったり...。
そういう親子の関係性の歪みを後になって修復するのは容易なことではありませんし、現にこのような悩みを抱えておられる方がたくさんおられます。

親が親であり続けるためには、親としての責任を負わなければいけません。そうすることで親としての喜びを味わうことができるのです。
これは親に限ったことではありません。
しばしば同等であること、同じ目線であることが美徳のように言われます。友達のような親子、友達のような上司・部下。友達のような教師・生徒。
けれども同等・同じ目線を目指す前にまず考えるべきことは責任です。
「同じ目線で」という理想は分かりますが、そもそも立場は同じではありません。もし社長が従業員と同等であるならば、従業員に社長と同等の給料を出すべきですし、教師と生徒が同じであるならば教師は無給であるか、生徒は教師と同じ給料をもらわなければいけません。
同等ではありませんから、当然責任はより重たいのです。同等では無い責任をしっかりと負いつつ、なお同じ目線・同じ立場でものを考えようと努力するならばそれは素晴らしいことです。
しかし責任を回避し、同等だけを主張するのはただの甘えですし、弱者にとっては暴力的な印象さえ受けるでしょう。

親と子は立場が違うのです。ですから、親の責任を放棄するような言葉を子どもに発していたら、親であり続けることは困難になってしまいます。
子であることの責任は子にではなく親にある、この場所をしっかり押さえながら良い親子喧嘩をして下さい。

そうは言っても親は親なりに苦労があり、分かっていても負うべき責任が重たすぎるということはあるでしょう。
その時には、相応しい人に相談すべきですし、相応しい人に助けを求めるべきです。あなたを応援している人が必ずあなたの傍にいます。
教会もあなたを応援しています(^^)/ いつでもご相談下さい。
kawanachurch@ybb.ne.jp 44-1728 川奈聖書教会
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2014年03月25日

強い言葉の裏。冷静な言葉の裏。

何かご相談を受けたり、何がしかの問題に関わらせて頂く時に、可能性が3%しかない、5%しかない、こういう事柄に関わって一発逆転の援助が出来るということはまずありません。少なくとも私などには不可能です。
でもそういう決定的な状況というのは実はそう多くないのかもしれません。

時には状況が好転するありがたいケースに立ち会わせて頂く訳ですが、そういうことは元々可能性が70%、80%最初からあったというのが真相です。
ただ、問題の渦中にあると中々そうは思えません。もう駄目だ、絶望的だ。そういう受け止めをしてしまうのです。
でも客観的に状況を観察すると「もう可能性は5%しかない」と思えた所に、実はまだまだ70%の可能性を見出せるということがあるのです。

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夫婦の問題でも、親子の問題でもそうなのですが、相手が非常に強い姿勢や態度で何がしかを主張している時というのは渦中にあると「これはもうダメだ。どうしようもない」と感じるのですが、客観的にはむしろ改善・逆転の余地が大いにあると見ることができます。
例えば、お子さんが反抗期に親に向かって非常に強烈な態度や言動でぶつかってきたとします。
親はびっくりしますし、これから先どうなってしまうかと不安を覚えるでしょう。
でも少し冷静になって考えてみましょう。なぜそんなに強い態度や言葉をお子さんは発するのでしょうか。それは不安定だからです。自信がないからです。
親の言う言葉を聴いてしまったら、落ち着いて話しあってしまったら、別の感情・思いが出て来て今の自分の感情を貫けなくなってしまう。そういう自己の弱さ、不安定さを隠すために強烈な主張をしないではおられないのです。

これは子どもに限りません。観察をしてみると分かります。
強く自己主張をなさる方ほど、考えがコロコロ変わりやすいものです。
「あれっ、この前散々こう言ってたけど、言っていることが変わったな」そういうことが必ず起こります。
強い自己主張を前にすると、不安になってこちらもツイツイやり合いたくなるのですがそれは間違いです。
理不尽と思える強い主張を前にした時ほど、冷静にこちらの意志をソフトに伝えておけばそれで良いのです。その時には一刀両断されたとしても、時間が経つと案外こちらが願った良い方向に動きだすものです。

強い自己主張に接した時に、その言葉や態度の中に相手の不安を見抜くことが出来るとずっと冷静な対応が出来るでしょう。
子どもが強くぶつかってきた時、その怒りの背後には必ず親への愛情が隠れています。強く親を糾弾しないと、親への愛情に飲み込まれて言うべきことが言えなくなることを直感的に子どもは知っているのです。
子どもに嫌われるとやっぱり親も傷つきますよね。でも、そういうお子さんほどそうしていないと親離れできない、直ぐに溢れだして抱きつきたくなってしまう親への愛情があるものです。だから、あまり心配し過ぎないで下さいね。

一方、本当に難しいのは相手が余裕を持っている時です。強く自己主張する訳ではない。こちらの話しに耳を傾け、柔軟に話しを聞き入れながら落ち着いてやり取りなさる方というのは実は最強です。
こちらの意見を聞き入れてもらえた気になりますが、結果的には大かた相手の主張が通っている、ということが多いように思います。

言動・行動を額面通りに受け止めても上手くはいかないばかりか、益々問題は深刻になってしまいます。
7割・8割の可能性で上手くいく問題というのは、そのままにしておくのが一番良いのです。失敗の可能性、2割・3割を恐れて余計な対応をすることが、逆に相手を刺激して上手くいかない可能性を大きくしてしまいます。
逆に、相手がおとなしいと思って放っておくと取り返しがつかなくる問題もあります。相手が落ちついていることが、逆に問題の深刻さを物語っていることもあるのです。こういう時はしっかりと手を打たなくてはいけません。
考えなくても気になること、気になる人というのは、案外あまり深刻に考える必要が無いのかもしれません。考えすぎないことが問題の解決に直結していることが多いでしょう。
本当に難しいのはその逆のケースです...。

こんな逆転の発想でもう一度ご自分の家庭・人間関係を見つめ直してみると、何か見えてくるものがあるかもしれませんね。
川奈聖書教会はあなたの人生を応援しています。
ご相談のある方は気軽に教会にご連絡下さい。
電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
そしてぜひ礼拝に足を運んでみて下さい(^^)/
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00

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