2015年09月17日

質の良い「できなかった体験」を

子供の成長とは「できなかったことができるようになる」ことです。
自分の子供たち、また教会学校や子育てともとものお子さんたちの姿を拝見しながら、これまでできなかったことができるようになっていく成長を目の当たりにしているのですが、ここに一つ重要な気づきがあります。
子供の成長が「できなかったことができるようになる」ことであるとは、つまり「できるようになる」ためには「できなかった体験」が不可欠であるということなのです。

例えば、子供がお母さんから離れられるようになるという成長は、お母さんから離れられなかったという体験の中に生まれてきますし、お友達の輪の中に入れるようになるという成長は、入れなかった体験の中から生まれてきます。
「失敗は成長の母」と言いますが、正に「できなかった」という体験は「できるようになる」という成長を生み出すお母さんなのです。
ですから、子供の成長において「できない」「失敗する」という体験をたくさん積ませてあげることはとても大切なことです。

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手を引いてあげなければ登れなかった小室山の階段。いつの間にか、小さな子供さんの手を引いてあげるようなりました。娘たちの成長。

ここで一つ押さえておきたいことは「できない体験」の質の違いです。成長を生み出す「できない」と成長に繋がらない「できない」があることです。
しばしば子育てでやってしまうのですが「この子はできないのです」「こういうことが苦手なのです」と言って、親御さんが先回りして子供のできないを決めつけてしまい、子供自身の「できなかった体験」を取り上げてしまうことです。
これは成長を生み出す「できなかった体験」とは違います。「できなかった」ではなく「やらせなかった」だけなのです。
「やってできないこと」と、「やらせずにできないこと」との違いはあまりにも大きいものです。子供の主体性の中で「できない」「やらない」「やりたくない」を何度も何度も体験させてあげること。その繰り返しの中で、ある日突然「やってみようかな」「できるかな」「できた」という成長が生まれてきます。
そうやって自分が成長することを体験したお子さんは、段々できないことに挑戦する意欲や喜びを身に着けていきます。ですから、何度かやってできなかったこと・嫌がったことを、親御さんが「この子はできない。やらない」と決めつけて主体的な「できない体験」を取り上げないように気を付けて頂きたいのです。
質の良い「できなかった体験」「失敗体験」をたくさん積ませてあげることが子育てには重要です。

川奈聖書教会では「子育てともとも」「教会塾いっしょ」「教会ピアノ教室」「教会学校」と様々な子供たちとの関わりの機会を持っていますが、そこで子供たちに体験させてあげたいと思っていることは「成功体験」ではありません。
成功という結果は確かに起こるのですが、それを狙っているわけではありません。むしろ、良い失敗体験をたくさん積ませてあげられる場でありたいと願っています。
今の子供たちは、子供なりに色々なプレッシャーを背負って生きています。「上手くやらなければ」「成功しなければ」という類のプレッシャーです。どうしても失敗することを恐れ無難に生きることを選択してしまいます。結局それが子供の成長を阻害してしまうのです。

教会ではドンドン失敗して欲しいと思います。先生を困らせ、先生の期待を裏切り、上手くいかない体験を何度も何度も積んで欲しいのです。そこからどんなに素晴らしい人生が生み出されてくるでしょうか。
川奈聖書教会は子供たちが失敗して良い場所です。「出来なかった体験」をするための場所です。
ですから「やらせなかったできない体験」ではなく「できなかった」と子供たちが主体的に味わえるよい「できなかった体験」をたくさん積ませてあげる場所としてご活用ください。

あなたの子育てを応援している川奈聖書教会 牧師の山口でした。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2015年08月20日

子供たちを育むことの希望

友人の原眞人さんの今日のブログ「教育こそが力」http://ameblo.jp/hara-ism/entry-12063363508.html、大いに共感しました。世界・国家レベルの問題から地域の問題に至るまで「時代を変えて行くのは政治家じゃない。若い力だ」と書いておられました。
状況を一変させるようなリーダー・救世主が切望される時代。でもそういう所にあまり望みを感じません。前回のブログ「劇的の罠」に書いた通りです。
「劇的」をアピールする人に一喜一憂するよりも、若い力を育成することにこそ希望があると思っています。劇的に変えてくれる誰かを探し求めるより、次代を担う若者・子供たちのために自分にできることを為していくことの方がずっと望み豊かでは無いでしょうか。

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高校野球の中継を見たのは何年ぶりだろうか。実家の近所にある東海大相模高校が決勝を戦っていることをfacebookで知り途中からテレビ観戦。高校球児の力を尽くした戦いに感激〜(^^)/

子供達の教育には二つの側面があると思います。
指揮者小澤征爾さんが二十歳そこそこでヨーロッパに渡る時に、彼の盟友であった指揮者の故山本直純さんが小澤さんにこんな言葉をかけたそうです。
「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ。征爾が日本に帰って来たらお前のためのオーケストラを日本に用意しておくから」
そしてご存じのように小澤征爾さんは世界の頂点を極める指揮者になり、山本直純さんはテレビ等での積極的な活躍によって日本のお茶の間に音楽文化を広げる貴重なお働きをなさいました。

才能豊かな・可能性に富んだ子供達を伸ばしていく教育と、時代の波にもまれこぼれ落ちそうになっている子供たちをすくい上げ支えていく教育と、両面が必要だと思います。私自身は後者の教育により関心があり、それが自分の使命だと思っています。
どん底を歩むような子供達と関わり支えていく時に、何か目に見える才能や特技は無かったとしても、厳しい状況の中で生き抜き、立ち上がって前に進もうとする子供たちの力に圧倒されるような経験をします。
子供たちの内側からにじみ出るような生きる力に触れる時に、子供達に関われることの特権と喜びを感じます。それは多分、大人との関わりでは体験しえない特別なものです。

家に引きこもっていた子が社会と接点を持つようになる。嘘ばかりついていた子が嘘を手放し、他者を傷つけることを喜びにしていた子が友達に優しい言葉をかけられるようになる。
こういうことは、社会を氷山に例えるなら水面下にあって人の目にはあまり映らないことでしょう。しかし、間近にそういう子供たちの変化に触れるならば、大げさでは無く感動に胸が震えます。
一人の子供の、社会においては水面下であるかもしれない変化・成長に私は次代への確かな希望を感じるのです。

愛してるくれる人、関わり続けてくれる人、応援してくれる人、信じ受け入れてくれる場所があれば時間がかかっても子供たちは必ず変わるものです。
時代を嘆いたり、ヒーローを探したり犯人探しをするよりも、あなたの周りにいる一人の子供さんと関わり応援してみませんか。子供たちを育んでいくことこそが私たちの本物の望みです。

川奈聖書教会は子供達を応援し、子供たちを育む教会です。
教会学校、教会塾いっしょ、教育相談室、子育てともとも、ぜひご利用ください!

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2015年07月21日

「劇的」の罠

私自身がそうなのですが、長い時間軸の中で物事を考えることが苦手な時代だと思います。
一度の機会で劇的に状況が変わることを願う、短絡的な発想に直ぐ囚われてしまいますし、劇的な変化を起こすような言葉に安易に引き寄せられてしまうのです。

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我が家の愛犬チャペル君

例えば選挙。「あなたの一票が国を変える」的なキャッチフレーズで「だから選挙に行きましょう」と勧められるのですが、どうでしょう...。
選挙権を得て18年、「選挙皆勤賞」が自慢の私ですが、自分の一票で政治が変わったと実感したことはありません。当たり前でしょう。そうたやすく政治や国は変わりません。
小さな石を何年、何十年と世代を越えて積み上げながら、ようやく少しずつ変わっていく可能性がある、そういうものではないでしょうか。だからこそ1回1回の選挙の1人1人の1票が大切なのだと思います。

子育ての問題も同じです。家庭・家族の問題に関わっているとしばしば負の連鎖と言えるような状況に遭遇します。
親から受けた悪い影響を排除することは容易ではありません。
“いけない”と思いながら、“止めなければ”と思いながら、しかし中々止められない・変えられない。そういう苦しみを経験しておられる方が多くおられます。
そういう方へのアドバイスとして「ゼロにする必要はない。完全に克服する必要はない。あなたが子供として親から“10”受けた辛い体験があって、それをあなたが子育てする中で“5”に薄めることができたら、それは物凄く大きなことであるし、それがあなたの大切な使命だと思いますよ」、そのように申し上げて応援させて頂きます。
そして、今度はその方のお子さんが5を3にしてくれるかもしれない。その次の世代では...、そうやって少しずつ少しずつ世代を越えて克服していく他無いのが家庭における負の連鎖の問題だと感じます。
そういう難しい問題であるからこそ、1でも0.1でも前に進むことは尊いことであるし、僅かな前進を軽んじてはいけないのです。

大きな問題、難しい問題、複雑な問題は一度で劇的には変わりません。劇的に変わったと錯覚することはあるし、意図的に錯覚させる人はいます。しかし、多くの場合それは振り子が反対方向に振れただけで、状況は何も変わっていないものです。錯覚に過ぎないのです。
逆に劇的な変化を望んだりそそのかされたりすることで、小さな地道な一歩を無意味・無駄にしてしまうことがあります。劇的な可能性の前で、私たちは小さな一歩の持つ意味や価値を見失ってしまいやすいのです。

神の御手の中にある世界の長い歴史の中で、私たち一人一人の人生はホンの一瞬、瞬き程のものです。そういう私たちの人生を上記のような意味において劇的・決定的に考えすぎない方が良いのかもしれません。
劇的・決定的な役割を担おうとすることで、本当の私たちの使命、石一つ積み上げることの責任を果たすことが出来なくなってしまうことがあるのではないでしょうか。

あなたがこれまでの人生において積み上げた一つ一つの小石は絶対無駄ではありません。大きな成果は見えないかもしれない。こんなことでは何も変わらないと思えるかもしれない。でもそれを地道に積み上げていく以外に解決に近づく方法はないのです。
だから、劇的では無い。小石を一個一個拾い集めるようなあなたの地道な歩みを応援する牧師。大切にする教会でありたいと願っています。

気軽に連絡ください。たった一度のあなたの人生を応援している牧師山口です! 
kawanachurch@ybb.ne.jp  44-1728

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2015年06月17日

それは目的ですか、手段ですか?

先日、久しぶりのことで熱で半日寝込んでしまいました..。
夜中に熱が上がって寝苦しかったので居間で録画していた俳優 渡辺謙さんのドキュメンタリーを観ていました。彼が二度目の白血病に襲われた時の病と闘うモチベーションについて「俳優として何か作品を残すべく命をもらうんだという思いで」と語っていたことが印象的でした。

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三島キリスト教会でチャペルコンサートのご奉仕をさせて頂きました

渡辺謙さんのような大病で無くても、体調を崩すと早く回復することを望むのは当然です。不快な症状が無くなり以前のような普通の生活が送れることを望みます。しかし良く考えれば、健康になると幸せになる訳ではありません。実際、多くの方が健康な体を得ながら不平不満一杯に生きているのです。

健康を回復することは目的ではなく手段です。回復した健康な体でどのように生きていくのか、目的を見据えて課題に向き合うことが大切です。
いつの間にか人生がほころんでしまう要因の一つとして、「目的」と「手段」の混乱があります。
例えば非常に健康に気を使って生活していたとします。食べ物一つ一つこだわり、体を動かし、規則正しく生活をし、それは素晴らしいことです。
しかし、そうやって健康に気をつかうことで人生が充実する訳ではありません。問題は、そうやって得た健康な体でどのように生きていくのか、何のために生きていくのか、目的です。けれども時に、手段が目的にすり替わり、いかに健康に生きるかに夢中になってしまい、健康を得ることで幸せになれるかのように錯覚してしまうことがあります。

子育てにおいても同じです。勉強や習い事など、それらは全て子供が幸せに生きていくための手段です。しかし、気をつけていないと手段であるはずの事柄を達成させることに夢中になってしまい、そこに子供の幸せの保証があるかのように勘違いをしてしまうのです。
結果、手段に依存する生き方を子供にも根付かせてしまうことになります。

健康、財産、能力、資格、こういうものは目的を持った人生においてはある程度有益ですが、目的の無い人生には何の役にも立ちません。しかし、目標や目的が曖昧な人生ほど、しばしば手段に飲み込まれてしまうものなのです。
ですから手段が目的化した生き方になっていないかどうか。手段に夢中になることで空洞化した人生を誤魔化してはいないか確認してみましょう。
しっかり見据えていなければならないのは、私たちが生きること、生かされていることの目的にあるのです。

生きることの目的を教える聖書、学んでみませんか。
日曜礼拝午前10時半から12時 
火曜礼拝午後7時から8時
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2015年05月06日

本当のシンデレラな生き方?!

今から20年前、私がまだ10代だった頃すでに父親の書棚に「シンデレラ・シンドローム」という名前の本があって手にとって読んだのを覚えています。カウンセリングの世界で昔流行した言葉です。
白馬の王子様が現れて自分の人生を劇的に変えてくれる、そんな願望にとりつかれた主には女性を言い当てる言葉だったと思います。
多分この言葉の影響だと思いますが、何か童話のシンデレラってあまり好きな話しではありませんでした。

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6月11日 三島キリスト教会https://sites.google.com/site/mishimachrist/のチャペルコンサートに出演します。お近くの方ぜひ足をお運びください!

娘たちと妻が実写版のシンデレラの映画を観に行こうというので、家族サービスのつもりで出かけたのですが思いがけず面白くて見入ってしまいました。
非常に良かったのは、シンデレラ・シンドロームのようにではなく...、シンデレラの辿った劇的なストーリが地道な生き方と対立的にではなく、延長線上に描かれていたことです。
「優しさと勇気」というキーワードの中で、義母や義姉たちに酷い扱いを受けても怒りや憎しみに心を奪われることなく、ひたむきに生きるシンデレラ。厳しい現実からの逃避ではなく、厳しい現実に向き合うことの中で開かれていく人生。
魔法使いが現れて...、という不思議な物語がリアルな人生として描かれていること(私の感想)の面白さを感じました。

シンデレラ・シンドロームのように、「誰かが私の人生を幸せにしてくれる」という依存的な発想の中でパートナーを見つけても、そこには大抵「共依存」の問題が生じ上手くいきません。
もちろん相手の問題もあるでしょうが、自分の人生を「誰か・何か」によって変えてもらいたいという発想を持っている自分自身がどこまでもついてくるので、常に「こんなはずではない」という現実への不満と、「今のようではない将来」への期待を捨てることが出来ないのです。

最近はそのようなシンデレラ・シンドロームを逆手に取るようにして、依存的に生きてきた過去・現在のその人の在り方を否定し、その人が依存対象としてきた相手を非難・否定することによって、巧妙に新たな依存対象として自分や組織を刷り込ませコントロールする、そのような手法がしばしば見受けられます。
依存的な人の問題に関わる援助者が、いつの間にか新たな依存対象にすり替わるということは、依存症治療の現場でもう何十年も昔から言われていることですが、やはり今もそのカラクリで巧妙に依存的な方を振り回す人がいます。

映画の話しに戻ります。正確に覚えていませんが、“家族から酷い扱いを受けているのになぜ家を飛び出さないのか”と尋ねられたシンデレラは“「優しさと勇気」を持って私はこの場所で生きる”と力強く応えます。
シンデレラ・シンドロームを抜け出していく秘訣は、「私はこの場所に生きる」という決断と意思・覚悟です。
変えるべきは生きる場所や共に歩くパートナーではありません。そのように勧める人は「本物の王子様は私だよ」とささやいているだけ。結局これまでと同じ生き方をあなたに強いるでしょう。
どこに行っても、誰と生きても、自分はどこまでもついてくる。このことを忘れないで下さい。

ですから今を否定するのではなく、今と向き合うこと。相手を変えることではなく、自分が変わること。自分を苦しめる犯人探しではなく、変えられる自分の問題を認めていくこと。
そうやって、今この場所に生きようとするあたなを応援してくれる人、支えてくれる人があなたの本当の援助者です。そして、そのような地に足のついた、地道な生き方があなた自身を輝かせていくのです。
シンデレラ・シンドロームに囚われないシンデレラを観ながら、そんな地道な人生の素晴らしさを改めて考えました。

川奈聖書教会は、今この場所で生きようとするあなたを応援しています!
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2015年05月01日

みんな絶対輝ける!

私の友人、税理士の原眞人さんが超多忙の中、松川の水上舞台が印象的な「伊東祐親まつり」の企画委員として活躍しておられます。
特にも伊東市内の小学5〜6年生を対象に「伊東をこんな町にしたい!」をテーマにした作文を募集して、優秀な作文を書いたお子さんに「初代すけちかくん」の称号を授与するという、素晴らしいアイディアを早速に実行され伊豆新聞でも大きく取り上げられていました。
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教会の子どもたちも作文コンクール挑戦してくれました!自分たちの住む町の将来について考える非常に良い機会になりました(^^♪

伊東の方以外は聞いたこと無いでしょうが、平安時代に伊東を治めた武将伊東祐親の名を冠した“祐親まつり”、もう40年の歴史があるそうです。ただ、、、伊東祐親のイメージってとにかく暗い。
もっとも知られるエピソードは源頼朝が平治の乱で流罪になり伊東に流され、そこで祐親の娘八重姫と頼朝の間に子(千鶴丸)をもうけ、それに怒った祐親は孫である千鶴丸を殺害するという悲惨なお話し...。「伊東祐親」と聞いて明るい・前向きなイメージないのです。
けれども原さんは今回、作文コンクールで「初代すけちかくん」を選ぶというびっくりなアイディアをお出しになられました。史実の暗いイメージとは全く違う、「伊東の町の開祖 祐親」という前向きな設定。そして開祖祐親にちなんで、子どもたちに伊東の町の将来を考えてもらうという、これまた実に明るく前向きな企画。祐親まつりの印象が大きく変わる、素晴らしいアイディア。さすが原さんです!

このように一人の人を異なる視点・方向性から見つめ直し捉えなおすということは、人を援助・サポートする上で、また子育てにおいても非常に大切な発想になります。
しばしば親は画一的な視点で子どもを見つめ、親の願う子ども像・親の持つ価値観に適う子どもであることを押し付けてしまいます。じっとしていることが苦手なお子さんに細かな神経を必要とする習い事を押し付けたり、創造的な才能のあるお子さんに機械的な作業を強いたり...。
そうすると当然、その価値観の中では「ダメな子、劣等生、落ちこぼれ」となってしまうでしょう。しかし一つの視点の中で否定されても、別の視点の中では大いに生かされる方が沢山います。
ですから本物の教育者は、育たないことを生徒の資質のせいにはしません。才能がある人しか伸ばせない、一種類の才能しか伸ばせない、そういう指導者であってはいけないのです。

全ての人に神様は賜物を与えて下さいました。それは「誰かのようになれる才能」ではなくて、“その人にしか出来ない何か”の賜物です。ですから本物の教育者・指導者は、沢山の引出しからそれぞれが持っている才能・賜物をもっとも生かし輝かすことができる方向性を見出し、自らの可能性を自覚させていく援助が出来なければいけません。
「これこれの資質・才能が無ければダメ。あなたはこれが出来ないからダメ」、そういう前提のある教育では無くて、全ての人が輝く可能性を持った教育でなければいけないと私は思うのです。

イスにどうしても座っていられないお子さんがいます。では45分間座っていられなければ、もうそのお子さんには望みが無いのでしょうか。そうではありません。座っていられないお子さん、じっとしていられないお子さんが、しかし体を動かすことの中で素晴らしいことが出来るのです。
神様が一人一人を掛け替えのない存在として創って下さったのであれば、一人一人の生かし方、生かされた方というのもまたそれぞれにあるのではないでしょうか。
画一的な価値観で「家の子は」と嘆くのではなく、お子さんを生かす柔軟な視点が求められているのかもしれません。

ぜひ教会に子どもさんをお送り下さい。お子さまに与えられている素晴らしい賜物を発見し生かすお手伝いをさせて頂きます。http://www.geocities.jp/kawanachurch/
子ども礼拝 毎週日曜 9時15分〜10時半

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2015年03月28日

“出る杭”が喜ばれるグループに

私の好きなドキュメンタリーに1985年に放送された「OZAWA」という小澤征爾さん50歳の時の様子をまとめた映像があります。
その中で、中国系アメリカ人のチェリスト、ヨーヨー・マさんと小澤さんが語りあう場面が非常に興味深いのです。
彼らは東洋人に西洋音楽が出来るのかという話題で語り合うのですが、その中で日本文化・東洋文化を「個性より協調性が優先する。才能あるものは辛い。しかし、ひとたび東洋を出ると自己を主張しなければいけない」と分析していきます。
「西洋音楽に向き合う東洋人」という文脈の中で交わされるこの会話の中で小澤さんは驚くほど感情的になり、撮影の続行を拒否するほどでした。彼にとって極めて重大な問題がそこにはあったのだろうと思います。


西洋と東洋とどちらの文化が良いという話しではありません。自分たちの文化に誇りを持つことは悪いことではありませんが、絶対化すべきではありません。
協調性が優先されるゆえに、才能ある人が自らの才能をあたかも悪いものでもあるかのように認識させられてしまう社会性というのが確かに存在しているのではないでしょうか。
それは「才能」とポジティブに認められるものだけでなく、「障害」とネガティブに捉えられてしまうような事柄にも同じように認められるのです。

以前にもADHDについて書いたことがありました。
そうした傾向を持つお子さんやその親御さんと関わる中でしばしば感じるのは、協調性が個性に優先される社会の中にあるから、彼らは問題児というレッテルを強烈に突き付けられてしまうのではないかと言うことです。
つまりADHDと言われる傾向を持つお子さんの問題性ばかりに目が向けられるのですが、むしろそのようなタイプのお子さんを「ADHD」と際立たせてしまう社会の問題性にももっと目を向けるべきではないでしょうか。

日本は和の文化と言われるので一般的には集団意識が非常に強いと思われがちです。しかし心理学者や社会学者がしばしば指摘することですが、東洋文化における集団の特徴は自立性の低さにあると言われます。
日本における集団への帰属意識はしばしば自信の無さや不安感、それゆえの依存心が根底にあります。グループに属することで自らのアイデンティティを獲得しようとするのです。
一方、西洋的なグループは様々な個が結び合った集団。つまり個というアイデンティティを獲得した人々が結び合う、発展性を喜ぶ集団です。

お世話になった心理学者の丸屋真也先生が教えて下さったことですが、西洋文化においてはグループに所属することには常に努力が求められる。それは自分が何者であるのかということを明確化していく努力。即ち個を現していく努力です。
一方、東洋の文化においてはグループに所属することは簡単です。個を出さずにグループに忠実に従っていれば良いのです。アイデンティティを求めてグループに所属するのか、アイデンティティを持つ人が他者との繋がりを求めるのか。
1+1が1で終わってしまうグループと、1+1が2、更にそれが掛け算に変わって倍加されていくような創造性のあるグループと。一概に「集団」と言ってもその性質はまったく異なるものです。

最近「和の文化は素晴らしい」という協調性を強調した日本文化や日本の宗教性を称賛する言葉をよく耳にします。しかしもう少し内実を問うた方が良いのではないでしょうか。
もしかして、私たちが見ている「和の文化」とは多様なものを包容する豊かさではなく、1+1+1...どんなに沢山の1を足して行っても答えが1にしかならない、全てを曖昧にする「和」に過ぎないのではないか。そのような文化の中でただ一つだけ曖昧でないのは、答えを1にしない人、出来ない人。明確な何かを現そうとする人は否定されてしまうという現実です。

人と人とが結び合うことは素晴らしいことです。そういう意味で「和の文化」を大切にすべきだと思います。けれども、出すべき答えが決まっている集団というのは一見優しそうな顔をしていますが、ある人々にとっては極めて暴力的に感じられるものです。
人と人が結び合う喜びというのは本来創造的で前向きなものですが、それは自分と同じ誰かが結び合うことではなく、自分と違う誰かが結び合うからこそ生まれる創造性です。
「出る杭が打たれる」グループではなく、「出る杭が喜ばれる」グループへ。皆さんが所属意識を持つ集団・グループと自分との関係性を改めて考えてみませんか。
自分も他者も、もっと生かしあえる関係性に変えていく余地があるのかもしれません。

聖書を学ぶと私たちの日々の生活に沢山の新しい気付きが得られます。聖書は世界のベストセラー、ぜひ教会に足をお運びください!
教会であなたを待っているだけではありません。呼んで下されば、喜んで私が足を運びます(^^♪
FM伊東、伊豆高原十字の園、平和の杜、伊豆高原ミッシェルガーデンコート、教会外でも色んな所に伺わせて頂いております。気軽にお声掛け下さい。。。


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2015年03月21日

本物の援助は紙一枚

2014年度の教会塾いっしょが終わり、子どもたちと一緒に歩んだ一年間を振り返りながら支援すること、応援することの意味を考えています。

子どもたちに限らず、誰しも人生の困難で援助を必要とすることがあるでしょう。そこで色々な援助者に出会うと思いますが、あまりにも劇的な援助者、その人の人生に影響を及ぼし過ぎる援助者というのは、短期的には非常に魅力的なのですが長期的にはあまり役に立たないように思います。

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教会塾いっしょでご指導下さっている浦島先生の「うらしまコンサート」(そのままですね...)に出演させて頂きました(^^)/

私たちが困難において援助者に求めることは大抵問題の解決です。そしてそのことを引き受けようとする援助者、実際に解決してくれる援助者はその時には大変ありがたい存在です。
けれども、あなたの問題を代わりに解決してくれる人はあなたを成長させてくれる人ではありません。そこで覚えるのは援助者への頼り方だけであって、その人自身は何も変わらないのです。

本当の援助とはその人が直面している問題に、その人自身が挑戦し時間がかかったとしても乗り越えていけるように、その人のチャレンジを支援することではないでしょうか。
そもそも援助、応援というのは地味でその成果は見え辛いもの。本当の援助と言うのは劇的であったり、目立ち過ぎてはいけないものなのです。

子どもたちとじっくり関わっていると、子どもたちの内には「前に進もう、挑戦しよう」とする前向きな思いが必ず潜んでいることに気がつきます。でも、色々な事情でそれが中々表に出てこないのです。
自信が無い、怖い、寂しい、過去の失敗、自己像の傷、色々な事情があるでしょう。それで脇道に逸れたり、無気力になったり、反抗的になったり、甘えたりする訳です。
でもどこかのタイミングでそういう自分に満足できずに「やっぱり前に進みたい、自分の人生を歩んで行きたい、挑戦したい」という意欲が現れる時があります。必ずあるのです。
その時に、ホンの少し背中を押してくれる人がいる。「あなたの挑戦を応援しているよ」と自分を肯定してくれる人が居る。
それは地味な存在ではあっても、その人の人生を左右するような意味のある援助になるのです。

人生って紙一重だなとしばしば思います。それは見方を変えると本当に必要とされている援助は紙1枚程度、ということかもしれません。
でもしばしば援助する側が紙1枚分の援助では満足できずに、紙20枚、30枚分になりたくなってしまって、結局本人の成長の芽を摘んでしまうようなことがあるのではないでしょうか。

本当に必要とされている援助は紙1枚。自分を紙1枚に出来るかどうか。そして、人生を左右する本当に大切な1枚になれるかどうか。
誰かの人生に劇的に関わることなど出来ませんし、出来たとしてもそれは自己満足に過ぎないのかもしれません。
人生は紙一重。だから地味であっても、子どもたちが必要としている本当に大切な紙1枚がいつでも用意されている教会でありたい。これが子どもたちと関わる川奈聖書教会の責任だと思っています。

ぜひお子様を教会にお送り下さい(^^♪
子ども礼拝 毎週日曜日 午前9時15分から10時半
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2015年03月05日

“誰が”と“何をするか”の関係

人というのは冷静に観察していると面白い気付きが色々あるもので、例えばある事柄について他の人が提案した時にはNOと言うけれど、自分が言い出した時には同じことがYESに変わるというようなこと、珍しくありません。

こういう癖がある人の行動には主に二つの要因が考えられます。
一つは、他者に対する不信感です。自分が主導権を握っていないと物事は上手くいかないという思い込み。
人は自分を傷つけたり、騙したりする。人に任せると失敗する。そういう他者への不信感が、事柄については賛成であっても他者が主導する事に対して無意識に反対したくなる感情を呼び起こします。
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留田の海水浴場近くにある宇佐美教会さんhttp://music.geocities.jp/hrncs784/で、毎週水曜日夜7時からの礼拝が始まったそうです!火曜夜は川奈聖書教会、水曜夜は宇佐美教会の夕礼拝(^^♪

もう一つの可能性は、そこで行われる事柄よりも、そのことを通して得られる副産物の方に関心が向いているというケースです。
例えば、何か良いプロジェクトを進めることになったとして、そのプロジェクトが成功することよりも、そこで自分が中心的な役割を果たすことの方に意味を見出している。
ですから、自分が主導出来ないのであれば、こんなプロジェクト失敗した方が良いという、そういう発想の人は「何をするか」よりも「誰が言うか」で意見が大きく変わります。

ひと昔前に流行ったでしょうか、「イエス・バット法」というコミュニケーションのテクニックがあります。
何かの交渉事において、相手の言葉に反論する時に全否定するのではなく、まず同意を示しながら、その上でNOの理由を述べていくと相手はこちらの考えを受け止めやすくなるという話し方のテクニックです。
確かに「あなたの意見には、こういう問題があるから絶対ダメです」と全否定されるのと、「なるほど。あなたのおっしゃることはもっともですね。ただ、こういう問題があるので残念ですが今は無理なのです」と部分的にでも共感が示された上で否定されることと、印象はかなり違うでしょう。

世の中というのは、多くの場合本質的な事とは違う場所に大きな影響を受けて動いていくもので、感情や印象や、そういう主観的なことが決定的な意味を持ってしまうことがしばしば起こります。
それは非常に面倒で不愉快なことでありますが、しかし物事の本質をしっかり見据えていると、主観に左右される世の中だからこそ動かしやすい面というのも見えてくるかもしれません。
副産物が欲しい人にはそれをあげたら良いのです。そのことによって、困難な事柄に実現の道筋が見えてくるかもしれません。

本当に大切な一つの物を見抜いている人は最強です。
プライドとか名誉とか功績とか、そういう副産物に見向きもせずに本当に大切な一つの物を見据えている人にとって、本質的ではないことに重きを置く人というのは案外動かしやすい人であるかもしれません。逆にこじれてしまう時というのは、こちらが本質的なこと以外にも関心を持ってしまっているからではないでしょうか。
「“誰が” “何をするか”」。この二つの面が結び合って世の中は動いています。そこで、「誰が」を人にあげてしまえる人というのは、それだけで大きな武器を手にしているのです。

川奈聖書教会はあなたの掛け替えの無い人生を応援しています!
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp


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2015年01月30日

親子の距離感〜惑星と衛星のように〜

娘たちの学校で「なわとび集会」というのがありました。
家の娘たちはとにかく学校行事は何でも親に観に来てほしいタイプなので、5年生のお姉ちゃんも1年生の妹も「観に来て!来れる?絶対来てよ!!」と繰り返し誘ってくれました。
何とか時間を調整して行ってみると学年ごとの集会なので見学に来ている保護者は10名弱...。もちろんお父さんは私だけ。
マラソン大会のように保護者が呼ばれている集会だと勘違いしていたので若干恥ずかしさはありましたが、私の顔をみつけて喜んでくれる娘たちの顔を私も嬉しく思いながら、八の字飛びを見学してきました。

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オズワルドという心理学者がこのようなことを言いました。
「子どもは親の衛星になることによって問題への正しい対処を学ぶ」、惑星と衛星の関係のように、いつも等距離に親が居てくれることを子どもが感じられる。その安定した親子の関係性・距離感を軸・土台として、子どもは様々な出来事に対処する力を見につけていくというのです。 
いつも同じ場所に、同じ距離に親が居てくれるという、そういう見えない親の支えが子どもの力になるのです。

親子の関係を「衛星」に例えるというのは絶妙な表現だと思います。
ついつい親は心配になって子どもにくっつき過ぎてしまいます。手取り足取り、何でもやってあげたくなるのです。でも、それでは子どもは自分の力をつけていくことができません。親に限らず「誰かにやってもらう」という依存的な発想が染みついてしまうでしょう。
くっついていなくて良い、惑星と衛星の距離感で良い、というのです。

一方だからと言って、親が子に無関心であることのマイナスももちろんあります。
例えば教会のリトミック教室でよく目にする光景ですが、お母さんと離れることが難しい就園前の子どもさんが、他の子どもたちの遊びやおもちゃに惹かれて少しずつ自分でそこに参加して行こうとします。その時に少しずつ前に進みながら、何度も何度も振り返ってお母さんの存在を確認します。
お母さんがそこに居てくれている。私のことを見てくれている。その安心感の中でお母さんの下を離れ、友達の輪の中に少しずつ加わっていきます。
ある一定の距離の中で見ていてくれているお母さんの存在、正に衛星のように離れているけれど繋がっている、その安心感が子どもの自立・成長・チャレンジの力になるのです。
そして成長と共に少しずつ親との距離が離れていき自立に向かっていきます。

親子の惑星と衛星の距離感が安定していると、様々な出来事があっても子どもさんの情緒は安定し様々な課題にそれぞれのペースで向き合っていくことができます。
一方、親子の惑星と衛星の距離感にぶれが起こると、それが何がしか子どもさんの様子に現れるものです。
近づきすぎると依存性が高まりチャレンジ精神が失われたり、親の存在が近すぎて窮屈になりイライラが現れたりします。逆に遠くなりすぎると、「私をもっと見て欲しい」というサインを問題行動や体調不良なので訴える、というようなことが起こります。

最近小・中学校で、怪我をしたかのような傷口のペイントをボールペンやマジックですることが流行っています。
子どもたちの流行にはしばしば意味があると思います。怪我をしたかのようなペイントを見て「どうしたの!」と注目してくれることを望んでいる、「もっと私を見て欲しい」という現代の子どもたちの欲求を投影しているのかもしれません。
親も子も忙しい時代。いつも一緒にいることは出来ませんし、関われる時間は限られています。
でも、子どもは親が私のことを思ってくれている、見ていてくれている、そういう安心感を必要としています。
それぞれの年齢、成長に合わせた惑星と衛星の距離感があります。
惑星である親の都合ではなく、衛星である子どもの状況に合わせて適切な距離感を保つことが出来ると良いですね。

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています!
子育て相談室 教師歴40年の浦島さんと牧師の山口がお伺いさせて頂きます。
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp
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2014年12月23日

「思うこと」と「考えること」の違い

気持ち・感情が過度に重んじられることの多い時代では無いでしょうか。
気持ちは大切ですが絶対視すべきではありません。「感じるがままに」「思うままに」「ありのままに」という感性偏重主義は危ういものだ思います。

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川奈聖書教会のクリスマスイヴ礼拝 24日(火)夜7時から8時 ぜひお越しください!

例えば病院で「おかげんいかがですか?」とお医者さんに尋ねられた時に、「苦しいです」「痛いです」「辛いです」「楽になりました」など感覚的な患者さんの反応だけを頼りに治療がなされるということは無いのだろうと思います。
患者さんの気持ちや感覚は、その方が抱えている問題・原因・状態を医師が見抜く手掛かりになるでしょう。そうやって、お医者さんは患者さんが抱えている問題の原因を突き止め対処していかれるのです。
同じように、カウンセリングにおいて相談者の気持ちや感覚に終始する対話というのは発展性を持たないように思います。様々な気持ちや感覚の原因となっている事柄を見抜いていくことが援助者の大切な仕事です。

気持ちや思い・感情は大切なものですが、それは絶対ではありません。
「嬉しい、楽しい、喜び、悲しい、怒り」、自分が感じている感情を素直に受け止めることは良いことですが、一方で「なぜこのような感情・感覚を私は(相手は)持っているのか」、感情や思いの源泉に対して論理的であることは大切なことです。

「どう思うか、どう感じるか」感性の問題と「どう考えるか、どう判断するか」論理・ロジックの問題がご自分の中でかみ合っているか確認してみて下さい。
野放しの感情というのはこわいもので、それは時に現実や事実を飲み込み歪めていく程の力を持っています。それゆえ意図的に感情を強調することによって、論理的思考を失わせ相手をコントロールするような悪しきことも時に行われます。
ヒトラーが「大衆は感情で動く。だから優しくしたり威圧したりすれば、大衆も政権も簡単にモノにできる」というようなことを言ったそうです。私たちは、自分の感情や思いを健全にコントロールしていくために、しっかりとした論理・考え方を身につけていく必要があるのです。

人生には辛いけれど向き合わなければいけないことがあります。苦しいけれどやり遂げるべきことがあります。楽しいけれど止めるべきことがあります。
感情は自分をより深く知る大切な手掛かりになります。しかし感情によって全てを判断することは出来ませんし、感情によって事実や真実を曲げてしまうべきではありません。
柔軟性や好奇心は大切です。でも、新しい物や考え方に触れるたびに振り子のように揺れてしまうのでは、人生を積み上げていくことはできません。ぶれない一貫性をもった考え方の中にこそ本当の意味での柔軟性が生まれるのです。

色々な感情をコントロールする論理を身につけておられるでしょうか。様々な人生の出来ごとの中で、それらを貫いていく確固とした考えを持っておられるでしょうか。
聖書はいつも私たちの感情を受け止めながら、進むべき人生の指針を示してくれるものです。

聖書を大切にする川奈聖書教会です。 http://www.geocities.jp/kawanachurch/

以前に書いたこんなブログ記事も参考になるかもしれません。
http://bokushishitusasayaki.seesaa.net/article/372275003.html
http://bokushishitusasayaki.seesaa.net/article/372892720.html

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2014年12月09日

特効薬を求めないこと

川奈聖書教会の初代牧師 荒井基先生は日本女子大で長年栄養学教授としてご活躍になられ、60歳を過ぎてからその職を離れて川奈で教会を開拓されました。
特に母乳に含まれる免疫機能の研究では日本において先駆的な役割を果たされた方だと伺っています。
その荒井先生がよくおっしゃっておられたのは、「食事はバランス良くが基本です。ちまたで言われる特効薬のような食べ物はありません」、ということでした。

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荒井牧師に長女の祝福を祈って頂いた11年前の写真

「○○を食べると○○に良い!」みたいなことをテレビが取り上げると、もうその日の夕方にスーパーの売り場が品薄になっている。そういう風潮を嘆いておられました。
先生曰く「そうやってブームになった食べ物が注目され続けることがありますか?バランス良く食べ続ける、それが一番大切なことです」、荒井先生のおっしゃることはシンプルですが一貫性があり大事なことをたくさん教えて頂きました。

荒井先生が栄養について教えて下さった言葉は人生にもそのまま当てはまると思います。
しばしばびっくりするような特効薬が求められる時代です。人生が劇的に変わる偉人の言葉とか、心が一瞬で聖くなるような感動の話しとか、雷に打たれるような劇的な発見とか、、、でもそういうことで人生が大きく変わったと言う人はあまりいないと思います。
ネットをボンヤリ眺めながらたまたま手に入った情報で自分が別人になれるような感動を味わって、でもたまたま手に入った物というのはそれ相応のこととしてしか人生には意味を持ちません。

「食事はバランス良く」、これくらいの言葉ならレタスとキャベツの違いもおぼつかない私でも言えそうなことですが、こういうシンプルな言葉を何十年栄養学について研究し続けてこられた先生がおっしゃるからこそ意味があるし、説得力・影響力が生じるのです。

特効薬が求められる時代です。仕事も、勉強も、子育ても、夫婦関係も、健康も、特効薬を直ぐ探し始めてしまいます。私が教会でお受けする相談も、どんどんそのような傾向が強くなっているように思います。
一度お会いしてそこで何か自分が変われそうな劇的な何かをもらえないだろうか、と...。
でもそういう期待に応えようとは思いません。その期待を諦めることから人生の方向転換は始まるのです。
そして劇的な物には必ず反動や弊害があることも忘れてはいけません。細かい説明を省きますが、それは依存症の心理です。
劇的な経験は直ぐに効果を失い、更なる劇的な物を求めたくなり・・・、そうやって劇的な何かに依存することでしか人生を支えられなくなり、人生の目的が「劇的」を得ることにすり替わってしまいます。

ですから、特効薬を求めたくなる方がまず認めなければいけないことは、特効薬では人生は変わらないということ。「バランス良い食事。それを続けること」、という荒井先生の実に単純で地道なメッセージ、でも確かにその通りなのです。
何かの特効薬で、自分の暗部を誤魔化そうとするのではなく、その暗部を認め続け、そこに必要な物を与え続け、自分にとってマイナスになるものを取り除いていく。
そうやって10年、20年、、、バランス良い食生活が生涯に渡って求められるように、バランスの良い心の栄養、人生の食生活を考え続けていく。
本当に必要なものは一時的な特効薬ではありません。生涯に渡って自分に与え続けるべきものを見つけること。そして、それを続けていくこと。まずはそれが出来ない自分を認める所からはじめてみませんか。

「わたしはいのちのパン」とおっしゃったイエス様のことばを教会が語り続け、またそこに集まってくる方々が毎週聴き続けいく理由はこんな所にあるのです。

川奈聖書教会は掛け替えの無いたった一度のあなたの人生を応援しています!
日曜礼拝 午前10時半から12時
火曜礼拝 午後7時から8時 どなたでもお越し下さい。

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2014年11月07日

反抗期のお子さんを愛するあなたへ

子どもたちの遊びの定番と言えば“かくれんぼ”。我が家の子どもたちも、教会の子どもたちもかくれんぼが大好きです。
そして、赤ちゃんが最初に覚える代表的な遊びは“いないないばぁ”ですね。この二つの遊びは「隠れる」ことと「見つける」こと、という共通点があります。
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代表&指揮を務めるストリングアンサンブル伊豆のコンサート、大盛況でした。応援感謝<(_ _)>

かくれんぼはオニに見つからないことを目指す遊びですが、しかし子どもたちが本当に求めていることは見つけてもらうことではないでしょうか。ぜったい見つからないような場所に隠れている自分を探してくれる、見つけ出してくれる存在がいることを遊びを通して体験し喜んでいるのです。
逆に見つけてもらえなかったかくれんぼというのはとても悲しいものです...。

時に子どもはあえて親を悲しませることをします。親を困らせ、親を非難し、親への怒りを露わにします。
子どもはそうやって親を苦しめることによって、親が自分に無関心になり、自分を見捨ててくれることを望んでいるのでしょうか。もしそれで親が子に無関心になってしまうのであれば、それは探してもらえないかくれんぼと同じではないでしょうか。

時に子どもが親の前から姿を消してしまうようなことさえ起こります。けれども、だからと言って居なくなった子を「もう知らぬ。親子の縁もこれで切れた」と見捨ててしまうなら、それもやっぱり探してもらえないかくれんぼと同じことなのです。
どこにいるのか分からない、何の連絡も無いお子さんのことを思う親の気持ちはどんなに辛いものでしょうか。でも、そうやって一方的に出て行って、どこにいるのか分からない子どものことを思い続け探し続けてくれる親の愛を力にして、子どもは生きているのです。

激しい反抗期の子どもさんの言動・行動に戸惑い苦しむことがあるでしょう。
その時にぜひ“かくれんぼ”を思い出して下さい。子どもさんは難しい場所に隠れて見つからないことを望んでいるのではありません。
愛せるはずが無いと思えるような自分を現わし、そんな自分をなおひたすらに愛しいと思ってくれる親の愛を力にしながら、子どもさんは思春期の嵐の中を必死に生きているのです。
だから、見つけることよりも、探し続けることが親の仕事なのだと私は思います。

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています!
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2014年10月28日

Gen・hatさんの個展にお邪魔して

日本シリーズ真っ最中ですが実は私ライオンズファンです。
生まれも育ちも相模原の私がなぜライオンズファンなのか、、、と言いますと答えは簡単。小学校低学年の頃、父親がライオンズの野球帽を買ってくれたからです。なぜライオンズだったかは覚えてませんが、やがてこの帽子が「ライオンズ」という野球チームの帽子であることが分かって以来、野球というと私はライオンズを応援しています。
当時西武ライオンズは黄金時代。石毛、秋山、デストラーデ、清原、辻、伊東、東尾、工藤、渡辺、郭、潮崎と、鬼のようなスターが揃いに揃ってムチャクチャ強かったしカッコ良かったです。
何度か西武球場に応援に行きました。5年生の時に友達と二人で片道2時間くらいかけて電車で応援に行ったのは物凄く楽しい思い出です。そこでお小遣いで「郭泰源」の下敷き買ったのも忘れられません。。。

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なぜそんな話しかと言いますと先日Gen・hatさんの帽子の個展を拝見してきたからです。帽子の個展って生まれて初めて拝見した訳ですが、一つ一つ個性的でぬくもりのある帽子を拝見しながら、帽子について考えていて思い浮かんだのが上記のエピソード。
「帽子と言えば西武ライオンズだよなぁ〜」と。毎日ライオンズの帽子被ってたんですよね。。。
色々な帽子拝見しながら「洗う時はどうするのかな」と思ったりして、そう言えば私の野球帽お母さん洗ってたのかなぁ。見たこと無いよな。大丈夫か...」とか、どうでも良いこと考えてました^^;
ライオンズの帽子のこと思い出したのはホント久しぶりのことでした。ただの帽子繋がり...、ではないと思うんです。

大学生の時に現在の奥さんにプレゼントしてもらった腕時計があります。10数年前にそれをうっかり洋服のポケットに入れたまま洗濯に出してしまい壊してしまいました。
当時、神学生で食うに困っていましたからとても時計の修理など出来なかったのですが、伊東に来て何とかご飯は食べれるようになったので修理してもらおうと時計屋さんに持って行ったら「これ直すのは止めときなさい。新しく買った方が安いよ」と言われてとても悲しい思いをしました。
物の価値は値段だけでは無いはずです。もちろん親切のつもりで言ってくれたのでしょうが、時計屋さんであるならばこの時計がどういう時計なのか、その人にとってどういう価値があるのか、一言話しを聞くべきだったと私は思っています。

私はファッションにまったく無頓着な人間で全然分からないのですが、Gen・hatさんの帽子を拝見しながら自分の大切な感情が不思議とよみがえって来たのは、きっとGen・hatさんの帽子に心があるからなのだろうと思います。
人は人格的な存在です。ロボットとは違います。心はお金では説明できないし計れないものです。
そこが分からなければ、人は豊かに生きていけないし、人を豊かにする物も生み出せないと思います。

「どうやってこういう帽子の形をお作りになるのですか?」と伺ってみました。フェルトに針を刺していくことで変化をつけていく、というようなお答えだったと思います(違ってたらごめんなさい(-.-))。
お話しを伺いながら、一針一針心を込めて刺しながら帽子に命を吹き込んでいかれる帽子作家さんの姿を想像しました。そういう心の宿った物が、人の心を動かすのではないでしょうか。私の心の中にある大切な記憶が、心の宿った帽子に触れることで動き出しよみがえって来たように思います。
家族との関わり、子育て、仕事、音楽、友人関係、色々な時々の中で、心を見逃さない生き方をしたいなと、そんな気付きを頂くひと時でした。

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2014年10月18日

友達ってなんだろう?

もう秋も更けてきた頃に夏の話しで恐縮ですが、今年の夏は色々な方との出会い・再会の機会があって、とっても嬉しかったです。
FBで知り合ったおじさま方とのリアルでは初めての出会い。バーチャルな世界での付き合いをリアルに繋げるおじさま方の姿勢に感激しました。潮田さん、清水さん、ありがとうございました!
父親が牧師をしている教会の教会学校に来ていた女の子が立派な看護師さんになって10年ぶりくらいで訪ねてきてくれたり。
そしてそして、何といっても神学校で一緒に学び、一緒に遊んだ大切な韓国の友人ファミリーがわざわざ伊東まで会いに来てくれて、この再会は泣けました...。
9月に大和郡山に出かけた時にも、忙しい中関西にいる神学校のクラスメートファミリーたちが会いに来てくれて、とても嬉しかったです。
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私はどちらかと言うと友達付合いが悪い人間と見なされるタイプでして...。友達を誰よりも大切に思っている“つもり”なのですが、そう受けとめられないことも割と多かったかもしれません。
原因ははっきりしていて、ベタベタするのが嫌いなのです。
仲間内でチョコチョコ集まるとか、常に一緒に行動するとか、そういうのが嫌いでむしろ自分と違う人や、自分が足場を置く場所とはちょっと違う所に入っていくとか、そういうことを好む妙な性格をしているようです。

この夏、韓国の友人と神学校卒業以来12年ぶりに再会し、他のクラスメートとも数年ぶり〜10年ぶりくらいの再会だったのですが、その再会の時間を通して彼らが私にとって掛け替えの無い友人たちであることを改めて思い感謝しました。
彼らの中に10年経っても全然変わらない場所がちゃんとあって、でもその場所を軸にしながら着実に成長していて、当然それには沢山の苦労があっただろうことが想像できて...、そういう友が居てくれることが私にはホントにありがたいことですし、彼らに限らず素晴らしい友人たちに支えられている自分であることを実感しました。

神様は一人一人に異なった使命を与え、生きる場所を与え、向き合うべき課題を与えて下さいます。人生はそういう面で非常に孤独なものだと思います。
それゆえともすると、私たちは自分が向き合うべき孤独を一緒に受けとめてくれる、一緒に手を繋いで生きてくれる存在を求めてしまい、それを受け入れてくれる人を「友達」と誤解してしまうのではないでしょうか。
けれども本当の友達とは、それぞれが向き合うべき課題に、向き合うべき場所で苦闘しながら、その使命に生きている人。お互いにそのことを信じ合える関係性なのではないかと思うのです。

人間はみんな弱いです。一緒に居てもらうことが必要な時、話しを聴いてもらい、慰めてもらい、励ましてもらうことが必要な時が誰にでもあります。もちろん私もそうです。
でもそれは、自分が神様から与えられている場所にまた出ていくために与えられる一時の休息です。
その慰めの場所にずっと留まっていたい、いつまでも一緒にいたい、一人は嫌だ、そういう関係性は本当の意味での友情ではありません。

あなたの経験している困難は大きいものだと思います。あなたにしか分からない辛さや苦しさ、恐れ寂しさがあるでしょう。でもそこにこそ、あなたが生かされている特別な意味があるのです。
大きい小さいなどありません。その場所で懸命に生きているあなたの人生は掛け替えの無い、尊い意味を持った人生です。
そして、同じように他の誰にも分からない困難を背負いながら生きている人があなたの周りにいるはずです。そのことをお互いに信じ合える関係性は、私たちが自分の人生を生きる上で大きな力になるのです。

一生懸命生きているあなたを応援しています。そして私も、自分の生きるべき場所で神様から頂いている使命にこれからも全力で生きていこうと思います。
一生懸命なあなたを、私は大切な友だちだと思っています!


posted by pastoryama at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする