2016年06月01日

AIにない人の魅力とは(将棋名人戦の感想から)

羽生名人敗れ、佐藤天彦新名人が誕生しました。天彦8段の4勝1敗ですから結果だけでいえば完勝、完敗です。
別に将棋を指す訳では無くルールが分かる程度ですが、解説付きで見ていると信じられない程に先の手を読み合っている棋士の様子が面白く、観戦するのは好きです。
今回の名人戦は今とにかく勝ちまっくている20代の天彦挑戦者と40代半ばでなお絶対王者の羽生さんの戦いということで関心がありました。名人戦は1回の対局が2日がかりで4勝した方が勝ちという長丁場ですからもちろん全部を見ることは不可能ですが、時間のある時にニコニコ生動画を覗いたりyoutubeにアップされている動画を見たりして推移を見守っていました。

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天彦8段が圧倒的な強さを見せたのは誰の目にも明らかですが、そんな中でニコニコ動画の画面に次々表示されていく視聴者のコメントに世相のようなものを感じました。
「羽生衰えた。羽生の時代終了。世代交代」、劣勢の羽生さんの姿を見てもはや「羽生に見る所無し」と言わんばかりの言葉が数え切れず表示されていました。
確かに40代半ばの羽生さんですから、後になってこの名人戦が世代交代のターニングポイントだったと言われる可能性はあるでしょう。ただ、ある程度年齢を重ねた人が若い人に負けると「彼の時代は終わり。衰えた。時代遅れ」と短絡的・表面的な評価しかされない価値観の薄っぺらさに違和感を覚えるのです。

特に3戦目・4戦目は私のようなど素人の目にも、終始羽生さん劣勢で厳しい展開でした。プロの棋士の方に言わせると一日目の形で、もう勝負ありと見えるような状況だったようです。
経験豊かなプロ棋士たちが軒並み「勝ち目なし」と見ている中、しかし羽生さん粘りました。そして終盤に飛び出した「八八歩」の一手は、対戦者の天彦八段も観戦しているプロ棋士たちをも呻らせる予想だにしない手だったようです。大逆転とまではいきませんでしたが、2日目朝の時点で「羽生完敗」と思われていた将棋を夜まで指し繋ぎ、最後の最後で「まさか」と思わせる山場を作って見せた羽生さんの執念に感動しました。

以前、精神科医の工藤信夫先生の勉強会で先生が「ベテランの精神科医より若手の医師の方が良いケースがある。ベテラン医師は自分の経験の中で患者さんの回復の可能性を早い段階で見切ってしまう所があるが、若手は経験が無いので“何とかできないか”と無理と思えるケースでも頑張り、思いもよらない結果を出すことがある」、そんなことをおっしゃっておられました。
様々な職業でそういう面があるかもしれません。私はまだ牧師歴13年の新米ですが、それでも僅かな経験の中で下手をすると「これはこの程度だろう」と見切ってしまう危うさを覚えます。
プロ棋士が軒並み「望みなし」と言っている以上そういう展開だったのでしょう。それでも何かあるのではと信じて考え続け、誰も見つけられなかった「何か」を示して見せたその姿に感銘を受けました。
経験ゆえに状況を見切って捨ててしまうのではなく、経験ゆえに望みを繋ぎつつ可能性を追求する姿勢。私もそのようでありたいと思います。

将棋は勝負事ですが、見る側の楽しみは勝ち負けだけではありません。
それこそ勝ち負けだけで言うならば、今や最強棋士は羽生さんでも天彦さんでも無くAI(人工知能)です。もう将棋におけるAIの人間に対する優位性ははっきりしました。だから最強のAIの将棋が面白いかと言えばそんなことは無いわけです。
努力・勉強し、失敗やミスを犯し、心が折れそうな時があり、それでも可能性を追求し続け、時に勝ち、時に敗れ、衰えた能力を別の場所でカバーし、経験を若さが打ち破り、若さを経験が打ち破り、そういう人間の営みが一つの事柄の中に現れるから魅力があるのです。

結果などの表面的な事柄しか評価できない価値観の中では、人の活動領域はどんどんAIに取って代わられていくでしょう。結局、表面的な価値観は人間自身の存在意義を失わせるものです。
「損か得か、勝つか負けるか、上か下か、早いか遅いか」、そういう表面的なものよりももっと奥行きがあり豊かな価値観・感性を身につけていきたいものです。

人が生きている、生かされていることの意味を人間自身が棄損するような時代の中で、人が人であることの失われ無い意味や価値を聖書は教えてくれています。
「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」聖書


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2016年02月19日

被害者を非難してはいけません

凶悪な事件や犯罪・事故が起こると直ぐさま「そんな奴死刑にしろ」「生きている意味は無い」「殺せ」と、あたかも犯罪者を抹殺すれば問題が解決すると錯覚しているような、短絡的な声があがります。
何がしかの問題に関わり状況を深く知っていく時に、様々な負の要因が絡み合ってある時目に見える問題が発生することが分かります。問題行動を起こす本人一人の問題として片付けてもほとんど意味はありません。

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例えば虫歯が痛むので歯を一本抜いたとして、一時的には痛みから解放されても、歯を磨かない・甘い物ばかり食べるという生活習慣をそのままにすれば、また別の歯が痛み出すのは必然です。
悲惨なバス事故がしばらく前に起こりました。果たして運転手だけが、会社だけが悪いのか。その場所を取り除けば問題は解決するのでしょうか。私たちはあの事故に本当に無関係な存在なのでしょうか。
考えれば分かることですが、考えることができません。思考が停止してしまう、停止させてしまうのです。

悲惨な事件や痛ましい事故を見た時に、人間は受け止められない事柄から逃避しようとします。「本来こんなことが起こるはずは無い」と思いたくて、「たまたまそこにとんでもない人間がいて、とんでもない会社があってそれゆえに」と、特定の犯人に責任を全て負わせ、現実に起こっていることの悲しみ・痛みを回避ししようとする現実逃避です。それでは何の解決にもなりません。

事件・事故を見聞きして起こるもう一つのことは被害者に対する非難です。
例えば性犯罪とかセクハラなどが起こった時に、「被害者にも問題があった」という被害者非難という問題がしばしば起こります。
けれどもどうでしょうか。ケガをしてまだ傷も癒えない苦しみの渦中にある人に、「あなたにも問題がありましたね。あなたにも原因がありましたね」などと言うことがあり得るでしょうか。けれども、実際ハラスメントの被害にあった方の多くが、このような二次被害を経験します。
なぜ被害者を非難してしまうのか。加害者への短絡的な非難と原因は同じです。
受け止められないような出来事・事件に巻き込まれ苦しんでいる方がいると「本来こんなことは起こるはずが無い」と現実から逃避したくなるのです。もしこれが現実に起こりうることだと認めると、その人自身が不安に襲われ受け止めきれなくなってしまう。
そこで被害者の落ち度を見つけることの中で、「私にはこんなことは起こらない。普通はこんなことは無い」、そのように逃避しようとするのです。

ですから、しばしば被害者を非難するのが似たような境遇や共通点を持つ方であることが多いのです。教会が痛ましい事件の被害を受けた時に「あそこの教会はこんなことをしているから」と他の教会関係者が被害者を非難したり、援助者が被害を受けた時に「準備が足りないから。安易に関わり過ぎるから」などと似たような立場の人が被害者非難をしたり。
こういうことは正に、自分の身に同じようなことが起こるかもしれない、という恐れを回避するための逃避です。

虐待・家庭内暴力のようなことは私たちのごく身近にいくらでも起こっていることです。その中の本当に僅かな事件だけが報道で取り上げられる訳ですが、それは氷山の一角です。そして、悲惨な結果が報道されると「周囲の人間は何をしていた」「児童相談所は」「学校は」と、犯人探しが始まります。
一方で、捨て身になってそのような案件と日夜関わっておられる方々がたくさんおられます。そういう関わりにおいては、身の危険を感じるようなことが決して珍しくはありません。そして、そのような捨て身で関わってくださる援助者たちの地道な活動が、非常に深刻な問題を抱える家庭を何とか支えているというケースがたくさんあります。そういう援助者たちが、被害者非難のはけ口にされるようなことがあってはいけません。
自分を常に安全地帯に置きながら、加害者・被害者を非難するだけの無責任な態度は「百害あって一利なし」と言わざるを得ません。

もちろん何がしかの事件や事故が起こった時に検証は必要です。けれども検証されるべきは直接の加害者・被害者だけではなく、社会を構成する私たち一人一人が自分自身を省みるという姿勢を持ってなされるべきことであって、検証と称して自分を部外者のように振る舞いながらああだのこうだのと評論したり、詰まらないコメントをするような姿勢はやはり「百害あって一利なし」です。

受け止められない、信じられない、認めたくない様々なことが起こるこの時代、この社会の中で、逃避ではなく「これが私たちが作った社会の現実」「これが私たちが構成している社会の現実」であるという厳しい事実に正面から向き合いながら、何ができるのか、何をしなければいけないのか。「わたし」をその渦中において考えるべきではないでしょうか。
当事者としての悔い改めから始まる言葉・行動が求められているのです。

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2014年10月28日

Gen・hatさんの個展にお邪魔して

日本シリーズ真っ最中ですが実は私ライオンズファンです。
生まれも育ちも相模原の私がなぜライオンズファンなのか、、、と言いますと答えは簡単。小学校低学年の頃、父親がライオンズの野球帽を買ってくれたからです。なぜライオンズだったかは覚えてませんが、やがてこの帽子が「ライオンズ」という野球チームの帽子であることが分かって以来、野球というと私はライオンズを応援しています。
当時西武ライオンズは黄金時代。石毛、秋山、デストラーデ、清原、辻、伊東、東尾、工藤、渡辺、郭、潮崎と、鬼のようなスターが揃いに揃ってムチャクチャ強かったしカッコ良かったです。
何度か西武球場に応援に行きました。5年生の時に友達と二人で片道2時間くらいかけて電車で応援に行ったのは物凄く楽しい思い出です。そこでお小遣いで「郭泰源」の下敷き買ったのも忘れられません。。。

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なぜそんな話しかと言いますと先日Gen・hatさんの帽子の個展を拝見してきたからです。帽子の個展って生まれて初めて拝見した訳ですが、一つ一つ個性的でぬくもりのある帽子を拝見しながら、帽子について考えていて思い浮かんだのが上記のエピソード。
「帽子と言えば西武ライオンズだよなぁ〜」と。毎日ライオンズの帽子被ってたんですよね。。。
色々な帽子拝見しながら「洗う時はどうするのかな」と思ったりして、そう言えば私の野球帽お母さん洗ってたのかなぁ。見たこと無いよな。大丈夫か...」とか、どうでも良いこと考えてました^^;
ライオンズの帽子のこと思い出したのはホント久しぶりのことでした。ただの帽子繋がり...、ではないと思うんです。

大学生の時に現在の奥さんにプレゼントしてもらった腕時計があります。10数年前にそれをうっかり洋服のポケットに入れたまま洗濯に出してしまい壊してしまいました。
当時、神学生で食うに困っていましたからとても時計の修理など出来なかったのですが、伊東に来て何とかご飯は食べれるようになったので修理してもらおうと時計屋さんに持って行ったら「これ直すのは止めときなさい。新しく買った方が安いよ」と言われてとても悲しい思いをしました。
物の価値は値段だけでは無いはずです。もちろん親切のつもりで言ってくれたのでしょうが、時計屋さんであるならばこの時計がどういう時計なのか、その人にとってどういう価値があるのか、一言話しを聞くべきだったと私は思っています。

私はファッションにまったく無頓着な人間で全然分からないのですが、Gen・hatさんの帽子を拝見しながら自分の大切な感情が不思議とよみがえって来たのは、きっとGen・hatさんの帽子に心があるからなのだろうと思います。
人は人格的な存在です。ロボットとは違います。心はお金では説明できないし計れないものです。
そこが分からなければ、人は豊かに生きていけないし、人を豊かにする物も生み出せないと思います。

「どうやってこういう帽子の形をお作りになるのですか?」と伺ってみました。フェルトに針を刺していくことで変化をつけていく、というようなお答えだったと思います(違ってたらごめんなさい(-.-))。
お話しを伺いながら、一針一針心を込めて刺しながら帽子に命を吹き込んでいかれる帽子作家さんの姿を想像しました。そういう心の宿った物が、人の心を動かすのではないでしょうか。私の心の中にある大切な記憶が、心の宿った帽子に触れることで動き出しよみがえって来たように思います。
家族との関わり、子育て、仕事、音楽、友人関係、色々な時々の中で、心を見逃さない生き方をしたいなと、そんな気付きを頂くひと時でした。

posted by pastoryama at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 番外編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする