2016年05月23日

承認欲求を満たすための禁じ手

先日、ブログに関する興味深い文章を読みました。ブログが普及しだした当初、ブログが書かれるのは自分の文章を手軽に不特定多数に著せること。そして、その文章に関心のある方のレスポンスを得たり情報交換ができること。そのように、文章を書きまた読まれることの素朴な喜びだった。
やがて、SNSの台頭によりブログにもいわゆる「イイネ」のような機能が備わったり、アクセス数を競わせるようなことが盛んになり、そうやってブログへの評価を数値化することで承認欲求が得られるツールになっていった。
やがて書き手が「イイネ」をもらうだけでは満足できないと感じるようになったところで、今度はアフィリエイトと呼ばれるブログでお金が得られる機能が付加されるようになり今に至っているという分析でした。
確かに当たっているところが多いのではないでしょうか。

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億劫なこともありますが、愛犬チャペル君のおかげで毎朝小室山や川奈港など豊かな自然の中をお祈りしながらのんびり歩くことができます。地に足をつけて歩んでいくために大切な時間です。

私がお仕えるする川奈聖書教会の初代牧師は某女子大の元教授さんでした。学者さんだったこともあり、自らがお書きになる文章に驚くほど慎重でした。思い込みで書いて間違いが無いようにと、丁寧に専門書を確認する作業を徹底しておられましたし、裏付けが十分にできない事柄を希望的観測でお書きになるようなことを厳に戒めておられました。
そうやって文章をお書きになるので当然びっくりするような話しは出てきません。どちらかと言えば先生のお書きになる文章は地味な内容が多かったのですが、しかしその分「あの先生の書かれたことに間違いはない」という信頼を得ておられました。
現代は「当たるも当たらぬも八卦」のような内容でも、とにかく関心が集まれば良いとばかりに何の裏付けもない文章が氾濫しています。

人間には多かれ少なかれ承認欲求と呼ばれるものがあります。極単純化すると、自分が生きていることの意味や価値を認めて欲しい、承認してほしいという欲求です。
そのような欲求を抱えているということは、裏を返せば私たちは自分の存在に対する不安感を常に抱えているということです。そういう私たちが日常の一コマを「イイネ」と評価してくれる人に出会える、自分が学んだり考えたことを文章にしたときに、それを評価してくれる人がいるというのはステキなことだと思います。
ただ、人間は現状維持で満足できない依存症的弱さを抱えているもので、ブログがやがてお金の対価を生み出す機能を持たなければ使われなくなっていったように、「もっと評価されたい、もっと理解されたい、もっとご褒美が欲しい」と承認欲求はエスカレートしてしまいます。

自然体の自分を5人の人が「イイネ」と言ってくれることの喜びが、やがてちょっと背伸びした自分が10人に「イイネ」と言ってもらうことの願望に変わり、やがて別人のような自分が20人に「イイネ」と言ってもらうことの欲求に変わってしまいます。
しかし偽りの自分に向けられる承認は、真実の自分の承認欲求を満たさないばかりか、むしろ真実の自分の否定になってしまいます。現実から離れ自分を装うことで評価されればされるほど、置いてきぼりされる現実の自分が否定感・拒絶感を覚えるのは道理と言えるでしょう。
ですからネットだけではなく、様々な事柄において現実の自分とかい離した自分が生まれてこないように気を付けていないと、評価されればされるほどに自分を傷つけてしまい、傷つくがゆえに更に人の評価を求めて自分を演じる、という悪循環に陥ってしまいます。

承認欲求を抱えた自分、存在に対する不安を抱えた自分であるからこそ、別の自分を演じるような禁じ手を犯さないように気を付けましょう。
人を惹きつけるための偽りの自分を100人が評価してくれるより、欠点があり失敗の多い自分が精一杯生きている、その姿を応援してくれる1人の評価があなたには必要です。

川奈聖書教会は、私たちのありのままの姿を知って愛してくださる神様をあなたに紹介します。

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2016年02月04日

「悪者を必要としている“私”」という落とし穴

悪口の心理とはなんでしょうか。誰かの悪口で盛り上がっている時に、私たちは無意識に「彼らのようではない私」という図式での自己肯定を喜んでいるのです。
敵を作ったり、悪者を作ることで自分を肯定しようとする手法に私たちは容易に取り込まれてしまいます。しかしそこには何も良い物はうまれません。

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いよいよ2月8日(月)から中高生対象の英会話教室始まります!まだ間に合いますよ〜。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/tirashi4.index.html

「誰それのようではない私」「悪者と戦う私」という心理は、自分を肯定するのにもっとも容易な手法と言えるかもしれません。しかし良く考えると、そこで「私」が何者であるかは何も説明されてはいません。
そればかりか、何がしかを否定したり非難することで自分の存在価値を確認したり自分を肯定しようとする生き方の中で、その人は常に敵を必要とし、悪者を必要としてしまいます。
否定したり非難する相手がいなければ、自己を肯定することも、自分の価値を確認することも出来なくなってしまうからです。

こうした、対立構造の中に自己肯定を見出そうとする心理には、共依存との共通性が認められます。
共依存は「必要とされることの必要」という少々ややこしい言葉で説明されます。自分の存在に自信が無い人は、誰かから必要とされることを求めるのです。
例えばアルコール依存症で問題行動ばかり起こしているダメ夫を甲斐甲斐しく支えている妻の内に、共依存的な問題が認められることがあります。

一見すると、ダメ夫を寛容な心で支え続けている愛に溢れた妻のように見えますが、実は自分がいなければ生きられないダメ夫を支えることを通して妻は自分の存在価値を確認しているのかもしれません。
そうした時に、もし夫がアルコール依存症を脱して自立的な生活を始めたらどうでしょうか。妻は喜ぶどころか困ってしまいます。
自分が居なくても生きられる夫では、妻は自分の存在価値を確認出来なくなってしまいます。ですから妻にはダメ夫が必要なのです。これが「必要とされることの必要」、共依存です。
このように考えていった時に、実は夫の問題行動を必要としている妻が、夫の問題行動を支えてしまっているという新しい構図が見えてくるのです。

「戦争グループ」と「平和グループ」という対立構造があったとして、「平和グループ」に属する人が「戦争グループ」という敵を必要としているならば、その「平和グループ」は平和を生み出すことはできません。いやむしろ、「平和グループ」が「戦争グループ」を支えているとも言えるでしょう。

敵や悪者、問題・対立を必要としている人が、平和や和解・正義を振りかざしてもそれはまやかしに過ぎません。掲げている看板だけでは見えない真実を見抜く目が必要です。
まず私たちは、否定する誰かを必要とし、それゆえに表向き平和を求めながら結果として対立を生み出し、対立を支えてしまう者であることを認めるところから始めなければなりません。
他者を否定すること無しに語ることのできる「私」を獲得することが必要なのです。

聖書は「神に愛され、生かされている私」という揺るがない「私」を語る言葉を与えてくれています。
たった一度のあなたの掛け替えの無い人生を応援している、川奈聖書教会 牧師の山口です。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2016年01月20日

なんと呼ばれたいですか?

色々な呼ばれ方をします。一番多いのは「山口先生」。でもそれだけではありません。娘たちからは「パパ」、友人たちからは「グッチーorボクさん」。ご近所さんは「山口さん」、親・兄弟は「こうじ」、妻からはいまだに「こうじくん」です…^^;
色々に呼ばれることを大切にしたいと思っています。
学校の「先生」、病院の「先生」、最近は少なくなりましたが政治家を「先生」と呼ぶ方もいますし、牧師も「先生」と呼ばれます。
先生としての責任を回避してはいけないと思いますが、一方で常時「先生」になってしまってもいけません。

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聖歌隊の親睦会&新年会を大室高原のmiracoloさん(http://www.miracolo.jp/)で開催しました。いつも美味しいお料理と楽しい時間をmiracoloさん、ありがとうございます!

ある時点まで「先生」というのは自分より年上の人でしたが、段々自分より若い「先生」に出会う機会が増えてきました。私が最初に出会った年下の「先生」は娘の幼稚園の先生でしたがそれは新鮮な経験でした。
子どもがお世話になる先生に対して、親である私が敬意をもって「先生」として関わることは大切なことだと思っています。
以前、教会にお招きしたあるベテランの牧師さんは、ご子息と主任牧師を交代した時から教会ではそのことを弁え息子さんである主任牧師に敬語で話していると教えてくださいました。
牧師は教会において確かに先生としての責任を与えられています。けれども、当たり前のことですが牧師があらゆる事柄において「先生」である訳ではありません。
私は尊敬すべき信徒の方々に囲まれています。人生経験・社会経験・専門知識、様々なことで信徒の方が私よりも秀でており、私の先生になってくださいます。
最近は自分より若い教会のメンバーが少しずつ増えてきましたが、やはり若い方々を見ていて尊敬すべき所、教えられる所が多々あります。

一つの立場、一つの土俵にしか立てない人は不自由ですし成長することができません。その人は自分の肩書きが通用する土俵にしか立つことができないので、他の土俵で生かされる能力を持っていたとしてもそれを発見することができません。
一つの測り・一つの土俵だけで構成される集団というのは、相互に作用し影響しあう関係性が生まれないので閉鎖的で発展性がありません。
例えば私が常に先生である集団は私の能力以上に成長できませんし、私の限界が集団の限界になってしまいます。しかし、相互に先生として影響し合える集団は、一人のリーダーの能力・限界を超えて成長することができます。
このように個人・集団、両面において自分の得ている敬称・肩書きに固執しないことが成長することの秘訣です。

いつも先生であろうとしないこと。いつも生徒でいることに甘えないこと。様々な土俵にあがり、様々な視点があることを知り、尊敬しあう関係性に生きること。
豊かさを味わい成長していくためには相互に影響し合えるかがどうかがカギになります。
あなたの人間関係はどうでしょうか。あなたが属している集団、あなたが生活している地域はどうでしょうか。
「共依存から相互依存へ」、神学校卒業以来13年間ずっと考え続けているテーマです。

posted by pastoryama at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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