2017年06月29日

問題を抱えながら生きること

生きていると様々な問題が起こるものです。牧師という職業柄、問題を抱えた方の相談を受けることが割と多くあります。相談するということは問題の解決を期待してお話しくださるわけですが、多くの場合、解決に繋がる具体的なアドバイスは中々見つからないのが現実です。

人間関係の問題、健康の問題、家庭・家族の問題、経済的な問題、皆さんの相談をお伺いする中で人生には本当に多くの問題があることに驚きます。実際私たちの人生の大部分にはこれらの何がしかの問題が常について回るものです。「あの問題が解決すれば」と思い悩んでいた課題がようやく解決したとして、しかしあっという間に新たな問題が生じるのが人生。
そうすると、もし仮に「問題を抱えている時には生活を楽しめない」とか、「問題の渦中では人生の喜びが感じられない」ということであれば、その人の人生の時間の大半は喜びの無いものになってしまうでしょう。

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私は犬好き。。。

猫好きで多頭飼いをしている友人が「1匹の猫が調子が悪くて辛そうにしている様子を見ていると自分も辛くてたまらない。でもそんな時に、ほかの猫たちの元気な姿に癒される」というようなことをおっしゃっていました。
もしかして薄情な言葉に感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれはとても大切なセンスだと思います。何かの問題の渦中にあると喜びも幸せも全てが感じられなくなってしまう、それでは人生の大切な時間の多くを無駄にしてしまいます。

大切なことは問題解決先行型にならないこと。問題を解決することに執着せず、問題を抱えながら生きる力を身につけることが重要です。
問題解決先行型の人は、一つの問題に意識も感情も集中してしまいます。一日中そのことばかりを考えてしまい、色々な喜びや楽しみが実際にはあるにもかかわらず、そのことによって生活の全てが問題に覆いつくされてしまいます。そうなることで、ますます問題を抱えることがしんどくなってしまったり、問題に対して感情的になってしまいます。

「問題が解決したらスッキリして色々なことが楽しめる」のではありません。問題を抱えながら生きる人生だからこそ、生活の中に喜びや感動が必要なのです。そして神様は問題の渦中においてこそ、恵み・喜びをたくさん用意してくださっているのです。
ですから1匹の猫ちゃんが調子を崩して辛そうな時、他の元気な猫ちゃんの姿を喜んで良いのです。喜ぶことで、調子を崩した猫ちゃんを支えていく力が生まれてくるのです。

私は家庭では基本的に仕事の話しや自分が抱えている問題について話題にしません(話すことが悪いという意味では無くあくまで私のスタイル)。でもそれは「仕事は仕事、家庭は家庭」と割り切っているということではありません。仕事上の様々な問題、また皆さんから相談頂いている色々な問題を、家庭にいる時にも始終考え悩んでいたら、結局私が問題に関わる力・問題を抱える力を失ってしまいます。
ですから「割り切る」ということではなく、自分の抱えている問題、また支えを必要としてくださっている方々の問題に向き合っていくためにも、家庭における恵み・喜びは常に大切にしていなければならないと思っています。

「問題の渦中でも、喜びや感動・楽しみはいつも与えられている」、このことが分かってくると、問題解決先行型の生き方から問題包容型の生き方に転向できるのではないでしょうか。
あなたのたった一度の人生を応援している川奈聖書教会 牧師の山口です!

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2017年05月29日

失敗を繰り返す人、失敗から成長できる人

聖書の中でイエス様が「口から出て来るものは、心から出て来る」と教えてくださいました。
私たちが生活の中で何か思いがけない失言をした時に「心にも無い事を言ってしまい...」などと言い訳をすることがあります。けれどもどうでしょうか。心にも無いことが突発的に口から出てくるのではありません。イエス様がおっしゃるとおり、普段隠している心の中の思いが何かの拍子に飛び出してしまうのです。

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恒例の川奈聖書教会チャペルコンサート、6月17日に開催です!フルート奏者、菅井春恵さんをお迎えします。ぜひぜひ足をお運びください。

生きていれば手痛い失敗は誰でもするものです。失敗からしか学べないことがたくさんあります。私もこれまでたくさん失敗をして、戒めていただき、許していただき、何とかここまで歩んでくることができました。そういう経験を通して段々注意力を身につけていくものですが、それでも失敗しやすいパターンというのはそれぞれにあるものです。言葉で失敗する人、感情的になって失敗する人、突っ走って失敗する人、色々です。
自分でも注意しているつもりなのですが、分かっていても失敗してしまう私たちの現実の中で、その失敗をどのように受け止めるのかが重要です。

例えば言葉で失敗した時に「心にも無いことを」と、うっかりミスや突発的な失敗と捉えて“これからはもっと注意深くすれば”と受け止めるなら恐らくその人はまた同じ失敗を犯すでしょう。失敗というのは心にあるものが出てきて起こるのです。失敗の原因となる要素がその人の内側にある以上、注意力では防ぎきれません。
ですから失敗した時に「思いがけず」と誤魔化すのではなく、犯した失敗を通して抱えている問題を直視し、原因となっている場所を手当てしていかなければ人間は何度でも同じ失敗を繰り返してしまうのです。

一例ですが、例えば失言の多い人というのは思想の問題もあるでしょうが、その場その場で相手に取り入ろうと過剰に喜ばせようとして言わなくて良いことまで言ってしまう、つまり相手に良く思われたいという思い。逆に言うと、このままの自分ではダメだという自己否定感の問題を抱えている可能性があります。
感情的になって失敗する人というのは、自分の思い通りに物事が進まない時に感情によって自分の望む結果を得ようとしてしまう。これは、子ども時代に怒ったり駄々をこねたり感情を表すことで親を思い通りに動かせた経験の多い人。また逆に、親が非常に感情的で理屈ではなく感情で従わされる経験が多かった方。そういう所からの問題を抱えていることも考えられます。

いずれにしても、放っておけばどんなに気をつけても同じ失敗を繰り返してしまいます。逆に繰り返しやすい失敗を通して、自分の抱えている問題や痛みに気が付くこともできるのです。
「心にもないことを」と誤魔化さず、心から出てきた言葉として向き合っていくと、失敗を通して私たちは成長することができるのです。

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2017年02月20日

本物と偽物 〜[物]について〜

伊豆半島・伊東での生活がもうすぐ15年目に入ります。信じられないスピードです。次の日曜日、私たちの教会は創立29周年を迎えます。いつの間にか、教会の歴史の半分の時間を牧師として歩ませていただいたことになります。本当にありがたいことです。

縁もゆかりもなかった伊東で生活してたくさんのことを教えられました。伊豆半島・伊東と言えばやはり豊かな自然です。そういう場所で生活をしているからこそでしょう、「物」についての気づきが多くあります。
性格的に割とあっさり系なので、物に執着するというのがあまりありません。唯一の例外が楽器ですが、まぁこれは実用を兼ねているので…。
でも最近は良い意味で物の価値というのを感じるようになりました。友人たちのおかげです。

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私たち家族は教会の近くにある築30年くらいの家に住んでいます。十分すぎる住まいで感謝していますが、ただ年季が入っているのでちょっとしたことで手入れをする必要が生じます。
玄関のドアノブが硬めで滑りやすい感じがありました。川奈は風が強い地域で、娘たちが楽器をやっていることもあり、いつかドアに指を挟むのではないかと心配していました。ただ、玄関ドアを換えるのは物凄いお金がかかるので、ドアノブをレバー式に交換できないかと思い、内装の専門家の友人に相談したところ直ぐに引き受けてくださりそれはそれは細部に至るまで丁寧な仕事をしてくださって、安全なレバー式のドアにしていただきました。
また、古くなった浴槽の表面に細かな傷がついてきて汚れが付着して落ちなくなってしまいました。どうしようかと考えていたところ、塗装職人の友人が特殊な塗料でピカピカの浴槽にしてくれました。

そうやって友人たちが手を入れてくれた物は、ただのドア・ただのお風呂ではなくなります。友人たちの思いが「物」を通してそこに伝わり・残り、掛け替えのない「物」に換わるのです。私にとってはこれが「本物」です。

弦楽器は長く弾き続けると段々ネックと楽器の継ぎ目が劣化してきて最終的にはネックを交換する他無くなります。「継ぎネック」と呼ばれるネックの交換は技術的に難しいですし、それゆえ修理費用も高額になります。ですから、ネックがダメになったら寿命と諦めてその楽器の役割はお終いとすることが多いようです。
ですから逆に、継ぎネックをしてある古いヴァイオリンというのは、手間とお金をかけて修理してでも使い続けたい・受け継いでいきたいと大切にされた楽器であるわけです。
継ぎネックの痕というのは言ってみればただの故障痕・修理痕です。けれども、その修理が困難であるだけに、そうまでして大切にされてきたヴァイオリンであるという勲章になりますし、その修理跡を通して感じ取ることができるそのヴァイオリンに関わった人たちの思いがあり、そこに物の価値が現れるのです。

人は人格的な神様によって創られたゆえに人格的な存在です。ロボットとは違います。ですから、人の価値は「できる・できない」ではなく、人をお創りになられた神様の心の中に現れるものです。
人間はそういう性質を持っているがゆえに、高い物・便利な物・かっこうの良い物を得ることによってではなく、人格的な繋がりや交わりを物を通して感じ取る時に幸せを体験できるし、豊かさを感じることができるのです。

物があふれる時代、安く大量に物を手に入れられる時代。でもそこにある「物」の多くは「偽物」なのかもしれません。沢山のものはいりません。1つでも2つでも「本物」に触れる機会があったら、私たちの生活は今よりずっと豊かになるのではないでしょうか。神様と伊豆の友人たちに、豊かに生きることを教えてもらっています。

posted by pastoryama at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする