2017年05月29日

失敗を繰り返す人、失敗から成長できる人

聖書の中でイエス様が「口から出て来るものは、心から出て来る」と教えてくださいました。
私たちが生活の中で何か思いがけない失言をした時に「心にも無い事を言ってしまい...」などと言い訳をすることがあります。けれどもどうでしょうか。心にも無いことが突発的に口から出てくるのではありません。イエス様がおっしゃるとおり、普段隠している心の中の思いが何かの拍子に飛び出してしまうのです。

burogu.jpg
恒例の川奈聖書教会チャペルコンサート、6月17日に開催です!フルート奏者、菅井春恵さんをお迎えします。ぜひぜひ足をお運びください。

生きていれば手痛い失敗は誰でもするものです。失敗からしか学べないことがたくさんあります。私もこれまでたくさん失敗をして、戒めていただき、許していただき、何とかここまで歩んでくることができました。そういう経験を通して段々注意力を身につけていくものですが、それでも失敗しやすいパターンというのはそれぞれにあるものです。言葉で失敗する人、感情的になって失敗する人、突っ走って失敗する人、色々です。
自分でも注意しているつもりなのですが、分かっていても失敗してしまう私たちの現実の中で、その失敗をどのように受け止めるのかが重要です。

例えば言葉で失敗した時に「心にも無いことを」と、うっかりミスや突発的な失敗と捉えて“これからはもっと注意深くすれば”と受け止めるなら恐らくその人はまた同じ失敗を犯すでしょう。失敗というのは心にあるものが出てきて起こるのです。失敗の原因となる要素がその人の内側にある以上、注意力では防ぎきれません。
ですから失敗した時に「思いがけず」と誤魔化すのではなく、犯した失敗を通して抱えている問題を直視し、原因となっている場所を手当てしていかなければ人間は何度でも同じ失敗を繰り返してしまうのです。

一例ですが、例えば失言の多い人というのは思想の問題もあるでしょうが、その場その場で相手に取り入ろうと過剰に喜ばせようとして言わなくて良いことまで言ってしまう、つまり相手に良く思われたいという思い。逆に言うと、このままの自分ではダメだという自己否定感の問題を抱えている可能性があります。
感情的になって失敗する人というのは、自分の思い通りに物事が進まない時に感情によって自分の望む結果を得ようとしてしまう。これは、子ども時代に怒ったり駄々をこねたり感情を表すことで親を思い通りに動かせた経験の多い人。また逆に、親が非常に感情的で理屈ではなく感情で従わされる経験が多かった方。そういう所からの問題を抱えていることも考えられます。

いずれにしても、放っておけばどんなに気をつけても同じ失敗を繰り返してしまいます。逆に繰り返しやすい失敗を通して、自分の抱えている問題や痛みに気が付くこともできるのです。
「心にもないことを」と誤魔化さず、心から出てきた言葉として向き合っていくと、失敗を通して私たちは成長することができるのです。

posted by pastoryama at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

本物と偽物 〜[物]について〜

伊豆半島・伊東での生活がもうすぐ15年目に入ります。信じられないスピードです。次の日曜日、私たちの教会は創立29周年を迎えます。いつの間にか、教会の歴史の半分の時間を牧師として歩ませていただいたことになります。本当にありがたいことです。

縁もゆかりもなかった伊東で生活してたくさんのことを教えられました。伊豆半島・伊東と言えばやはり豊かな自然です。そういう場所で生活をしているからこそでしょう、「物」についての気づきが多くあります。
性格的に割とあっさり系なので、物に執着するというのがあまりありません。唯一の例外が楽器ですが、まぁこれは実用を兼ねているので…。
でも最近は良い意味で物の価値というのを感じるようになりました。友人たちのおかげです。

12.jpg


私たち家族は教会の近くにある築30年くらいの家に住んでいます。十分すぎる住まいで感謝していますが、ただ年季が入っているのでちょっとしたことで手入れをする必要が生じます。
玄関のドアノブが硬めで滑りやすい感じがありました。川奈は風が強い地域で、娘たちが楽器をやっていることもあり、いつかドアに指を挟むのではないかと心配していました。ただ、玄関ドアを換えるのは物凄いお金がかかるので、ドアノブをレバー式に交換できないかと思い、内装の専門家の友人に相談したところ直ぐに引き受けてくださりそれはそれは細部に至るまで丁寧な仕事をしてくださって、安全なレバー式のドアにしていただきました。
また、古くなった浴槽の表面に細かな傷がついてきて汚れが付着して落ちなくなってしまいました。どうしようかと考えていたところ、塗装職人の友人が特殊な塗料でピカピカの浴槽にしてくれました。

そうやって友人たちが手を入れてくれた物は、ただのドア・ただのお風呂ではなくなります。友人たちの思いが「物」を通してそこに伝わり・残り、掛け替えのない「物」に換わるのです。私にとってはこれが「本物」です。

弦楽器は長く弾き続けると段々ネックと楽器の継ぎ目が劣化してきて最終的にはネックを交換する他無くなります。「継ぎネック」と呼ばれるネックの交換は技術的に難しいですし、それゆえ修理費用も高額になります。ですから、ネックがダメになったら寿命と諦めてその楽器の役割はお終いとすることが多いようです。
ですから逆に、継ぎネックをしてある古いヴァイオリンというのは、手間とお金をかけて修理してでも使い続けたい・受け継いでいきたいと大切にされた楽器であるわけです。
継ぎネックの痕というのは言ってみればただの故障痕・修理痕です。けれども、その修理が困難であるだけに、そうまでして大切にされてきたヴァイオリンであるという勲章になりますし、その修理跡を通して感じ取ることができるそのヴァイオリンに関わった人たちの思いがあり、そこに物の価値が現れるのです。

人は人格的な神様によって創られたゆえに人格的な存在です。ロボットとは違います。ですから、人の価値は「できる・できない」ではなく、人をお創りになられた神様の心の中に現れるものです。
人間はそういう性質を持っているがゆえに、高い物・便利な物・かっこうの良い物を得ることによってではなく、人格的な繋がりや交わりを物を通して感じ取る時に幸せを体験できるし、豊かさを感じることができるのです。

物があふれる時代、安く大量に物を手に入れられる時代。でもそこにある「物」の多くは「偽物」なのかもしれません。沢山のものはいりません。1つでも2つでも「本物」に触れる機会があったら、私たちの生活は今よりずっと豊かになるのではないでしょうか。神様と伊豆の友人たちに、豊かに生きることを教えてもらっています。

posted by pastoryama at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

終わりっぱなしにしない生き方

もう何年も前のこと、地域のとある問題に関わることになり、教会のメンバーや地域の友人たちに協力してもらいそのことに向き合いました。
私自身が直接的な当事者では無かったのですが、とはいえ放置できない事柄であったので我が事のように関わり膨大な時間と労力を使い、奇跡的に素晴らしい結果を得ることができました。しかし良い結果が出た後に、私の目には許容できない事柄が散見されるようになり、結局きっぱりその事柄から手を引きました。
私のみならず友人たちにも多大な犠牲を払って関わってもらったことであっただけに、あやふやにすることはできないと判断してのことです。その時点で、もうそのこととは一切関わらないつもりでおりました。

roosterのコピー.jpg
川奈聖書教会の元旦礼拝、午前10時半から執り行います。新年を教会で!どなたでもお越しください。

お人好しに見られることもありますが、私の父親は【頑固一徹九州男児】でして、どうも私にもそういうセンサーがあるようです。不誠実なことをする人や集団にはバッサリいきますし、許容できない事柄については断固拒否する頑固な性格です。
この件については価値感の違いの問題ではあったのですが、私たちの思いを軽んじられたと感じましたので今後一切関わらないつもりでハッキリとその旨を当事者側に伝えて退きました。

普通なら、あれだけキッパリ手を切った人には近づかないのが普通だろうと思いますし、誰も近づきたくはありません。
しかし数日後、当事者側の高齢の男性が私の所を訪ねてこられました。私を引きとめるというのではなく、“ここまで協力してもらったことでこのような成果を得ることができた”と協力の感謝。そして意にそぐわないことになったお詫びを伝えにこられたのでした。
ある分野で日本を代表するような方でしたが、〜だからこそと言うべきでしょうか〜、関係は終わってしまったのですが、それでも終わりっぱなしにしない。ちゃんと終わりを整えていかれる姿勢に、大切なことを教えられました。

それから更に数日後、今度はやはり当事者側の高齢の女性が雨の中和服を来て教会まで徒歩で突然お見えになりました。その方もやはり、私を引き留めるとか弁明のためではなく、これまでの協力への感謝とこちらの意に沿えなかったことのお詫びを伝えにきてくださいました。
私の心は完全に閉ざされていたのですが、それでも母親よりも更に1世代上の方が雨の中歩いて挨拶に来られて無下に追い返すようなことは人としてできません。結論は変わりませんが、しかしわざわざ訪ねてきてくださったことを感謝し祝福を祈って別れました。やはり、終わりを整える姿勢、終わりっぱなしにしない姿勢に教えられる経験でした。

それから随分時が経ち、今もその方々とは関わりがありますし、外からではありますが無理のない範囲でサポートさせて頂くことがあります。2人の人生の大先輩から大切なことを教えて頂いた経験でした。

先を見ること、将来に繋いでいくことの大切さをご高齢の方から教えられた印象的なエピソードです。
現代人は何でも使い捨て。人間関係も使い捨てです。使えると思う人間関係があると必死にアピールしてきますし、思い通りいかないと一転メール一本の挨拶も無く放りっぱなし。しばらく経って、何事も無かったようにまた自分の都合で現れて...、そういうことが非常に多いように思います。今のことしか考えられない、自分のことしか、目先のことしか考えられないからでしょう。
これからまだ何十年と生きる可能性がある人が先のことを考えられず、今を使い捨てにしてしまう一方で、それ程長くは生きられない高齢の方が先を見ている。将来に繋げることを考えている。皮肉なようですが、しかし人生経験を通しての知恵だと思います。

「もう終わり」「もうイイや」と思えるようなことが起こりますが、しかし多くのことは続いていきます。繋がっていくし、繋げていかなければいけません。だから終わり方は大切なのです。
例えその時には道が閉ざされたとしても、道路工事を途中で放り出すようなことをしたら、やがて工事を再開するチャンスが巡ってきたとしても誰も協力はしてくれません。

もう直ぐ年が変わります。今年のことはきっぱり忘れて、新しいスタート。それも悪くはありませんが、今年あった色々なことを投げ出さず新しい年に繋げていくことも考えて頂きたいと思います。
何か直ぐに成果を出したり、形にする必要はありません。でも、捨ててしまわない、忘れてしまわない。いつか意味をもつかもしれない。いつか繋がるかもしれない。その時に「あぁ、ちゃんと整理しておけばよかった」ということにならないように、終わりを整え繋がっていく年越しになりますように。「終わりっぱなしにしない生き方」で新しい年を迎えてくださったら、2017年に充実した歩みができるのではないでしょうか。
神様の祝福をお祈り申し上げます。

posted by pastoryama at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする