2017年02月20日

本物と偽物 〜[物]について〜

伊豆半島・伊東での生活がもうすぐ15年目に入ります。信じられないスピードです。次の日曜日、私たちの教会は創立29周年を迎えます。いつの間にか、教会の歴史の半分の時間を牧師として歩ませていただいたことになります。本当にありがたいことです。

縁もゆかりもなかった伊東で生活してたくさんのことを教えられました。伊豆半島・伊東と言えばやはり豊かな自然です。そういう場所で生活をしているからこそでしょう、「物」についての気づきが多くあります。
性格的に割とあっさり系なので、物に執着するというのがあまりありません。唯一の例外が楽器ですが、まぁこれは実用を兼ねているので…。
でも最近は良い意味で物の価値というのを感じるようになりました。友人たちのおかげです。

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私たち家族は教会の近くにある築30年くらいの家に住んでいます。十分すぎる住まいで感謝していますが、ただ年季が入っているのでちょっとしたことで手入れをする必要が生じます。
玄関のドアノブが硬めで滑りやすい感じがありました。川奈は風が強い地域で、娘たちが楽器をやっていることもあり、いつかドアに指を挟むのではないかと心配していました。ただ、玄関ドアを換えるのは物凄いお金がかかるので、ドアノブをレバー式に交換できないかと思い、内装の専門家の友人に相談したところ直ぐに引き受けてくださりそれはそれは細部に至るまで丁寧な仕事をしてくださって、安全なレバー式のドアにしていただきました。
また、古くなった浴槽の表面に細かな傷がついてきて汚れが付着して落ちなくなってしまいました。どうしようかと考えていたところ、塗装職人の友人が特殊な塗料でピカピカの浴槽にしてくれました。

そうやって友人たちが手を入れてくれた物は、ただのドア・ただのお風呂ではなくなります。友人たちの思いが「物」を通してそこに伝わり・残り、掛け替えのない「物」に換わるのです。私にとってはこれが「本物」です。

弦楽器は長く弾き続けると段々ネックと楽器の継ぎ目が劣化してきて最終的にはネックを交換する他無くなります。「継ぎネック」と呼ばれるネックの交換は技術的に難しいですし、それゆえ修理費用も高額になります。ですから、ネックがダメになったら寿命と諦めてその楽器の役割はお終いとすることが多いようです。
ですから逆に、継ぎネックをしてある古いヴァイオリンというのは、手間とお金をかけて修理してでも使い続けたい・受け継いでいきたいと大切にされた楽器であるわけです。
継ぎネックの痕というのは言ってみればただの故障痕・修理痕です。けれども、その修理が困難であるだけに、そうまでして大切にされてきたヴァイオリンであるという勲章になりますし、その修理跡を通して感じ取ることができるそのヴァイオリンに関わった人たちの思いがあり、そこに物の価値が現れるのです。

人は人格的な神様によって創られたゆえに人格的な存在です。ロボットとは違います。ですから、人の価値は「できる・できない」ではなく、人をお創りになられた神様の心の中に現れるものです。
人間はそういう性質を持っているがゆえに、高い物・便利な物・かっこうの良い物を得ることによってではなく、人格的な繋がりや交わりを物を通して感じ取る時に幸せを体験できるし、豊かさを感じることができるのです。

物があふれる時代、安く大量に物を手に入れられる時代。でもそこにある「物」の多くは「偽物」なのかもしれません。沢山のものはいりません。1つでも2つでも「本物」に触れる機会があったら、私たちの生活は今よりずっと豊かになるのではないでしょうか。神様と伊豆の友人たちに、豊かに生きることを教えてもらっています。

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2016年12月31日

終わりっぱなしにしない生き方

もう何年も前のこと、地域のとある問題に関わることになり、教会のメンバーや地域の友人たちに協力してもらいそのことに向き合いました。
私自身が直接的な当事者では無かったのですが、とはいえ放置できない事柄であったので我が事のように関わり膨大な時間と労力を使い、奇跡的に素晴らしい結果を得ることができました。しかし良い結果が出た後に、私の目には許容できない事柄が散見されるようになり、結局きっぱりその事柄から手を引きました。
私のみならず友人たちにも多大な犠牲を払って関わってもらったことであっただけに、あやふやにすることはできないと判断してのことです。その時点で、もうそのこととは一切関わらないつもりでおりました。

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川奈聖書教会の元旦礼拝、午前10時半から執り行います。新年を教会で!どなたでもお越しください。

お人好しに見られることもありますが、私の父親は【頑固一徹九州男児】でして、どうも私にもそういうセンサーがあるようです。不誠実なことをする人や集団にはバッサリいきますし、許容できない事柄については断固拒否する頑固な性格です。
この件については価値感の違いの問題ではあったのですが、私たちの思いを軽んじられたと感じましたので今後一切関わらないつもりでハッキリとその旨を当事者側に伝えて退きました。

普通なら、あれだけキッパリ手を切った人には近づかないのが普通だろうと思いますし、誰も近づきたくはありません。
しかし数日後、当事者側の高齢の男性が私の所を訪ねてこられました。私を引きとめるというのではなく、“ここまで協力してもらったことでこのような成果を得ることができた”と協力の感謝。そして意にそぐわないことになったお詫びを伝えにこられたのでした。
ある分野で日本を代表するような方でしたが、〜だからこそと言うべきでしょうか〜、関係は終わってしまったのですが、それでも終わりっぱなしにしない。ちゃんと終わりを整えていかれる姿勢に、大切なことを教えられました。

それから更に数日後、今度はやはり当事者側の高齢の女性が雨の中和服を来て教会まで徒歩で突然お見えになりました。その方もやはり、私を引き留めるとか弁明のためではなく、これまでの協力への感謝とこちらの意に沿えなかったことのお詫びを伝えにきてくださいました。
私の心は完全に閉ざされていたのですが、それでも母親よりも更に1世代上の方が雨の中歩いて挨拶に来られて無下に追い返すようなことは人としてできません。結論は変わりませんが、しかしわざわざ訪ねてきてくださったことを感謝し祝福を祈って別れました。やはり、終わりを整える姿勢、終わりっぱなしにしない姿勢に教えられる経験でした。

それから随分時が経ち、今もその方々とは関わりがありますし、外からではありますが無理のない範囲でサポートさせて頂くことがあります。2人の人生の大先輩から大切なことを教えて頂いた経験でした。

先を見ること、将来に繋いでいくことの大切さをご高齢の方から教えられた印象的なエピソードです。
現代人は何でも使い捨て。人間関係も使い捨てです。使えると思う人間関係があると必死にアピールしてきますし、思い通りいかないと一転メール一本の挨拶も無く放りっぱなし。しばらく経って、何事も無かったようにまた自分の都合で現れて...、そういうことが非常に多いように思います。今のことしか考えられない、自分のことしか、目先のことしか考えられないからでしょう。
これからまだ何十年と生きる可能性がある人が先のことを考えられず、今を使い捨てにしてしまう一方で、それ程長くは生きられない高齢の方が先を見ている。将来に繋げることを考えている。皮肉なようですが、しかし人生経験を通しての知恵だと思います。

「もう終わり」「もうイイや」と思えるようなことが起こりますが、しかし多くのことは続いていきます。繋がっていくし、繋げていかなければいけません。だから終わり方は大切なのです。
例えその時には道が閉ざされたとしても、道路工事を途中で放り出すようなことをしたら、やがて工事を再開するチャンスが巡ってきたとしても誰も協力はしてくれません。

もう直ぐ年が変わります。今年のことはきっぱり忘れて、新しいスタート。それも悪くはありませんが、今年あった色々なことを投げ出さず新しい年に繋げていくことも考えて頂きたいと思います。
何か直ぐに成果を出したり、形にする必要はありません。でも、捨ててしまわない、忘れてしまわない。いつか意味をもつかもしれない。いつか繋がるかもしれない。その時に「あぁ、ちゃんと整理しておけばよかった」ということにならないように、終わりを整え繋がっていく年越しになりますように。「終わりっぱなしにしない生き方」で新しい年を迎えてくださったら、2017年に充実した歩みができるのではないでしょうか。
神様の祝福をお祈り申し上げます。

posted by pastoryama at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月11日

成長は階段状に

人の成長は「上り坂」ではなく「階段状」であると言われます。
子どもたちの成長を見ていると良く分かります。ある日突然できなかったことができるようになるのです。
親は「家の子は全然成長していないのではないか。何か問題があるのではない。子育てが間違っているのではないか」などと不安になるのですが、親の心配をよそにある日パッとできなかったことができるようになる。子どもの成長はスゴイです。

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次の日曜日はユーオーディアの演奏者を迎えての賛美礼拝。午前10時半〜 気軽にお越しください

これは私たち大人にも当てはまることです。成長が毎日少しずつ現れるものではなく、階段状に現れていくのであれば、成長していくために次のステップにあがるまでの踊り場を進む期間がどうしても必要なのです。
踊り場の期間には自分が何も変わっていない、何も成長していない、このままではダメなのではないかと不安になるものです。それでもコツコツと日々なすべきことを地道に積み上げられる人が伸びる人だと思います。

残念なことに待つことが苦手な人が現代はとても多いように思います。踊り場期間がちょっと続くともうイライラして「何か間違っているのではないか、環境を変えた方が良いのではないか」と別の手段や方法を求めてしまい、結局次のステップにたどり着くことができません。
手軽に情報が集められる時代なだけに、あれやこれやと情報を集め振り回され、堂々巡りになってしまうのです。

植物を植えた時に、本当に根付いているのかと不安になって土を掘り返して根っこの状態を確認していたらどうでしょうか。せっかく根を伸ばしていたとしても、掘り返し確認する作業でかえって根を痛めてしまい振り出しに戻るでしょう。同じことです。
先に根が伸びその後で芽が出てくるように、目に見える成長には少し時間がかかります。けれども、成長が階段状であるということは、踊り場期間もまた大事な成長の一部分でありそのプロセスは欠かせないものなのです。そこで忍耐し地道に続けられるかどうかは、何がしかに対する才能のある無しよりも遥かに物事の成功の是非に影響を及ぼします。

上記のことを子育てに適応させてみましょう。
思春期の子どもさんの問題が切羽詰まって感じられるのは、親御さんの当然の思いです。ただ、だからと言って根っこの状態が心配で土を掘り返すような作業をしていると問題はかえって長引いてしまいます。
引きこもっていたお子さんがある日突然やる気を出す、そういうタイミングがあります。もっと早くやる気になってくれれば、と大人は思うのですが、多分引きこもり閉じこもっていた時間も子どもには意味があったのだと思います。引きこもっている時からすでに根っこは成長をはじめ、養分を吸収しだし、そうやって発芽に備えてパワーを貯めているのです。
その時に「芽が出ない」と土を掘り返し、苗を植え替えるような作業をしてしまってはいけません。

お子さんに対して、自分自身に対して、もう少し待ってあげること。忍耐してあげること。それで変わることがたくさんあるのです。
あなたの掛け替えのない人生を応援する川奈聖書教会 牧師の山口です。

posted by pastoryama at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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