2013年10月20日

その問題、ホントにどうしようもないことですか?

皆さんは「割れ窓理論」(Broken Windows Theory)ってご存知でしょうか。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングという人が考案した犯罪を抑止するための理論です。
簡単に説明すると、ある建物で割れた窓一枚を放置していると周囲に対して“ここは誰にも注意を払われていない場所”というメッセージを与え、やがて残りの窓も割られていき最後には建物全体が荒れすさむということです。

20年前、今よりも遥かに凶悪犯罪が多発していたニューヨークで当時のジュリアーニ市長が治安回復を選挙公約にして当選し、割れ窓理論のケリングを顧問にしてこれを実践しました。
彼は地下鉄など街中の落書を消すことに始まり、爆竹や騒音、未成年者の喫煙など軽犯罪として放置されていた事柄の抑止に取り組み、その結果、殺人などの重大犯罪の減少に成功したと言われています。

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こういうことって確かに心当たりありますよね。例えば車で走っていて、放り投げられたと思われるゴミが集中しているような場所。あれって正に割れ窓理論の心理が働いているのだと思います。
ゴミの無い場所にゴミを放り投げることは抵抗を感じても、ゴミが無関心に放置されている場所だと抵抗感が和らいでしまうということは人間の心理としてあるでしょう。
マザー・テレサさんが「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」とおっしゃいました。無関心の場所に問題は集まってきます。

色々なご相談を受ける中で、「これこれの問題で私は今どうしようもない状況です」と訴えられることがあります。
確かに、相談者の方が抱えている問題はどうにも出来ない深刻な状況である。けれども、そのどうしようもない問題が起こる原因・遠因となっている事柄は、やろうと思えば出来るはずの些細な事柄が放置された結果なのではないかと思えることがあります。

凶悪犯罪を防ぐことは個々人には難しくても、落書きを消すことなら出来ます。落ちているゴミを拾うことは出来ます。
人との関係性も同じです。親子関係・夫婦関係・人間関係に深刻な問題が起こった時にその事柄に対する直接的な解決が困難に思えたとしても、だから無力なのではありません。
声をかける事、関心を持つこと、話しを聴くこと、食事を共にすること、感謝を伝えること、謝ること、時間を共有すること、家に居る時間を増やすこと等など私たちに出来ることはたくさんあるし、出来るのにされていなかったことはたくさんあるのではないでしょうか。

手の届かない重大問題を嘆くよりも、手の届く軽微と思えるしかし関心を向けて来なかった問題を改善していくことの方がずっと有益なのです。
イエス様が教えて下さいました。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

大きな問題を一人で抱えて悩んでらっしゃるあなた、ご一緒に出来ることが無いか考えてみませんか。
“変えていこう”と思うあなたのその思いを川奈聖書教会は応援します!
44-1728 E-mail kawanachurch@ybb.ne.jp
礼拝はどなたでもお越しになることが出来ます。
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00


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2013年09月28日

本当に必要とされる援助者って?

ハラスメントや性被害の問題に関わる時にしばしば出くわすのは二次被害です。
特に良く起こってしまうことは、被害者が力を振り絞って自分の被害を第三者に伝えた時に、相談した人から「あなたにも落ち度があった」などと非難されてしまうこと。こういうことを「被害者非難」と呼びます。
ただでさえハラスメントの被害にあって傷つき痛んでいる方が、信頼して相談した人にこのような言葉を浴びせられる時、そこで感じる痛みはあまりにも深いのです。

例え被害者に何らかの落ち度があったとしても、被害にあってショックを受けている方をその渦中で責め立てて何の益があるでしょうか。まずはその方の悲しみを受け止め、その傷が癒えるのを待たなくてはいけません。
大けがで瀕死の重傷をおって病院に運ばれて来た人に「お前は不用心だ!」と怒鳴りつけてみても仕方が無いのと同じです。けれどもしばしば傷つき助けを求めている被害者をなお傷つける言葉を私たちは吐いてしまいます。なぜでしょうか。

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「あなたにも落ち度が...」と言ってしまう方も、決して悪気があるのではありません。むしろ、その方の辛い気持、痛みを真剣に感じ取っているのです。だからこそ、相手の状況が余りにも痛ましく思え、受け止めきれなくなってしまいます。
“こんな酷い出来ごとが目の前にあるのに何もできない自分の無力さが許せない”、そこで思わず「あなたも悪い」という言葉で、自己防衛。自責の思いを回避したくなってしまうのです。

こういうことは生活の場でも起こることではないでしょうか。
私は牧師という仕事柄、中々出口が見いだせないような問題・状況の中にご一緒させて頂くことがあります。
例えば、ご家族皆が精一杯のことをしている。関係者も出来得る限り協力してくれている。けれどもどうにもならない問題。出口が見えない困難。そういう中にいると、段々その苦しい状況が受け止めきれなくなってきて犯人探しをしたくなるものです。「あの人が悪い、このことが悪かった、あの時のせいで」などなど。
そしてまた、そういう犯人探しをしたくなる人の心に付け込んで「○○のせいですよ」などとささやいてくれる、悪しき輩も世の中に居るのではないでしょうか。

皆が全力で関わってもどうしても答えが出せない苦しみの中に、牧師の私が関わって何が出来る訳でもありません。正直なところほとんどの場合無力です。ただ、何も出来ない私が黙ってそこに居る、居続けることで結果的に何がしかの意味を持つこともあるようです。
受け止めきれない、答えが出せない問題。誰かを非難しないではおられない、責任転嫁をしたくなる状況。けれども、それをしてもご本人が楽になる訳ではありません。
それをせず、無力な自分を弁えながら共に在ることによって、被害者の方が一人では抱えきれない問題を少しであっても一緒に抱える事。支える事が出来るのかもしれません。
時には「あんたは何の役にも立たない。あんたに何が分かるか。あんたのせいで」と非難されることで、渦中にある方々の抱えきれない思いの一端を担わせて頂ける、助けとなれる。そういうこともあるように思います。

自分が何かをすることで助けられるならそれが一番嬉しいこと。けれども、本当に助けが必要な状況とは、誰にもどうしようも出来ない問題の中で、共に苦しみ・一緒に途方に暮れながら、なおそこに居続けてくれる、そういう人なのかもしれません。

川奈聖書教会はあなたと共に在ることを願う教会です。
気軽に連絡下さい。
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2013年09月21日

信じることは決断すること

怪談話で有名な「番町皿屋敷」は実は非常に深いお話しですね。最近考えさせられています<`〜´>
ご存じでしょうがまずはあらすじ。
旗本の青山播磨が召使であったお菊に恋をします。お菊は身分不相応な自分への播磨の愛に心を打たれ喜びますが、ある時播磨に身分の高いお嬢様との縁談の話しが来て不安になります。
実際には播磨はあっさりその縁談を断ってしまうのですが、お菊の心に不信が芽生え、播磨の愛を確かめたいと考えるようになるのです。 
そこでお菊は青山家の家宝のお皿をうっかり割ったようにみせかけ、しかし実はわざと割って播磨を試すのです。「もし皿を割ったことを赦してくれるなら、私への愛は本物」、と...。
青山家は大騒動になりますが、しかし播磨はお菊をあっさり赦します。お菊は播磨の愛に安心するのですが、一件落着といきません。
後になって目撃者の証言からお菊がわざと皿を割ったことがばれてしまうのです。問い詰められたお菊は「殿様の愛が不安になって、殿様の心を試してしまいました」と答えます。この言葉に播磨は怒ってお菊は切り捨てられてしまうというお話です。

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今日は怪談話を皆さんと味わいたいのではなく^^;、、、「信頼」について考えてみたいと思います。
「信じる」ためにしるしを求めてはいけないというお話しです。
例えばあなたが恋人をどうしても信じることが出来ず「あなたの愛のしるしを見せて」と要求したとします。それで相手が5万円のネックレスをプレゼントしてくれました。それであなたは安心し相手を信じられるでしょうか。
一時的には安心するかもしれません。しかし、またちょっとしたことから不安になり新しいしるしが見たくなります。「もっと確かなしるしを見せて」、それで今度は10万円の指輪を相手はくれました。でもそんなことしても、またその内何か起これば不安になって、不安解消のためにしるしを求めるでしょう。

お菊はしるしを求めました。では、お皿を割った自分を許してくれた播磨を見てお菊は完全に信じられるようになったのでしょうか。いえ、きっとその内また不安になったと思います。なぜなら、お菊にはもう十分なしるしがあったからです。
播磨が身分の高い女性との縁談を断って自分との愛を選んでくれた、ここがお菊の信じ所だったのです。そこで信じられなければ、幾つしるしを得てももう信じることはできません。

プレゼントに限らず、○○をして、○○を犠牲にして、そうやって信じる為のしるしを相手に要求されそれがエスカレートしていくということは実は案外良くある話しです。

相手の愛を試したり、愛を確かめる為のしるしを求めてはいけません。
もしそのような関係に陥っている方がいたら、厳しいようですがそれは愛の関係ではなく依存関係だと知って下さい。その先に安心はありません。
信じる、信頼するという行為は決断なんです。相手を知る為の材料はもうこれまでの関係性の中で十分にあるはずです。それをあなたが今どう判断するのか、決断が求められているのであって、もう少し判断材料が必要なのではありません。
今、あなたがその人を信じるなら信頼が始まるでしょう。今、信じることが出来なければこの先も信じることはできないでしょう。あなたにそのことを直視して欲しいと思っています。

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