2013年09月28日

本当に必要とされる援助者って?

ハラスメントや性被害の問題に関わる時にしばしば出くわすのは二次被害です。
特に良く起こってしまうことは、被害者が力を振り絞って自分の被害を第三者に伝えた時に、相談した人から「あなたにも落ち度があった」などと非難されてしまうこと。こういうことを「被害者非難」と呼びます。
ただでさえハラスメントの被害にあって傷つき痛んでいる方が、信頼して相談した人にこのような言葉を浴びせられる時、そこで感じる痛みはあまりにも深いのです。

例え被害者に何らかの落ち度があったとしても、被害にあってショックを受けている方をその渦中で責め立てて何の益があるでしょうか。まずはその方の悲しみを受け止め、その傷が癒えるのを待たなくてはいけません。
大けがで瀕死の重傷をおって病院に運ばれて来た人に「お前は不用心だ!」と怒鳴りつけてみても仕方が無いのと同じです。けれどもしばしば傷つき助けを求めている被害者をなお傷つける言葉を私たちは吐いてしまいます。なぜでしょうか。

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「あなたにも落ち度が...」と言ってしまう方も、決して悪気があるのではありません。むしろ、その方の辛い気持、痛みを真剣に感じ取っているのです。だからこそ、相手の状況が余りにも痛ましく思え、受け止めきれなくなってしまいます。
“こんな酷い出来ごとが目の前にあるのに何もできない自分の無力さが許せない”、そこで思わず「あなたも悪い」という言葉で、自己防衛。自責の思いを回避したくなってしまうのです。

こういうことは生活の場でも起こることではないでしょうか。
私は牧師という仕事柄、中々出口が見いだせないような問題・状況の中にご一緒させて頂くことがあります。
例えば、ご家族皆が精一杯のことをしている。関係者も出来得る限り協力してくれている。けれどもどうにもならない問題。出口が見えない困難。そういう中にいると、段々その苦しい状況が受け止めきれなくなってきて犯人探しをしたくなるものです。「あの人が悪い、このことが悪かった、あの時のせいで」などなど。
そしてまた、そういう犯人探しをしたくなる人の心に付け込んで「○○のせいですよ」などとささやいてくれる、悪しき輩も世の中に居るのではないでしょうか。

皆が全力で関わってもどうしても答えが出せない苦しみの中に、牧師の私が関わって何が出来る訳でもありません。正直なところほとんどの場合無力です。ただ、何も出来ない私が黙ってそこに居る、居続けることで結果的に何がしかの意味を持つこともあるようです。
受け止めきれない、答えが出せない問題。誰かを非難しないではおられない、責任転嫁をしたくなる状況。けれども、それをしてもご本人が楽になる訳ではありません。
それをせず、無力な自分を弁えながら共に在ることによって、被害者の方が一人では抱えきれない問題を少しであっても一緒に抱える事。支える事が出来るのかもしれません。
時には「あんたは何の役にも立たない。あんたに何が分かるか。あんたのせいで」と非難されることで、渦中にある方々の抱えきれない思いの一端を担わせて頂ける、助けとなれる。そういうこともあるように思います。

自分が何かをすることで助けられるならそれが一番嬉しいこと。けれども、本当に助けが必要な状況とは、誰にもどうしようも出来ない問題の中で、共に苦しみ・一緒に途方に暮れながら、なおそこに居続けてくれる、そういう人なのかもしれません。

川奈聖書教会はあなたと共に在ることを願う教会です。
気軽に連絡下さい。
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2013年09月21日

信じることは決断すること

怪談話で有名な「番町皿屋敷」は実は非常に深いお話しですね。最近考えさせられています<`〜´>
ご存じでしょうがまずはあらすじ。
旗本の青山播磨が召使であったお菊に恋をします。お菊は身分不相応な自分への播磨の愛に心を打たれ喜びますが、ある時播磨に身分の高いお嬢様との縁談の話しが来て不安になります。
実際には播磨はあっさりその縁談を断ってしまうのですが、お菊の心に不信が芽生え、播磨の愛を確かめたいと考えるようになるのです。 
そこでお菊は青山家の家宝のお皿をうっかり割ったようにみせかけ、しかし実はわざと割って播磨を試すのです。「もし皿を割ったことを赦してくれるなら、私への愛は本物」、と...。
青山家は大騒動になりますが、しかし播磨はお菊をあっさり赦します。お菊は播磨の愛に安心するのですが、一件落着といきません。
後になって目撃者の証言からお菊がわざと皿を割ったことがばれてしまうのです。問い詰められたお菊は「殿様の愛が不安になって、殿様の心を試してしまいました」と答えます。この言葉に播磨は怒ってお菊は切り捨てられてしまうというお話です。

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今日は怪談話を皆さんと味わいたいのではなく^^;、、、「信頼」について考えてみたいと思います。
「信じる」ためにしるしを求めてはいけないというお話しです。
例えばあなたが恋人をどうしても信じることが出来ず「あなたの愛のしるしを見せて」と要求したとします。それで相手が5万円のネックレスをプレゼントしてくれました。それであなたは安心し相手を信じられるでしょうか。
一時的には安心するかもしれません。しかし、またちょっとしたことから不安になり新しいしるしが見たくなります。「もっと確かなしるしを見せて」、それで今度は10万円の指輪を相手はくれました。でもそんなことしても、またその内何か起これば不安になって、不安解消のためにしるしを求めるでしょう。

お菊はしるしを求めました。では、お皿を割った自分を許してくれた播磨を見てお菊は完全に信じられるようになったのでしょうか。いえ、きっとその内また不安になったと思います。なぜなら、お菊にはもう十分なしるしがあったからです。
播磨が身分の高い女性との縁談を断って自分との愛を選んでくれた、ここがお菊の信じ所だったのです。そこで信じられなければ、幾つしるしを得てももう信じることはできません。

プレゼントに限らず、○○をして、○○を犠牲にして、そうやって信じる為のしるしを相手に要求されそれがエスカレートしていくということは実は案外良くある話しです。

相手の愛を試したり、愛を確かめる為のしるしを求めてはいけません。
もしそのような関係に陥っている方がいたら、厳しいようですがそれは愛の関係ではなく依存関係だと知って下さい。その先に安心はありません。
信じる、信頼するという行為は決断なんです。相手を知る為の材料はもうこれまでの関係性の中で十分にあるはずです。それをあなたが今どう判断するのか、決断が求められているのであって、もう少し判断材料が必要なのではありません。
今、あなたがその人を信じるなら信頼が始まるでしょう。今、信じることが出来なければこの先も信じることはできないでしょう。あなたにそのことを直視して欲しいと思っています。

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2013年09月14日

その人は本当に不要な人?

教育学の先生から以前このような話しを聞いたことがあります。
10人のグループで勉強していたとして大抵その中で一人は足手まといと思えるような人が出てくる。それで、その一人を切り捨てて9人になると良いグループが出来上がるかと言えばそうではない。不思議なことに9人の中にまた一人、落ちこぼれと思えるような人が生まれてくる。その人を切り捨てるとまた一人、そのことの繰り返し。
それゆえグループの力を最大限引き出そうとするならば、足手まといと思える一人が脱落しないように適切にフォローし10人のグループを守っていくことである、ということでした。非常に興味深い話しです。

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私たちは「有益な人、不要な人」を見抜く目を持っていると直ぐ考えますがそれは傲慢です。
「足を引っ張っている」と思える人が実は他の9人が脱落しないための支えとしての役割を果たしていたように、私たちは知らない場所・気がつかない所で色々な人に支えられて生きているものです。
そして「あの人さえいなければ」と感じる人を切り捨てた瞬間、次に集団の中でお荷物とされるのは自分であるかもしれません。その時に気付くのは、自分が実はあの人に支えられていたのだということです。

集団は常に微妙なバランスの上に成り立っているものです。
ある局面で非常に力を発揮する人が別の状況では全体の足を引っ張ることがありますし、普段目立たない人がある局面において重要な役割を果たしてくれることがあります。
人には長所・短所が必ずありますからそれは当然のことです。そういう様々な特徴を持った人たちが集まって、一つの集団が形作られ、支えているのです。

けれども、私たちはどうしてもマイナスが現れる局面において批判的になり「この人が居なければ」などと考えます。誰かを省くことで理想的な集団を形作ろうとするのです。
しかし自分が属するその集団は「いらない」と思えるその人を含んで成立しているのであって、その人を失ったら自分が守りたいと思っている集団そのものが失われるということを忘れてはいけません。

「この人のここがダメ、あの人のあそこがダメ」、そんなことばっかり言っているのは玉ねぎの皮むきみたいなことであって何も残りませんし、やがて自分自身も玉ねぎの皮の一部として捨てられてしまうでしょう。
ダメと思えるその人を生かすことを考えましょう。そうやって人を生かそうとすることで、自分自身が生かされるのです。

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