2015年03月21日

本物の援助は紙一枚

2014年度の教会塾いっしょが終わり、子どもたちと一緒に歩んだ一年間を振り返りながら支援すること、応援することの意味を考えています。

子どもたちに限らず、誰しも人生の困難で援助を必要とすることがあるでしょう。そこで色々な援助者に出会うと思いますが、あまりにも劇的な援助者、その人の人生に影響を及ぼし過ぎる援助者というのは、短期的には非常に魅力的なのですが長期的にはあまり役に立たないように思います。

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教会塾いっしょでご指導下さっている浦島先生の「うらしまコンサート」(そのままですね...)に出演させて頂きました(^^)/

私たちが困難において援助者に求めることは大抵問題の解決です。そしてそのことを引き受けようとする援助者、実際に解決してくれる援助者はその時には大変ありがたい存在です。
けれども、あなたの問題を代わりに解決してくれる人はあなたを成長させてくれる人ではありません。そこで覚えるのは援助者への頼り方だけであって、その人自身は何も変わらないのです。

本当の援助とはその人が直面している問題に、その人自身が挑戦し時間がかかったとしても乗り越えていけるように、その人のチャレンジを支援することではないでしょうか。
そもそも援助、応援というのは地味でその成果は見え辛いもの。本当の援助と言うのは劇的であったり、目立ち過ぎてはいけないものなのです。

子どもたちとじっくり関わっていると、子どもたちの内には「前に進もう、挑戦しよう」とする前向きな思いが必ず潜んでいることに気がつきます。でも、色々な事情でそれが中々表に出てこないのです。
自信が無い、怖い、寂しい、過去の失敗、自己像の傷、色々な事情があるでしょう。それで脇道に逸れたり、無気力になったり、反抗的になったり、甘えたりする訳です。
でもどこかのタイミングでそういう自分に満足できずに「やっぱり前に進みたい、自分の人生を歩んで行きたい、挑戦したい」という意欲が現れる時があります。必ずあるのです。
その時に、ホンの少し背中を押してくれる人がいる。「あなたの挑戦を応援しているよ」と自分を肯定してくれる人が居る。
それは地味な存在ではあっても、その人の人生を左右するような意味のある援助になるのです。

人生って紙一重だなとしばしば思います。それは見方を変えると本当に必要とされている援助は紙1枚程度、ということかもしれません。
でもしばしば援助する側が紙1枚分の援助では満足できずに、紙20枚、30枚分になりたくなってしまって、結局本人の成長の芽を摘んでしまうようなことがあるのではないでしょうか。

本当に必要とされている援助は紙1枚。自分を紙1枚に出来るかどうか。そして、人生を左右する本当に大切な1枚になれるかどうか。
誰かの人生に劇的に関わることなど出来ませんし、出来たとしてもそれは自己満足に過ぎないのかもしれません。
人生は紙一重。だから地味であっても、子どもたちが必要としている本当に大切な紙1枚がいつでも用意されている教会でありたい。これが子どもたちと関わる川奈聖書教会の責任だと思っています。

ぜひお子様を教会にお送り下さい(^^♪
子ども礼拝 毎週日曜日 午前9時15分から10時半
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2015年03月05日

“誰が”と“何をするか”の関係

人というのは冷静に観察していると面白い気付きが色々あるもので、例えばある事柄について他の人が提案した時にはNOと言うけれど、自分が言い出した時には同じことがYESに変わるというようなこと、珍しくありません。

こういう癖がある人の行動には主に二つの要因が考えられます。
一つは、他者に対する不信感です。自分が主導権を握っていないと物事は上手くいかないという思い込み。
人は自分を傷つけたり、騙したりする。人に任せると失敗する。そういう他者への不信感が、事柄については賛成であっても他者が主導する事に対して無意識に反対したくなる感情を呼び起こします。
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留田の海水浴場近くにある宇佐美教会さんhttp://music.geocities.jp/hrncs784/で、毎週水曜日夜7時からの礼拝が始まったそうです!火曜夜は川奈聖書教会、水曜夜は宇佐美教会の夕礼拝(^^♪

もう一つの可能性は、そこで行われる事柄よりも、そのことを通して得られる副産物の方に関心が向いているというケースです。
例えば、何か良いプロジェクトを進めることになったとして、そのプロジェクトが成功することよりも、そこで自分が中心的な役割を果たすことの方に意味を見出している。
ですから、自分が主導出来ないのであれば、こんなプロジェクト失敗した方が良いという、そういう発想の人は「何をするか」よりも「誰が言うか」で意見が大きく変わります。

ひと昔前に流行ったでしょうか、「イエス・バット法」というコミュニケーションのテクニックがあります。
何かの交渉事において、相手の言葉に反論する時に全否定するのではなく、まず同意を示しながら、その上でNOの理由を述べていくと相手はこちらの考えを受け止めやすくなるという話し方のテクニックです。
確かに「あなたの意見には、こういう問題があるから絶対ダメです」と全否定されるのと、「なるほど。あなたのおっしゃることはもっともですね。ただ、こういう問題があるので残念ですが今は無理なのです」と部分的にでも共感が示された上で否定されることと、印象はかなり違うでしょう。

世の中というのは、多くの場合本質的な事とは違う場所に大きな影響を受けて動いていくもので、感情や印象や、そういう主観的なことが決定的な意味を持ってしまうことがしばしば起こります。
それは非常に面倒で不愉快なことでありますが、しかし物事の本質をしっかり見据えていると、主観に左右される世の中だからこそ動かしやすい面というのも見えてくるかもしれません。
副産物が欲しい人にはそれをあげたら良いのです。そのことによって、困難な事柄に実現の道筋が見えてくるかもしれません。

本当に大切な一つの物を見抜いている人は最強です。
プライドとか名誉とか功績とか、そういう副産物に見向きもせずに本当に大切な一つの物を見据えている人にとって、本質的ではないことに重きを置く人というのは案外動かしやすい人であるかもしれません。逆にこじれてしまう時というのは、こちらが本質的なこと以外にも関心を持ってしまっているからではないでしょうか。
「“誰が” “何をするか”」。この二つの面が結び合って世の中は動いています。そこで、「誰が」を人にあげてしまえる人というのは、それだけで大きな武器を手にしているのです。

川奈聖書教会はあなたの掛け替えの無い人生を応援しています!
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp


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2014年10月18日

友達ってなんだろう?

もう秋も更けてきた頃に夏の話しで恐縮ですが、今年の夏は色々な方との出会い・再会の機会があって、とっても嬉しかったです。
FBで知り合ったおじさま方とのリアルでは初めての出会い。バーチャルな世界での付き合いをリアルに繋げるおじさま方の姿勢に感激しました。潮田さん、清水さん、ありがとうございました!
父親が牧師をしている教会の教会学校に来ていた女の子が立派な看護師さんになって10年ぶりくらいで訪ねてきてくれたり。
そしてそして、何といっても神学校で一緒に学び、一緒に遊んだ大切な韓国の友人ファミリーがわざわざ伊東まで会いに来てくれて、この再会は泣けました...。
9月に大和郡山に出かけた時にも、忙しい中関西にいる神学校のクラスメートファミリーたちが会いに来てくれて、とても嬉しかったです。
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私はどちらかと言うと友達付合いが悪い人間と見なされるタイプでして...。友達を誰よりも大切に思っている“つもり”なのですが、そう受けとめられないことも割と多かったかもしれません。
原因ははっきりしていて、ベタベタするのが嫌いなのです。
仲間内でチョコチョコ集まるとか、常に一緒に行動するとか、そういうのが嫌いでむしろ自分と違う人や、自分が足場を置く場所とはちょっと違う所に入っていくとか、そういうことを好む妙な性格をしているようです。

この夏、韓国の友人と神学校卒業以来12年ぶりに再会し、他のクラスメートとも数年ぶり〜10年ぶりくらいの再会だったのですが、その再会の時間を通して彼らが私にとって掛け替えの無い友人たちであることを改めて思い感謝しました。
彼らの中に10年経っても全然変わらない場所がちゃんとあって、でもその場所を軸にしながら着実に成長していて、当然それには沢山の苦労があっただろうことが想像できて...、そういう友が居てくれることが私にはホントにありがたいことですし、彼らに限らず素晴らしい友人たちに支えられている自分であることを実感しました。

神様は一人一人に異なった使命を与え、生きる場所を与え、向き合うべき課題を与えて下さいます。人生はそういう面で非常に孤独なものだと思います。
それゆえともすると、私たちは自分が向き合うべき孤独を一緒に受けとめてくれる、一緒に手を繋いで生きてくれる存在を求めてしまい、それを受け入れてくれる人を「友達」と誤解してしまうのではないでしょうか。
けれども本当の友達とは、それぞれが向き合うべき課題に、向き合うべき場所で苦闘しながら、その使命に生きている人。お互いにそのことを信じ合える関係性なのではないかと思うのです。

人間はみんな弱いです。一緒に居てもらうことが必要な時、話しを聴いてもらい、慰めてもらい、励ましてもらうことが必要な時が誰にでもあります。もちろん私もそうです。
でもそれは、自分が神様から与えられている場所にまた出ていくために与えられる一時の休息です。
その慰めの場所にずっと留まっていたい、いつまでも一緒にいたい、一人は嫌だ、そういう関係性は本当の意味での友情ではありません。

あなたの経験している困難は大きいものだと思います。あなたにしか分からない辛さや苦しさ、恐れ寂しさがあるでしょう。でもそこにこそ、あなたが生かされている特別な意味があるのです。
大きい小さいなどありません。その場所で懸命に生きているあなたの人生は掛け替えの無い、尊い意味を持った人生です。
そして、同じように他の誰にも分からない困難を背負いながら生きている人があなたの周りにいるはずです。そのことをお互いに信じ合える関係性は、私たちが自分の人生を生きる上で大きな力になるのです。

一生懸命生きているあなたを応援しています。そして私も、自分の生きるべき場所で神様から頂いている使命にこれからも全力で生きていこうと思います。
一生懸命なあなたを、私は大切な友だちだと思っています!


posted by pastoryama at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする