2018年01月02日

適度な距離感

親子関係や夫婦関係など身近な人との関係性が上手くいかないという相談はしばしばお受けするものです。「あの人のこういうところが嫌で...」と言ってみても、人が変わるのは簡単なことではありません。自分自身がそうですから、他の人を変えることなどできることではありません。
そういう時に「距離感」を見つめ直すことは有意義です。距離感を変えることで関係性に変化が生じることがあります。

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例えば鏡をごく近くで見たら、しみやしわや色々気になるけれど、適度な距離で見たらそれ程ではないでしょう。
他人は自分が思うほどには自分のことを見てはいないもの。そんなに鏡に近づいて細部まで気にする必要はなのですが、近づきすぎるとあれもこれも見えて気になってしまいます。かといって、離れ過ぎると見えるべきものまで見えなくなってしまい恥ずかしい思いをすることにもなるでしょう。
子育てにおいても同じです。よそのお子さんのことは多少の問題を抱えていても肯定的に見られるのに、自分の子どもはあれこれ問題が見えてきてイライラし否定的に考えてしまいやすいもの。とはいえ、イライラするからと子どもから完全に目を離してしまって、見えているべきものまで見失ってしまうことではいけません。見ない方が良いことと見えていなればいけないことがあるのです。

2人の娘がいます。喧嘩もしますが基本的に仲の良い姉妹で、お互いの存在を大切に思い合う姉妹の絆を感じます。ただしばらく前、些細なことでの喧嘩が増えたと感じる時期がありました。それまで同じ部屋を2人で使っていましたが、年齢的なこともあって2人の物理的な距離感が近すぎることの問題があるようで、どうしようかと妻と話し合いました。
家を片付ければ何とか別々の部屋を持たせることはできたのですが、そうやって完全に生活の場所を分けることが最善の解決方法かと考えると違うように思えました。
基本仲の良い姉妹ですし、適度な距離感でお互いに関心を持ち続け、支え合って歩んで欲しいという思いがありましたので、もう少し別の選択肢が無いかとインテリアデザイナーの友人に相談し、子ども部屋につい立を設置してもらったのです。
つい立の上下は空いてますのでお互いの生活音は聞こえます。光も多少はもれます。部屋のドアも一つです。ただ、相手の空間がダイレクトには見えないので、その分「常時見えない・見られない」という距離感が生じました。
友人の細やかな配慮もあってこれはとても上手くいき、結果つい立を設置して姉妹の関係性は良くなりました。必要以上には見えない一方でまったく無関心にはならない距離感。つまらないことでイラッとしなくなり、姉が・妹がいることをお互い喜び合える、そんな関係性が感じられます。改めて、適度な距離感を持つことの大切さを学びました。

人との距離感を考える時「適度」というのがポイントです。私たちはどうしても極端に陥りやすいもの。べったりになって失敗し、今度は顔を合わせない程過度な距離を取ってしまう。近すぎるのもいけませんし、遠すぎるのもいけません。気にしすぎるのはトラブルのもとですが、無関心になってしまったら共に生きる意味はありません。
人と人とが生きる以上、何のストレスも無い関係性などありえません。一方で、抱えきれない程のストレスを感じる近すぎる距離は問題です。極端なことをしないで、少しだけ距離感を調整してみる、それで変わることがきっとあるでしょう。
あなたの掛け替えのない人生を応援している川奈聖書教会 牧師の山口です。

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2017年07月24日

忖度という罠

「忖度(そんたく)」という言葉に注目が集まりました。辞書的には「他人の心をおしはかる」という意味ですが、特に最近は部下が上司の意向を推し量るというようなニュアンスで使われることが多いようです。

私たちの身近にも見られるのではないでしょうか。あからさまには自分の思いを明言せず、しかし関係性や影響力を用いて自分の希望していることを察するように促し人を誘導する手法。そうすることで自分は矢面に立たずに済み、問題が生じた時に責任を負う必要がない。「私はそんなことを言ってはいない。あの人が勝手にしたことでは無いか」と言い逃れるのです。

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 娘の運動会、ハチマキを締めなおす真剣な姿を友達に激写されてしまいました...

こういうことは様々な依存関係の中で頻繁にみられるものです。
例えば親子の関係の中で考えてみましょう。目に見えて虐待と言えるような出来事は起こっていないけれども、精神的・心理的に子どもを抑圧している親。あからさまに子どもに対して「こうしなさい」とは言いません。しかし子どもは親がどのような価値観を持っているか、それまでの関係性の中で叩き込まれていて、実際には親が望んでいる選択以外できないのです。けれども親は自分の意思を明言しません。あたかも子どもが自分で選択したかのように演出します。いつの間にか子どもも、自分が親の意思に誘導されていることが分からなくなり、自分の意志による選択であるかのように錯覚します。
そのようにして、親子双方が「子どもは自分の意思で選択しているのであって、親の強制など無い」と思い込みます。しかしそれは偽りです。
子どもがもし親の暗黙の意思に逆らうならば、親はあからさまにそのことを批判はしないかもしれません。しかし、顔色や態度・言動を通して暗に子どもにプレッシャーをかけるのです。そうやって、子どもの選択を暗に批判します。子どもは親無しに生きることができません。結局、従うしか選択肢は無いのです。
傍目には親が自分の意思を子どもに強制した証拠は何もありません。ただ、親子の関係性の中では明らかに親の子どもに対する強制は実態を持って存在しています。

こういうことが社会の様々な場面で見られます。何がしかの力を持っている人に繋がることで得られる恩恵の見返りとして、暗黙の了解が強制される、そういう共依存的な関係性。
もしそこで矛盾や過ちを指摘する人がいるならば、上に立つ人からも従属している人からも声を合わせて「そんなことは言っていない。そんな事実はない」と否定し攻撃を受けるでしょう。たいていそうなった場合、暗黙の了解の中で作られた偽りの世界の方が真実よりも遥かに強いものです。「暗黙の了解」において守られてきた世界の中に、絶対失うわけにはいかない何がしかが存在しているからです。

組織の中で、コミュニティーの中で、家庭の中で、もちろん教会においても、「王様は裸だ」と言える勇気を持つことは大切です。そして、その役割を誰か個人に求めるべきではありません。一人一人が「王様は裸だ」と言える誠実さを持つことと共に、誰でも「王様は裸だ」と言える風通しの良さ、寛容さを全体で死守していく意識が必要です。

このような歪んだ関係性に陥らないために意識すべきキーワードは「依存」です。上記した親子の例を考えると、子どもが親の不条理に従うのは生きていくためでした。生きるために子どもは親に従わざるを得ません。ですから、子どもは一方的な犠牲者です。
しかし大人の関係性においては違います。失いたくないなにか、どうしても手に入れたいなにか。それは人との繋がりであったり、仕事やポストであったり、名誉であったり、楽しみであったり、安心であったり、色々ですが、そういう自分の欲求を守るために、その代価として暗黙の了解・忖度の世界に陥ってしまうのです。

旧約聖書の偉人ヨブが言いました。「主は与え、主はとられる。主の御名は誉むべきかな」、与えられた物に感謝しつつ、しかし失うことを恐れない心。神様が与え、神様が取られるのであれば、神様がとられ、神様が与えてくださるのです。
何かを得るために、何かを失わないために、真実をゆがめることは止めましょう。失うことを恐れずに「王様は裸です」と言える姿勢、そしてそういう都合の悪い真実を受け止めていく柔らかな心を養っていきたいものです。何かを守るために暗黙の了解という悪魔の策略に心を売り渡し、素晴らしい人生を台無しにしてしまうことがありませんように。

あなたのたった一度の人生を応援している川奈聖書教会 牧師の山口です。

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2015年03月28日

“出る杭”が喜ばれるグループに

私の好きなドキュメンタリーに1985年に放送された「OZAWA」という小澤征爾さん50歳の時の様子をまとめた映像があります。
その中で、中国系アメリカ人のチェリスト、ヨーヨー・マさんと小澤さんが語りあう場面が非常に興味深いのです。
彼らは東洋人に西洋音楽が出来るのかという話題で語り合うのですが、その中で日本文化・東洋文化を「個性より協調性が優先する。才能あるものは辛い。しかし、ひとたび東洋を出ると自己を主張しなければいけない」と分析していきます。
「西洋音楽に向き合う東洋人」という文脈の中で交わされるこの会話の中で小澤さんは驚くほど感情的になり、撮影の続行を拒否するほどでした。彼にとって極めて重大な問題がそこにはあったのだろうと思います。


西洋と東洋とどちらの文化が良いという話しではありません。自分たちの文化に誇りを持つことは悪いことではありませんが、絶対化すべきではありません。
協調性が優先されるゆえに、才能ある人が自らの才能をあたかも悪いものでもあるかのように認識させられてしまう社会性というのが確かに存在しているのではないでしょうか。
それは「才能」とポジティブに認められるものだけでなく、「障害」とネガティブに捉えられてしまうような事柄にも同じように認められるのです。

以前にもADHDについて書いたことがありました。
そうした傾向を持つお子さんやその親御さんと関わる中でしばしば感じるのは、協調性が個性に優先される社会の中にあるから、彼らは問題児というレッテルを強烈に突き付けられてしまうのではないかと言うことです。
つまりADHDと言われる傾向を持つお子さんの問題性ばかりに目が向けられるのですが、むしろそのようなタイプのお子さんを「ADHD」と際立たせてしまう社会の問題性にももっと目を向けるべきではないでしょうか。

日本は和の文化と言われるので一般的には集団意識が非常に強いと思われがちです。しかし心理学者や社会学者がしばしば指摘することですが、東洋文化における集団の特徴は自立性の低さにあると言われます。
日本における集団への帰属意識はしばしば自信の無さや不安感、それゆえの依存心が根底にあります。グループに属することで自らのアイデンティティを獲得しようとするのです。
一方、西洋的なグループは様々な個が結び合った集団。つまり個というアイデンティティを獲得した人々が結び合う、発展性を喜ぶ集団です。

お世話になった心理学者の丸屋真也先生が教えて下さったことですが、西洋文化においてはグループに所属することには常に努力が求められる。それは自分が何者であるのかということを明確化していく努力。即ち個を現していく努力です。
一方、東洋の文化においてはグループに所属することは簡単です。個を出さずにグループに忠実に従っていれば良いのです。アイデンティティを求めてグループに所属するのか、アイデンティティを持つ人が他者との繋がりを求めるのか。
1+1が1で終わってしまうグループと、1+1が2、更にそれが掛け算に変わって倍加されていくような創造性のあるグループと。一概に「集団」と言ってもその性質はまったく異なるものです。

最近「和の文化は素晴らしい」という協調性を強調した日本文化や日本の宗教性を称賛する言葉をよく耳にします。しかしもう少し内実を問うた方が良いのではないでしょうか。
もしかして、私たちが見ている「和の文化」とは多様なものを包容する豊かさではなく、1+1+1...どんなに沢山の1を足して行っても答えが1にしかならない、全てを曖昧にする「和」に過ぎないのではないか。そのような文化の中でただ一つだけ曖昧でないのは、答えを1にしない人、出来ない人。明確な何かを現そうとする人は否定されてしまうという現実です。

人と人とが結び合うことは素晴らしいことです。そういう意味で「和の文化」を大切にすべきだと思います。けれども、出すべき答えが決まっている集団というのは一見優しそうな顔をしていますが、ある人々にとっては極めて暴力的に感じられるものです。
人と人が結び合う喜びというのは本来創造的で前向きなものですが、それは自分と同じ誰かが結び合うことではなく、自分と違う誰かが結び合うからこそ生まれる創造性です。
「出る杭が打たれる」グループではなく、「出る杭が喜ばれる」グループへ。皆さんが所属意識を持つ集団・グループと自分との関係性を改めて考えてみませんか。
自分も他者も、もっと生かしあえる関係性に変えていく余地があるのかもしれません。

聖書を学ぶと私たちの日々の生活に沢山の新しい気付きが得られます。聖書は世界のベストセラー、ぜひ教会に足をお運びください!
教会であなたを待っているだけではありません。呼んで下されば、喜んで私が足を運びます(^^♪
FM伊東、伊豆高原十字の園、平和の杜、伊豆高原ミッシェルガーデンコート、教会外でも色んな所に伺わせて頂いております。気軽にお声掛け下さい。。。


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