2015年03月28日

“出る杭”が喜ばれるグループに

私の好きなドキュメンタリーに1985年に放送された「OZAWA」という小澤征爾さん50歳の時の様子をまとめた映像があります。
その中で、中国系アメリカ人のチェリスト、ヨーヨー・マさんと小澤さんが語りあう場面が非常に興味深いのです。
彼らは東洋人に西洋音楽が出来るのかという話題で語り合うのですが、その中で日本文化・東洋文化を「個性より協調性が優先する。才能あるものは辛い。しかし、ひとたび東洋を出ると自己を主張しなければいけない」と分析していきます。
「西洋音楽に向き合う東洋人」という文脈の中で交わされるこの会話の中で小澤さんは驚くほど感情的になり、撮影の続行を拒否するほどでした。彼にとって極めて重大な問題がそこにはあったのだろうと思います。


西洋と東洋とどちらの文化が良いという話しではありません。自分たちの文化に誇りを持つことは悪いことではありませんが、絶対化すべきではありません。
協調性が優先されるゆえに、才能ある人が自らの才能をあたかも悪いものでもあるかのように認識させられてしまう社会性というのが確かに存在しているのではないでしょうか。
それは「才能」とポジティブに認められるものだけでなく、「障害」とネガティブに捉えられてしまうような事柄にも同じように認められるのです。

以前にもADHDについて書いたことがありました。
そうした傾向を持つお子さんやその親御さんと関わる中でしばしば感じるのは、協調性が個性に優先される社会の中にあるから、彼らは問題児というレッテルを強烈に突き付けられてしまうのではないかと言うことです。
つまりADHDと言われる傾向を持つお子さんの問題性ばかりに目が向けられるのですが、むしろそのようなタイプのお子さんを「ADHD」と際立たせてしまう社会の問題性にももっと目を向けるべきではないでしょうか。

日本は和の文化と言われるので一般的には集団意識が非常に強いと思われがちです。しかし心理学者や社会学者がしばしば指摘することですが、東洋文化における集団の特徴は自立性の低さにあると言われます。
日本における集団への帰属意識はしばしば自信の無さや不安感、それゆえの依存心が根底にあります。グループに属することで自らのアイデンティティを獲得しようとするのです。
一方、西洋的なグループは様々な個が結び合った集団。つまり個というアイデンティティを獲得した人々が結び合う、発展性を喜ぶ集団です。

お世話になった心理学者の丸屋真也先生が教えて下さったことですが、西洋文化においてはグループに所属することには常に努力が求められる。それは自分が何者であるのかということを明確化していく努力。即ち個を現していく努力です。
一方、東洋の文化においてはグループに所属することは簡単です。個を出さずにグループに忠実に従っていれば良いのです。アイデンティティを求めてグループに所属するのか、アイデンティティを持つ人が他者との繋がりを求めるのか。
1+1が1で終わってしまうグループと、1+1が2、更にそれが掛け算に変わって倍加されていくような創造性のあるグループと。一概に「集団」と言ってもその性質はまったく異なるものです。

最近「和の文化は素晴らしい」という協調性を強調した日本文化や日本の宗教性を称賛する言葉をよく耳にします。しかしもう少し内実を問うた方が良いのではないでしょうか。
もしかして、私たちが見ている「和の文化」とは多様なものを包容する豊かさではなく、1+1+1...どんなに沢山の1を足して行っても答えが1にしかならない、全てを曖昧にする「和」に過ぎないのではないか。そのような文化の中でただ一つだけ曖昧でないのは、答えを1にしない人、出来ない人。明確な何かを現そうとする人は否定されてしまうという現実です。

人と人とが結び合うことは素晴らしいことです。そういう意味で「和の文化」を大切にすべきだと思います。けれども、出すべき答えが決まっている集団というのは一見優しそうな顔をしていますが、ある人々にとっては極めて暴力的に感じられるものです。
人と人が結び合う喜びというのは本来創造的で前向きなものですが、それは自分と同じ誰かが結び合うことではなく、自分と違う誰かが結び合うからこそ生まれる創造性です。
「出る杭が打たれる」グループではなく、「出る杭が喜ばれる」グループへ。皆さんが所属意識を持つ集団・グループと自分との関係性を改めて考えてみませんか。
自分も他者も、もっと生かしあえる関係性に変えていく余地があるのかもしれません。

聖書を学ぶと私たちの日々の生活に沢山の新しい気付きが得られます。聖書は世界のベストセラー、ぜひ教会に足をお運びください!
教会であなたを待っているだけではありません。呼んで下されば、喜んで私が足を運びます(^^♪
FM伊東、伊豆高原十字の園、平和の杜、伊豆高原ミッシェルガーデンコート、教会外でも色んな所に伺わせて頂いております。気軽にお声掛け下さい。。。


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2015年03月21日

本物の援助は紙一枚

2014年度の教会塾いっしょが終わり、子どもたちと一緒に歩んだ一年間を振り返りながら支援すること、応援することの意味を考えています。

子どもたちに限らず、誰しも人生の困難で援助を必要とすることがあるでしょう。そこで色々な援助者に出会うと思いますが、あまりにも劇的な援助者、その人の人生に影響を及ぼし過ぎる援助者というのは、短期的には非常に魅力的なのですが長期的にはあまり役に立たないように思います。

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教会塾いっしょでご指導下さっている浦島先生の「うらしまコンサート」(そのままですね...)に出演させて頂きました(^^)/

私たちが困難において援助者に求めることは大抵問題の解決です。そしてそのことを引き受けようとする援助者、実際に解決してくれる援助者はその時には大変ありがたい存在です。
けれども、あなたの問題を代わりに解決してくれる人はあなたを成長させてくれる人ではありません。そこで覚えるのは援助者への頼り方だけであって、その人自身は何も変わらないのです。

本当の援助とはその人が直面している問題に、その人自身が挑戦し時間がかかったとしても乗り越えていけるように、その人のチャレンジを支援することではないでしょうか。
そもそも援助、応援というのは地味でその成果は見え辛いもの。本当の援助と言うのは劇的であったり、目立ち過ぎてはいけないものなのです。

子どもたちとじっくり関わっていると、子どもたちの内には「前に進もう、挑戦しよう」とする前向きな思いが必ず潜んでいることに気がつきます。でも、色々な事情でそれが中々表に出てこないのです。
自信が無い、怖い、寂しい、過去の失敗、自己像の傷、色々な事情があるでしょう。それで脇道に逸れたり、無気力になったり、反抗的になったり、甘えたりする訳です。
でもどこかのタイミングでそういう自分に満足できずに「やっぱり前に進みたい、自分の人生を歩んで行きたい、挑戦したい」という意欲が現れる時があります。必ずあるのです。
その時に、ホンの少し背中を押してくれる人がいる。「あなたの挑戦を応援しているよ」と自分を肯定してくれる人が居る。
それは地味な存在ではあっても、その人の人生を左右するような意味のある援助になるのです。

人生って紙一重だなとしばしば思います。それは見方を変えると本当に必要とされている援助は紙1枚程度、ということかもしれません。
でもしばしば援助する側が紙1枚分の援助では満足できずに、紙20枚、30枚分になりたくなってしまって、結局本人の成長の芽を摘んでしまうようなことがあるのではないでしょうか。

本当に必要とされている援助は紙1枚。自分を紙1枚に出来るかどうか。そして、人生を左右する本当に大切な1枚になれるかどうか。
誰かの人生に劇的に関わることなど出来ませんし、出来たとしてもそれは自己満足に過ぎないのかもしれません。
人生は紙一重。だから地味であっても、子どもたちが必要としている本当に大切な紙1枚がいつでも用意されている教会でありたい。これが子どもたちと関わる川奈聖書教会の責任だと思っています。

ぜひお子様を教会にお送り下さい(^^♪
子ども礼拝 毎週日曜日 午前9時15分から10時半
http://www.geocities.jp/kawanachurch/

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2015年03月05日

“誰が”と“何をするか”の関係

人というのは冷静に観察していると面白い気付きが色々あるもので、例えばある事柄について他の人が提案した時にはNOと言うけれど、自分が言い出した時には同じことがYESに変わるというようなこと、珍しくありません。

こういう癖がある人の行動には主に二つの要因が考えられます。
一つは、他者に対する不信感です。自分が主導権を握っていないと物事は上手くいかないという思い込み。
人は自分を傷つけたり、騙したりする。人に任せると失敗する。そういう他者への不信感が、事柄については賛成であっても他者が主導する事に対して無意識に反対したくなる感情を呼び起こします。
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留田の海水浴場近くにある宇佐美教会さんhttp://music.geocities.jp/hrncs784/で、毎週水曜日夜7時からの礼拝が始まったそうです!火曜夜は川奈聖書教会、水曜夜は宇佐美教会の夕礼拝(^^♪

もう一つの可能性は、そこで行われる事柄よりも、そのことを通して得られる副産物の方に関心が向いているというケースです。
例えば、何か良いプロジェクトを進めることになったとして、そのプロジェクトが成功することよりも、そこで自分が中心的な役割を果たすことの方に意味を見出している。
ですから、自分が主導出来ないのであれば、こんなプロジェクト失敗した方が良いという、そういう発想の人は「何をするか」よりも「誰が言うか」で意見が大きく変わります。

ひと昔前に流行ったでしょうか、「イエス・バット法」というコミュニケーションのテクニックがあります。
何かの交渉事において、相手の言葉に反論する時に全否定するのではなく、まず同意を示しながら、その上でNOの理由を述べていくと相手はこちらの考えを受け止めやすくなるという話し方のテクニックです。
確かに「あなたの意見には、こういう問題があるから絶対ダメです」と全否定されるのと、「なるほど。あなたのおっしゃることはもっともですね。ただ、こういう問題があるので残念ですが今は無理なのです」と部分的にでも共感が示された上で否定されることと、印象はかなり違うでしょう。

世の中というのは、多くの場合本質的な事とは違う場所に大きな影響を受けて動いていくもので、感情や印象や、そういう主観的なことが決定的な意味を持ってしまうことがしばしば起こります。
それは非常に面倒で不愉快なことでありますが、しかし物事の本質をしっかり見据えていると、主観に左右される世の中だからこそ動かしやすい面というのも見えてくるかもしれません。
副産物が欲しい人にはそれをあげたら良いのです。そのことによって、困難な事柄に実現の道筋が見えてくるかもしれません。

本当に大切な一つの物を見抜いている人は最強です。
プライドとか名誉とか功績とか、そういう副産物に見向きもせずに本当に大切な一つの物を見据えている人にとって、本質的ではないことに重きを置く人というのは案外動かしやすい人であるかもしれません。逆にこじれてしまう時というのは、こちらが本質的なこと以外にも関心を持ってしまっているからではないでしょうか。
「“誰が” “何をするか”」。この二つの面が結び合って世の中は動いています。そこで、「誰が」を人にあげてしまえる人というのは、それだけで大きな武器を手にしているのです。

川奈聖書教会はあなたの掛け替えの無い人生を応援しています!
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp


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