2014年04月19日

親だって助けを必要としている

子どもたちが犠牲になる痛ましい事件は今や報道で耳にするだけではなく、皆さんの身近でも様々に起こっているのではないでしょうか。
辛い状況に置かれているお子さんに接する時に私たちがしばしば感じることは気の毒な子どもさんへの同情と共に親御さんに対する怒りかもしれません。
けれどもどんなに深く子どもさんに同情し愛情を持って関わったとしても、親御さんに怒りを燃やしてしまっては中々有効な援助をすることはできません。

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例えば自分の子どもが教会でどんなに大切にされていたとしても、当の親が自分は教会から嫌われているとか非難されていると感じるならば、我が子を教会に送りたくはなくなるでしょう。
子どもさんを愛するということは、その子どもの親御さんをも愛する思いが無ければ機能しないのです。

よく聞く話しですが、子どもの問題行動が顕著になり親御さんが相談所などに行くと、相談員の方から子育ての問題を手厳しく指摘されて帰ってくるということがあるようです。
子どもさんの問題の原因を見つけることはそんなに難しいことではありません。例えば“親の子に対する愛情不足”“一緒に過ごす時間の不足”などなど、ある程度経験のある相談員であれば子どもさんの問題からその原因を見抜くことは容易です。でも、正解を出せば問題が解決する訳ではありません。何の役にも立たない正解って沢山あるのです。

家族療法の中で「直線的認識論」と「円環的認識論」という考え方があります。 仮に娘さんが母親に対して極度に依存的で様々な問題が起こり、困った母親が娘の相談をしに来たとします。そうした時に、直線的認識論で娘さんの問題を考えると想定される原因の一つは「母親の過保護、過干渉」でしょう。
でもこの推測が当たっていたとしても恐らくこれは“役に立たない正解”に終わるだろうと思います。正しい原因を指摘されてもお母さんには何の変化も起きないのです。

一方、円環的認識論で考えた時にお子さんの問題の原因として「母親の過保護・過干渉」は結論にはなりません。更にもう一歩踏み込んで、ではなぜ母親が娘に対して過保護になってしまうのかを考えるのです。
そこで次に見えてくるのは、母親とその夫の夫婦関係の問題であるかもしれません。夫婦の間に大きな溝があって母親は妻としての寂しさを抱えている。そこで本来夫に向うべき感情が行き場を失い、母親の寂しさが娘への過保護・過干渉に繋がっている。
そうすると、子どもさんの問題というのは直接的に子どもさんにアプローチするよりも、むしろ親御さんの夫婦関係を修正することで結果として解決していくことだと見えてくるのです。
そうした時にお子さんの問題よりも、お父さん・お母さんの夫婦関係の修復を援助したりその痛みに耳を傾けたりという関わりが優先されるのかもしれません。

家族の問題に関わらず、私たちは何か受け止めがたい出来事があると直ぐ直線的認識論によって犯人捜しをし、犯人を徹底的に非難して正義を晴らしたかのように錯覚します。でもそれはあまり意味のないことです。
犯人を見つけ、意味のない正解を突き付けて憂さ晴らししても、それでは何ら苦しんでいる方の力にはなれません。苦しんでいる本人だけでは無い、その周囲に居る方々をも愛し受容しサポートしていくことの中で、結果として問題が少しずつ解決に向かっていくということが起こるのです。

もしかして、支援を必要としているのはあなたのお子さんではなくあなた自身なのかもしれません。
川奈聖書教会の「子育て 教育相談室」は子どもさんの問題解決だけではなく、相談下さる親御さん自身を支援させて頂きます。
40年近い教師歴を持つ浦島さんと牧師山口が全力であなたを応援します!
気軽に連絡下さい(*^_^*)
Tel 44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp

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2014年03月28日

親子ゲンカのNGワード

お子さんが大きくなってくると段々お子さんと本気でケンカしてしまうようなことがあるかもしれません。
あまり頻繁なのは不味いですが、親子喧嘩自体はお子さんの成長過程で避けられないことです。
ただ、親子喧嘩のNGワードはいくつかあります。NGワードの代表選手の一つは「誰のおかげでご飯が食べられると思っているのか!」です。この言葉、止めましょう...。

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おかげさまで14回目の結婚記念日を迎えることが出来ました。夫をさせてくれている妻に、父親をさせてくれている子どもたちに、そして誰よりも神様に感謝を忘れずにいたいと思います。そして支え祈って下さる皆様に感謝


ケンカにはケンカのルールがあります。素手の相手に刃物を使うのはルール違反ですよね。
子どもの言葉にカチンとくることがあるでしょう。親だからと言っていつも平静を装う必要はありません。親にだって言われたら嫌なこと、悲しいこと、聞き流せないことがありますから、そのことは表現して良いと思います。
ただケンカするなら、正々堂々ケンカして下さい。
親が子どもに“誰のおかげでご飯が食べられるのか”という言葉を使うのは、素手の相手にナイフを突き付けるのと同じです。これではケンカになりません。
子どもには返す言葉がありませんので、そう言われたら従うほかありません。
けれども、このような言葉で子どもを押さえつけることをしていると、その関係は親子関係ではなく主従関係に変質してしまいます。

厳しいようですが、親御さんは自分自身に問いかけなければなりません。“誰のおかげで親をさせてもらっているのか”と。
子どもは自分で決断して親の下に生まれてきたのでは無いのです。子が「親の子」であることは、子の責任ではありません。
しかし、親が「子の親」であることは親の責任です。親は望んで子の親になったのです。そして親とは子どもが自立するまで、子どもに必要なものを提供する責任があります。
そのような親としての責任を承知の上で親になったにも関わらず、自らの責任を子に負わせるようなことを口にするのは不味いですね。

子どもは親が思うよりもずっと非力です。このように言われたら子は従うほかありません。けれどもそこで考えるでしょう。
「親に食べさせてもらっているのだから、親に従わなければならない」、それは裏を返せば「自分で食べられるようになったら親などもういらない」ということです。
親の子であるならば、何歳になっても子は子です。けれども親の奴隷であれば、やがて親との繋がりは失われるでしょう。
いや、実際にはやっぱり親子の縁はそう簡単には切れません。親を捨てることなど子には中々出来ないことです。
しかし、親を親として素直に愛することが難しくなってしまいます。いくつになっても親との関係に迷い悩み苦しみ。愛したいと思いながら愛せない。近づいたり離れたり、優しくしたり罵ったり...。
そういう親子の関係性の歪みを後になって修復するのは容易なことではありませんし、現にこのような悩みを抱えておられる方がたくさんおられます。

親が親であり続けるためには、親としての責任を負わなければいけません。そうすることで親としての喜びを味わうことができるのです。
これは親に限ったことではありません。
しばしば同等であること、同じ目線であることが美徳のように言われます。友達のような親子、友達のような上司・部下。友達のような教師・生徒。
けれども同等・同じ目線を目指す前にまず考えるべきことは責任です。
「同じ目線で」という理想は分かりますが、そもそも立場は同じではありません。もし社長が従業員と同等であるならば、従業員に社長と同等の給料を出すべきですし、教師と生徒が同じであるならば教師は無給であるか、生徒は教師と同じ給料をもらわなければいけません。
同等ではありませんから、当然責任はより重たいのです。同等では無い責任をしっかりと負いつつ、なお同じ目線・同じ立場でものを考えようと努力するならばそれは素晴らしいことです。
しかし責任を回避し、同等だけを主張するのはただの甘えですし、弱者にとっては暴力的な印象さえ受けるでしょう。

親と子は立場が違うのです。ですから、親の責任を放棄するような言葉を子どもに発していたら、親であり続けることは困難になってしまいます。
子であることの責任は子にではなく親にある、この場所をしっかり押さえながら良い親子喧嘩をして下さい。

そうは言っても親は親なりに苦労があり、分かっていても負うべき責任が重たすぎるということはあるでしょう。
その時には、相応しい人に相談すべきですし、相応しい人に助けを求めるべきです。あなたを応援している人が必ずあなたの傍にいます。
教会もあなたを応援しています(^^)/ いつでもご相談下さい。
kawanachurch@ybb.ne.jp 44-1728 川奈聖書教会
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2014年02月27日

家庭におけるタブーの話し

皆さんが自分の子ども時代を振り返った時、子どもながらに案外色々なことに気付いていた、知っていたということがあるのではないでしょうか。
ご相談を受ける時に割と良くある話しは「実は私が子どもの頃、私の両親は○○のようなことをしていたのです。でもそのことには触れてはいけないことになっていました」みたいなことです。
社会で生きる顔と家庭の中での顔がまったく同じということはありません。
牧師ななどは正にそうですが、教師など社会で模範的であることを期待される職業の方は特に、家庭の内と外でのギャップが大きいということが起こりやすいようです。

社会的に非常に尊敬され理想的な人として見られている方の家庭の中に深い闇があるということはしばしばあることです。
多少外と内でのギャップがあっても、子どもが「家のパパは教会では○○だけど、家では○○だよ(笑)」くらいのことを言えれば良いのですが、「家の父は教会でも家庭でも常に信仰深く完璧です」みたいなことしか言えない、言ってはいけないと育てられているお子さんの内面はどのようなことになるでしょうか。

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“子育てともとも”も相談するのに最適の場所。お子さんを観て下さるスタッフも居ますので気軽に声をかけて下さい。リトミックの本多先生のご指導も素晴らしいですよ(^^)/写真左が本多先生、右は牧師(わたし) ともともは2月28日・3月14日午前10時から。。。

これはタブーの問題です。4人家族であれば4人が家庭の中で確かにそのことを見ているのです。しかし、それは存在しない、無かったことに・見なかったことに・口にしないようにしようと、暗黙の了解が作られていきます。
例えば父親が浮気をしていて、それは家族全員が知っていることであるけれども口にすることが出来なかったとします。良い家庭であることを演じながら、傷ついた家庭を誤魔化して生きるということは子どもにとって大きな負担、ストレスです。
あたかも足に大きな怪我を負っていながら、健康を装い皆と同じように行動し続けているようなことですから。当然どこかでその無理が現れます。

更に、子どもの立場に立って考えてみましょう。
目の前におかしなことが起こっている⇒しかしそれを口にすることは許されず、何事も無いかのように偽って生きることを求められる⇒大きなストレスを抱える

この大きなストレスを抱えているサインはそれぞれの子どもが必ず何がしかの形であらわします。子どもがしまい込み消化してしまう、ということは決してありません。
例えば、身体的・精神的・性的な行為におけるストレスを子どもが受けながら、そのことを拒否したり、訴えたりすることが許されなかったとすると、ごく単純な可能性として、学校などの場で自分が受けている行為と類似する問題行動を起こす可能性が高くなります。
親に叩かれている子どもが、学校で友達を叩いてしまうとか、家庭で目を向けてもらえない子どもが、学校で友達を無視するとか、類似の行動で抱えているストレスを発散しようとするのです。

しかし、それで子どものストレスが解消する訳ではありません。
ある専門家は「すり替え欲求」という言葉を使うのですが、親から受けた暴力を友人を叩くことで解消しようとしたとします。欲求をすり替えたのです。
けれども、すり替えていますから当然真の充足はありません。いやむしろ、すり替えられることで益々ストレスは増幅し、そのすり替え行為が繰り返されエスカレートするようになっていきます。
こうして依存症や嗜癖と言われる問題が生じてきます。

聖書の中に「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」と書いてあります。
隠すことでは問題は絶対に解決しませんし、やり過ごすことはできません。もし一時的に通り過ぎることが出来たとしたら、その問題は数年後遥かに大きな問題になって帰ってくるでしょう。

第一歩は話すこと。相談することです。信頼できる人に恥ずかしくても、心配でも相談して下さい。
隠されてきた問題に光が当たる、それだけですでに解決への大きな一歩を踏み出したことになるのです。
あなたにその問題を解決する力は無かったとしても話すことは出来ます。そして、話すこと・相談することはあなたの大切な責任です。

教会にも遠慮なくご相談下さい。子育て相談、教育相談、無料でお受けします。電話44-1728 kawanachurch@ybb.ne.jp
そしてぜひ礼拝に足を運んでみて下さい(^^)/
日曜礼拝 AM10:30-12:00 火曜礼拝 PM7:00-8:00

posted by pastoryama at 00:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 子育て | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする