2015年11月19日

子どもに教えるべき本当の「特別」

「あなたは掛け替えの無い特別な存在」、親はわが子にそのように伝えたいと願うでしょう。大切なことです。しかし時に「特別」の意味を履き違えしまうことがあるかもしれません。
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21日(土)午後1時半から2時半、教会ピアノ教室の発表会を行います。ピアノを通して子どもたちの健やかな成長を願い、3年間続けてきました。ぜひ応援にいらしてください。またピアノ教室や教会塾に関心の方は気軽に連絡ください。

子どもの頃、私が通っていた空手教室の流派の大先生のお祝いの式典でこんな光景を目にしました。
空手道の式典ですから偉そうな先生が前に並んで厳粛な感じで執り行われていたのですが、式の途中小さな子どもさんがチョロチョロっと前に出てきておどけた仕草をしました。途端に張り詰めた空気がゆるんで、前に並ぶいかめしい先生たちがニコニコと顔をほころばせたのです。そのお子さんは大先生のお孫さんでした。
その様子を見ていて今度は別の小さな子どもさんが、やはり前に出てきて同じようにふざけたのですが、そのお子さんはあっという間に「あっちに行きなさい」と連れ出されてしまいました。そのお子さんは「普通」のお子さんだったからです。
中学生の私はその光景を非常に嫌な思いをしながら見ていたことを思い出します。

子育ての中で子どもの「特別」の意味を履き違えないように気をつける必要があります。本当の意味での「特別」を教えるためには、子どもの立ち位置を「特別」にしてはいけないのです。
「普通」の子どもとは違って大先生の孫である「特別」な子どもは、そもそも他の子どもたちと立っている場所が違います。違う場所に立っているがゆえに「特別」であると自分を認識していた子どもが、その「特別」を失った時に経験するのは劣等感です。大人が与えてくれた下駄を履いて他の子どもを見下していた子どもさんは、下駄が無ければ自分を肯定できなくなってしまいます。
フラットな関係性の中で自らを肯定する力が養われていないので、普通の関係性の中に生きることができないのです。
つまり立場・立ち位置としての「特別」を与えられて優越感を経験することは、結果として子どもの健全な自己肯定感を損なわせてしまうことになりますし、人間関係を構築していく上で大きな問題を抱えてしまいます。

先日、ある学校で修学旅行の際にクラスの大勢の子どもさんが持っていけるお小遣いの上限を超えて持ってきて問題になったという話しを聞きました。親御さんたちの「自分の子どもだけには多く持たせてやりたい」という思いが働いたのでしょう。
しかし、子どもにとって大切な経験はたくさんお小遣いがあるから「特別」楽しめることではなく、決められた枠の中であれこれ考え工夫し得られる自分だけの「特別」な楽しさではないでしょうか。

大人が与えた下駄を履いての「特別」は、子どもに本当に与えなければいけない「特別な存在である」という自己肯定感をむしろ損なわせてしまうものです。
比較することの中での特別性では無く、比較できないことの中に見出される特別性を子どもに伝えることができたら、子どもの人生に掛け替えの無いプレゼントができたと言える子育てになるのではないでしょうか。

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています!ぜひ教会学校に子どもさんをお送りください。
毎週日曜日 午前9時15分から10時30分

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2015年09月17日

質の良い「できなかった体験」を

子供の成長とは「できなかったことができるようになる」ことです。
自分の子供たち、また教会学校や子育てともとものお子さんたちの姿を拝見しながら、これまでできなかったことができるようになっていく成長を目の当たりにしているのですが、ここに一つ重要な気づきがあります。
子供の成長が「できなかったことができるようになる」ことであるとは、つまり「できるようになる」ためには「できなかった体験」が不可欠であるということなのです。

例えば、子供がお母さんから離れられるようになるという成長は、お母さんから離れられなかったという体験の中に生まれてきますし、お友達の輪の中に入れるようになるという成長は、入れなかった体験の中から生まれてきます。
「失敗は成長の母」と言いますが、正に「できなかった」という体験は「できるようになる」という成長を生み出すお母さんなのです。
ですから、子供の成長において「できない」「失敗する」という体験をたくさん積ませてあげることはとても大切なことです。

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手を引いてあげなければ登れなかった小室山の階段。いつの間にか、小さな子供さんの手を引いてあげるようなりました。娘たちの成長。

ここで一つ押さえておきたいことは「できない体験」の質の違いです。成長を生み出す「できない」と成長に繋がらない「できない」があることです。
しばしば子育てでやってしまうのですが「この子はできないのです」「こういうことが苦手なのです」と言って、親御さんが先回りして子供のできないを決めつけてしまい、子供自身の「できなかった体験」を取り上げてしまうことです。
これは成長を生み出す「できなかった体験」とは違います。「できなかった」ではなく「やらせなかった」だけなのです。
「やってできないこと」と、「やらせずにできないこと」との違いはあまりにも大きいものです。子供の主体性の中で「できない」「やらない」「やりたくない」を何度も何度も体験させてあげること。その繰り返しの中で、ある日突然「やってみようかな」「できるかな」「できた」という成長が生まれてきます。
そうやって自分が成長することを体験したお子さんは、段々できないことに挑戦する意欲や喜びを身に着けていきます。ですから、何度かやってできなかったこと・嫌がったことを、親御さんが「この子はできない。やらない」と決めつけて主体的な「できない体験」を取り上げないように気を付けて頂きたいのです。
質の良い「できなかった体験」「失敗体験」をたくさん積ませてあげることが子育てには重要です。

川奈聖書教会では「子育てともとも」「教会塾いっしょ」「教会ピアノ教室」「教会学校」と様々な子供たちとの関わりの機会を持っていますが、そこで子供たちに体験させてあげたいと思っていることは「成功体験」ではありません。
成功という結果は確かに起こるのですが、それを狙っているわけではありません。むしろ、良い失敗体験をたくさん積ませてあげられる場でありたいと願っています。
今の子供たちは、子供なりに色々なプレッシャーを背負って生きています。「上手くやらなければ」「成功しなければ」という類のプレッシャーです。どうしても失敗することを恐れ無難に生きることを選択してしまいます。結局それが子供の成長を阻害してしまうのです。

教会ではドンドン失敗して欲しいと思います。先生を困らせ、先生の期待を裏切り、上手くいかない体験を何度も何度も積んで欲しいのです。そこからどんなに素晴らしい人生が生み出されてくるでしょうか。
川奈聖書教会は子供たちが失敗して良い場所です。「出来なかった体験」をするための場所です。
ですから「やらせなかったできない体験」ではなく「できなかった」と子供たちが主体的に味わえるよい「できなかった体験」をたくさん積ませてあげる場所としてご活用ください。

あなたの子育てを応援している川奈聖書教会 牧師の山口でした。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2015年05月01日

みんな絶対輝ける!

私の友人、税理士の原眞人さんが超多忙の中、松川の水上舞台が印象的な「伊東祐親まつり」の企画委員として活躍しておられます。
特にも伊東市内の小学5〜6年生を対象に「伊東をこんな町にしたい!」をテーマにした作文を募集して、優秀な作文を書いたお子さんに「初代すけちかくん」の称号を授与するという、素晴らしいアイディアを早速に実行され伊豆新聞でも大きく取り上げられていました。
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教会の子どもたちも作文コンクール挑戦してくれました!自分たちの住む町の将来について考える非常に良い機会になりました(^^♪

伊東の方以外は聞いたこと無いでしょうが、平安時代に伊東を治めた武将伊東祐親の名を冠した“祐親まつり”、もう40年の歴史があるそうです。ただ、、、伊東祐親のイメージってとにかく暗い。
もっとも知られるエピソードは源頼朝が平治の乱で流罪になり伊東に流され、そこで祐親の娘八重姫と頼朝の間に子(千鶴丸)をもうけ、それに怒った祐親は孫である千鶴丸を殺害するという悲惨なお話し...。「伊東祐親」と聞いて明るい・前向きなイメージないのです。
けれども原さんは今回、作文コンクールで「初代すけちかくん」を選ぶというびっくりなアイディアをお出しになられました。史実の暗いイメージとは全く違う、「伊東の町の開祖 祐親」という前向きな設定。そして開祖祐親にちなんで、子どもたちに伊東の町の将来を考えてもらうという、これまた実に明るく前向きな企画。祐親まつりの印象が大きく変わる、素晴らしいアイディア。さすが原さんです!

このように一人の人を異なる視点・方向性から見つめ直し捉えなおすということは、人を援助・サポートする上で、また子育てにおいても非常に大切な発想になります。
しばしば親は画一的な視点で子どもを見つめ、親の願う子ども像・親の持つ価値観に適う子どもであることを押し付けてしまいます。じっとしていることが苦手なお子さんに細かな神経を必要とする習い事を押し付けたり、創造的な才能のあるお子さんに機械的な作業を強いたり...。
そうすると当然、その価値観の中では「ダメな子、劣等生、落ちこぼれ」となってしまうでしょう。しかし一つの視点の中で否定されても、別の視点の中では大いに生かされる方が沢山います。
ですから本物の教育者は、育たないことを生徒の資質のせいにはしません。才能がある人しか伸ばせない、一種類の才能しか伸ばせない、そういう指導者であってはいけないのです。

全ての人に神様は賜物を与えて下さいました。それは「誰かのようになれる才能」ではなくて、“その人にしか出来ない何か”の賜物です。ですから本物の教育者・指導者は、沢山の引出しからそれぞれが持っている才能・賜物をもっとも生かし輝かすことができる方向性を見出し、自らの可能性を自覚させていく援助が出来なければいけません。
「これこれの資質・才能が無ければダメ。あなたはこれが出来ないからダメ」、そういう前提のある教育では無くて、全ての人が輝く可能性を持った教育でなければいけないと私は思うのです。

イスにどうしても座っていられないお子さんがいます。では45分間座っていられなければ、もうそのお子さんには望みが無いのでしょうか。そうではありません。座っていられないお子さん、じっとしていられないお子さんが、しかし体を動かすことの中で素晴らしいことが出来るのです。
神様が一人一人を掛け替えのない存在として創って下さったのであれば、一人一人の生かし方、生かされた方というのもまたそれぞれにあるのではないでしょうか。
画一的な価値観で「家の子は」と嘆くのではなく、お子さんを生かす柔軟な視点が求められているのかもしれません。

ぜひ教会に子どもさんをお送り下さい。お子さまに与えられている素晴らしい賜物を発見し生かすお手伝いをさせて頂きます。http://www.geocities.jp/kawanachurch/
子ども礼拝 毎週日曜 9時15分〜10時半

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