2015年05月01日

みんな絶対輝ける!

私の友人、税理士の原眞人さんが超多忙の中、松川の水上舞台が印象的な「伊東祐親まつり」の企画委員として活躍しておられます。
特にも伊東市内の小学5〜6年生を対象に「伊東をこんな町にしたい!」をテーマにした作文を募集して、優秀な作文を書いたお子さんに「初代すけちかくん」の称号を授与するという、素晴らしいアイディアを早速に実行され伊豆新聞でも大きく取り上げられていました。
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教会の子どもたちも作文コンクール挑戦してくれました!自分たちの住む町の将来について考える非常に良い機会になりました(^^♪

伊東の方以外は聞いたこと無いでしょうが、平安時代に伊東を治めた武将伊東祐親の名を冠した“祐親まつり”、もう40年の歴史があるそうです。ただ、、、伊東祐親のイメージってとにかく暗い。
もっとも知られるエピソードは源頼朝が平治の乱で流罪になり伊東に流され、そこで祐親の娘八重姫と頼朝の間に子(千鶴丸)をもうけ、それに怒った祐親は孫である千鶴丸を殺害するという悲惨なお話し...。「伊東祐親」と聞いて明るい・前向きなイメージないのです。
けれども原さんは今回、作文コンクールで「初代すけちかくん」を選ぶというびっくりなアイディアをお出しになられました。史実の暗いイメージとは全く違う、「伊東の町の開祖 祐親」という前向きな設定。そして開祖祐親にちなんで、子どもたちに伊東の町の将来を考えてもらうという、これまた実に明るく前向きな企画。祐親まつりの印象が大きく変わる、素晴らしいアイディア。さすが原さんです!

このように一人の人を異なる視点・方向性から見つめ直し捉えなおすということは、人を援助・サポートする上で、また子育てにおいても非常に大切な発想になります。
しばしば親は画一的な視点で子どもを見つめ、親の願う子ども像・親の持つ価値観に適う子どもであることを押し付けてしまいます。じっとしていることが苦手なお子さんに細かな神経を必要とする習い事を押し付けたり、創造的な才能のあるお子さんに機械的な作業を強いたり...。
そうすると当然、その価値観の中では「ダメな子、劣等生、落ちこぼれ」となってしまうでしょう。しかし一つの視点の中で否定されても、別の視点の中では大いに生かされる方が沢山います。
ですから本物の教育者は、育たないことを生徒の資質のせいにはしません。才能がある人しか伸ばせない、一種類の才能しか伸ばせない、そういう指導者であってはいけないのです。

全ての人に神様は賜物を与えて下さいました。それは「誰かのようになれる才能」ではなくて、“その人にしか出来ない何か”の賜物です。ですから本物の教育者・指導者は、沢山の引出しからそれぞれが持っている才能・賜物をもっとも生かし輝かすことができる方向性を見出し、自らの可能性を自覚させていく援助が出来なければいけません。
「これこれの資質・才能が無ければダメ。あなたはこれが出来ないからダメ」、そういう前提のある教育では無くて、全ての人が輝く可能性を持った教育でなければいけないと私は思うのです。

イスにどうしても座っていられないお子さんがいます。では45分間座っていられなければ、もうそのお子さんには望みが無いのでしょうか。そうではありません。座っていられないお子さん、じっとしていられないお子さんが、しかし体を動かすことの中で素晴らしいことが出来るのです。
神様が一人一人を掛け替えのない存在として創って下さったのであれば、一人一人の生かし方、生かされた方というのもまたそれぞれにあるのではないでしょうか。
画一的な価値観で「家の子は」と嘆くのではなく、お子さんを生かす柔軟な視点が求められているのかもしれません。

ぜひ教会に子どもさんをお送り下さい。お子さまに与えられている素晴らしい賜物を発見し生かすお手伝いをさせて頂きます。http://www.geocities.jp/kawanachurch/
子ども礼拝 毎週日曜 9時15分〜10時半

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2015年01月30日

親子の距離感〜惑星と衛星のように〜

娘たちの学校で「なわとび集会」というのがありました。
家の娘たちはとにかく学校行事は何でも親に観に来てほしいタイプなので、5年生のお姉ちゃんも1年生の妹も「観に来て!来れる?絶対来てよ!!」と繰り返し誘ってくれました。
何とか時間を調整して行ってみると学年ごとの集会なので見学に来ている保護者は10名弱...。もちろんお父さんは私だけ。
マラソン大会のように保護者が呼ばれている集会だと勘違いしていたので若干恥ずかしさはありましたが、私の顔をみつけて喜んでくれる娘たちの顔を私も嬉しく思いながら、八の字飛びを見学してきました。

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オズワルドという心理学者がこのようなことを言いました。
「子どもは親の衛星になることによって問題への正しい対処を学ぶ」、惑星と衛星の関係のように、いつも等距離に親が居てくれることを子どもが感じられる。その安定した親子の関係性・距離感を軸・土台として、子どもは様々な出来事に対処する力を見につけていくというのです。 
いつも同じ場所に、同じ距離に親が居てくれるという、そういう見えない親の支えが子どもの力になるのです。

親子の関係を「衛星」に例えるというのは絶妙な表現だと思います。
ついつい親は心配になって子どもにくっつき過ぎてしまいます。手取り足取り、何でもやってあげたくなるのです。でも、それでは子どもは自分の力をつけていくことができません。親に限らず「誰かにやってもらう」という依存的な発想が染みついてしまうでしょう。
くっついていなくて良い、惑星と衛星の距離感で良い、というのです。

一方だからと言って、親が子に無関心であることのマイナスももちろんあります。
例えば教会のリトミック教室でよく目にする光景ですが、お母さんと離れることが難しい就園前の子どもさんが、他の子どもたちの遊びやおもちゃに惹かれて少しずつ自分でそこに参加して行こうとします。その時に少しずつ前に進みながら、何度も何度も振り返ってお母さんの存在を確認します。
お母さんがそこに居てくれている。私のことを見てくれている。その安心感の中でお母さんの下を離れ、友達の輪の中に少しずつ加わっていきます。
ある一定の距離の中で見ていてくれているお母さんの存在、正に衛星のように離れているけれど繋がっている、その安心感が子どもの自立・成長・チャレンジの力になるのです。
そして成長と共に少しずつ親との距離が離れていき自立に向かっていきます。

親子の惑星と衛星の距離感が安定していると、様々な出来事があっても子どもさんの情緒は安定し様々な課題にそれぞれのペースで向き合っていくことができます。
一方、親子の惑星と衛星の距離感にぶれが起こると、それが何がしか子どもさんの様子に現れるものです。
近づきすぎると依存性が高まりチャレンジ精神が失われたり、親の存在が近すぎて窮屈になりイライラが現れたりします。逆に遠くなりすぎると、「私をもっと見て欲しい」というサインを問題行動や体調不良なので訴える、というようなことが起こります。

最近小・中学校で、怪我をしたかのような傷口のペイントをボールペンやマジックですることが流行っています。
子どもたちの流行にはしばしば意味があると思います。怪我をしたかのようなペイントを見て「どうしたの!」と注目してくれることを望んでいる、「もっと私を見て欲しい」という現代の子どもたちの欲求を投影しているのかもしれません。
親も子も忙しい時代。いつも一緒にいることは出来ませんし、関われる時間は限られています。
でも、子どもは親が私のことを思ってくれている、見ていてくれている、そういう安心感を必要としています。
それぞれの年齢、成長に合わせた惑星と衛星の距離感があります。
惑星である親の都合ではなく、衛星である子どもの状況に合わせて適切な距離感を保つことが出来ると良いですね。

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています!
子育て相談室 教師歴40年の浦島さんと牧師の山口がお伺いさせて頂きます。
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp
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2014年11月07日

反抗期のお子さんを愛するあなたへ

子どもたちの遊びの定番と言えば“かくれんぼ”。我が家の子どもたちも、教会の子どもたちもかくれんぼが大好きです。
そして、赤ちゃんが最初に覚える代表的な遊びは“いないないばぁ”ですね。この二つの遊びは「隠れる」ことと「見つける」こと、という共通点があります。
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代表&指揮を務めるストリングアンサンブル伊豆のコンサート、大盛況でした。応援感謝<(_ _)>

かくれんぼはオニに見つからないことを目指す遊びですが、しかし子どもたちが本当に求めていることは見つけてもらうことではないでしょうか。ぜったい見つからないような場所に隠れている自分を探してくれる、見つけ出してくれる存在がいることを遊びを通して体験し喜んでいるのです。
逆に見つけてもらえなかったかくれんぼというのはとても悲しいものです...。

時に子どもはあえて親を悲しませることをします。親を困らせ、親を非難し、親への怒りを露わにします。
子どもはそうやって親を苦しめることによって、親が自分に無関心になり、自分を見捨ててくれることを望んでいるのでしょうか。もしそれで親が子に無関心になってしまうのであれば、それは探してもらえないかくれんぼと同じではないでしょうか。

時に子どもが親の前から姿を消してしまうようなことさえ起こります。けれども、だからと言って居なくなった子を「もう知らぬ。親子の縁もこれで切れた」と見捨ててしまうなら、それもやっぱり探してもらえないかくれんぼと同じことなのです。
どこにいるのか分からない、何の連絡も無いお子さんのことを思う親の気持ちはどんなに辛いものでしょうか。でも、そうやって一方的に出て行って、どこにいるのか分からない子どものことを思い続け探し続けてくれる親の愛を力にして、子どもは生きているのです。

激しい反抗期の子どもさんの言動・行動に戸惑い苦しむことがあるでしょう。
その時にぜひ“かくれんぼ”を思い出して下さい。子どもさんは難しい場所に隠れて見つからないことを望んでいるのではありません。
愛せるはずが無いと思えるような自分を現わし、そんな自分をなおひたすらに愛しいと思ってくれる親の愛を力にしながら、子どもさんは思春期の嵐の中を必死に生きているのです。
だから、見つけることよりも、探し続けることが親の仕事なのだと私は思います。

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています!
44-1728
Email kawanachurch@ybb.ne.jp


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