2016年02月19日

被害者を非難してはいけません

凶悪な事件や犯罪・事故が起こると直ぐさま「そんな奴死刑にしろ」「生きている意味は無い」「殺せ」と、あたかも犯罪者を抹殺すれば問題が解決すると錯覚しているような、短絡的な声があがります。
何がしかの問題に関わり状況を深く知っていく時に、様々な負の要因が絡み合ってある時目に見える問題が発生することが分かります。問題行動を起こす本人一人の問題として片付けてもほとんど意味はありません。

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例えば虫歯が痛むので歯を一本抜いたとして、一時的には痛みから解放されても、歯を磨かない・甘い物ばかり食べるという生活習慣をそのままにすれば、また別の歯が痛み出すのは必然です。
悲惨なバス事故がしばらく前に起こりました。果たして運転手だけが、会社だけが悪いのか。その場所を取り除けば問題は解決するのでしょうか。私たちはあの事故に本当に無関係な存在なのでしょうか。
考えれば分かることですが、考えることができません。思考が停止してしまう、停止させてしまうのです。

悲惨な事件や痛ましい事故を見た時に、人間は受け止められない事柄から逃避しようとします。「本来こんなことが起こるはずは無い」と思いたくて、「たまたまそこにとんでもない人間がいて、とんでもない会社があってそれゆえに」と、特定の犯人に責任を全て負わせ、現実に起こっていることの悲しみ・痛みを回避ししようとする現実逃避です。それでは何の解決にもなりません。

事件・事故を見聞きして起こるもう一つのことは被害者に対する非難です。
例えば性犯罪とかセクハラなどが起こった時に、「被害者にも問題があった」という被害者非難という問題がしばしば起こります。
けれどもどうでしょうか。ケガをしてまだ傷も癒えない苦しみの渦中にある人に、「あなたにも問題がありましたね。あなたにも原因がありましたね」などと言うことがあり得るでしょうか。けれども、実際ハラスメントの被害にあった方の多くが、このような二次被害を経験します。
なぜ被害者を非難してしまうのか。加害者への短絡的な非難と原因は同じです。
受け止められないような出来事・事件に巻き込まれ苦しんでいる方がいると「本来こんなことは起こるはずが無い」と現実から逃避したくなるのです。もしこれが現実に起こりうることだと認めると、その人自身が不安に襲われ受け止めきれなくなってしまう。
そこで被害者の落ち度を見つけることの中で、「私にはこんなことは起こらない。普通はこんなことは無い」、そのように逃避しようとするのです。

ですから、しばしば被害者を非難するのが似たような境遇や共通点を持つ方であることが多いのです。教会が痛ましい事件の被害を受けた時に「あそこの教会はこんなことをしているから」と他の教会関係者が被害者を非難したり、援助者が被害を受けた時に「準備が足りないから。安易に関わり過ぎるから」などと似たような立場の人が被害者非難をしたり。
こういうことは正に、自分の身に同じようなことが起こるかもしれない、という恐れを回避するための逃避です。

虐待・家庭内暴力のようなことは私たちのごく身近にいくらでも起こっていることです。その中の本当に僅かな事件だけが報道で取り上げられる訳ですが、それは氷山の一角です。そして、悲惨な結果が報道されると「周囲の人間は何をしていた」「児童相談所は」「学校は」と、犯人探しが始まります。
一方で、捨て身になってそのような案件と日夜関わっておられる方々がたくさんおられます。そういう関わりにおいては、身の危険を感じるようなことが決して珍しくはありません。そして、そのような捨て身で関わってくださる援助者たちの地道な活動が、非常に深刻な問題を抱える家庭を何とか支えているというケースがたくさんあります。そういう援助者たちが、被害者非難のはけ口にされるようなことがあってはいけません。
自分を常に安全地帯に置きながら、加害者・被害者を非難するだけの無責任な態度は「百害あって一利なし」と言わざるを得ません。

もちろん何がしかの事件や事故が起こった時に検証は必要です。けれども検証されるべきは直接の加害者・被害者だけではなく、社会を構成する私たち一人一人が自分自身を省みるという姿勢を持ってなされるべきことであって、検証と称して自分を部外者のように振る舞いながらああだのこうだのと評論したり、詰まらないコメントをするような姿勢はやはり「百害あって一利なし」です。

受け止められない、信じられない、認めたくない様々なことが起こるこの時代、この社会の中で、逃避ではなく「これが私たちが作った社会の現実」「これが私たちが構成している社会の現実」であるという厳しい事実に正面から向き合いながら、何ができるのか、何をしなければいけないのか。「わたし」をその渦中において考えるべきではないでしょうか。
当事者としての悔い改めから始まる言葉・行動が求められているのです。

posted by pastoryama at 09:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 番外編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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