2015年03月05日

“誰が”と“何をするか”の関係

人というのは冷静に観察していると面白い気付きが色々あるもので、例えばある事柄について他の人が提案した時にはNOと言うけれど、自分が言い出した時には同じことがYESに変わるというようなこと、珍しくありません。

こういう癖がある人の行動には主に二つの要因が考えられます。
一つは、他者に対する不信感です。自分が主導権を握っていないと物事は上手くいかないという思い込み。
人は自分を傷つけたり、騙したりする。人に任せると失敗する。そういう他者への不信感が、事柄については賛成であっても他者が主導する事に対して無意識に反対したくなる感情を呼び起こします。
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留田の海水浴場近くにある宇佐美教会さんhttp://music.geocities.jp/hrncs784/で、毎週水曜日夜7時からの礼拝が始まったそうです!火曜夜は川奈聖書教会、水曜夜は宇佐美教会の夕礼拝(^^♪

もう一つの可能性は、そこで行われる事柄よりも、そのことを通して得られる副産物の方に関心が向いているというケースです。
例えば、何か良いプロジェクトを進めることになったとして、そのプロジェクトが成功することよりも、そこで自分が中心的な役割を果たすことの方に意味を見出している。
ですから、自分が主導出来ないのであれば、こんなプロジェクト失敗した方が良いという、そういう発想の人は「何をするか」よりも「誰が言うか」で意見が大きく変わります。

ひと昔前に流行ったでしょうか、「イエス・バット法」というコミュニケーションのテクニックがあります。
何かの交渉事において、相手の言葉に反論する時に全否定するのではなく、まず同意を示しながら、その上でNOの理由を述べていくと相手はこちらの考えを受け止めやすくなるという話し方のテクニックです。
確かに「あなたの意見には、こういう問題があるから絶対ダメです」と全否定されるのと、「なるほど。あなたのおっしゃることはもっともですね。ただ、こういう問題があるので残念ですが今は無理なのです」と部分的にでも共感が示された上で否定されることと、印象はかなり違うでしょう。

世の中というのは、多くの場合本質的な事とは違う場所に大きな影響を受けて動いていくもので、感情や印象や、そういう主観的なことが決定的な意味を持ってしまうことがしばしば起こります。
それは非常に面倒で不愉快なことでありますが、しかし物事の本質をしっかり見据えていると、主観に左右される世の中だからこそ動かしやすい面というのも見えてくるかもしれません。
副産物が欲しい人にはそれをあげたら良いのです。そのことによって、困難な事柄に実現の道筋が見えてくるかもしれません。

本当に大切な一つの物を見抜いている人は最強です。
プライドとか名誉とか功績とか、そういう副産物に見向きもせずに本当に大切な一つの物を見据えている人にとって、本質的ではないことに重きを置く人というのは案外動かしやすい人であるかもしれません。逆にこじれてしまう時というのは、こちらが本質的なこと以外にも関心を持ってしまっているからではないでしょうか。
「“誰が” “何をするか”」。この二つの面が結び合って世の中は動いています。そこで、「誰が」を人にあげてしまえる人というのは、それだけで大きな武器を手にしているのです。

川奈聖書教会はあなたの掛け替えの無い人生を応援しています!
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp


posted by pastoryama at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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