2014年07月04日

必要な助言とは

先月のことですが所属する教区の牧師会が川奈聖書教会で行われました。
20名くらいの牧師さんたちが集まって下さいました。色々審議などもあったりするのですが、厄介なのは会場教会の牧師が担当する説教演習。
大先輩から後輩さんまで様々な牧師を前に、その週の礼拝で語った説教を披露し批評してもらう時間です。
神学校で学んでいる時にはこの説教演習で毎回ズタボロに叱られて、最後は叱られ慣れてしまう程ですが...^^;、牧師になると中々そういう機会はありません。
ですから厄介ではありますがとっても貴重な機会。それぞれに心のこもった感想、気付きをまとめて下さって本当にありがたく思いました。

写真.JPG
一番上は見本。この下に20枚近く、様々な牧師さんから頂いた私の説教への助言がギッシリ書かれています(^^♪

自分を客観的に見つめ続けることは誰にも出来ません。
「自分は大丈夫。自分のことは自分が分かっている」と思っている方はすでに自分自身を正しく見つめる目を失っていると言って間違いないでしょう。
例えば様々な方の相談に乗るカウンセラーは必ず定期的に「スーパーパイズ」と言ってカウンセラーのためのカウンセリングを受けることが勧められます。
私が尊敬しお世話になったある分野において第一人者と呼ばれるカウンセラーの方は、今なお欠かさず定期的なスーパーパイズを受けておられます。
私自身も色々な方のご相談を受ける立場にあるからこそ、年に一度は必ず信頼する方のスーパーパイズを受けるようにしています。
人の意見、忠告、戒めを頂くことは決して楽しいものではありませんが、しかし絶対に必要です。

相談をお受けする時に、大きく分けて二つのタイプの方がおられます。
一つは客観的なアドバイスを得ることによってより良く生きていきたいと、耳の痛い言葉をも受け止めようと本気で助言を求めてこられる方。もう一つは、自分のしていること・やっていることをとにかく「それで良い」と肯定してもらいたい方
助言を求められたので良かれと思ってアドバイスしたら相手が不機嫌になった、という経験を皆さんお持ちだと思います。それはそもそも相手が助言を求めていたのではなく、ただ自分を肯定して欲しいだけだったのです。

助言とは字のごとく、“助けとなる言葉”です。例えば子どもが道路で遊んでいるのを見て「元気で良いね〜」と声をかけることと「道路で遊んではいけない!」と叱るのと、どちらが相手を生かす言葉か。助ける言葉か。それは明白です。
私たちは「あなたは正しい」「それで良い」と言ってくれる声を求めやすいものです。
でも、私たちが生きている場所が、私たちの生き方が道路の真ん中で遊んでいるような危険なものであったとして、「それで良いよ」と言ってくれる優しい人がいたとしてその言葉に愛はあるでしょうか。
そもそも、表面的に自分を肯定してくれる言葉だけを求める私たちは、自分自身を愛していると言えるのでしょうか?

聖書の中にこのような言葉があります。「戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道」
あなたが必要としている助言は、あなたの聞きたい言葉を発してくれる相手にではなく、あなたが聞きたくないと思っている相手の内にある言葉なのかもしれません。
無意識に避けてしまっている人、早くいなくなれば良いと思っている面倒な人、、、でもそういう人の存在が私たちの人生を守ってくれているということがしばしばあるのです。
そして、面倒なことを言われなくなってヤレヤレと思った所から私たちの人生は綻んでいくのです。
無責任な肯定の言葉ではなく、愛のある諭しの言葉を大切にするものでありたいと思います。

聖書は神様からの愛のメッセージ。慰めの言葉も戒めの言葉も、全てが私たちへの愛によって貫かれています。
聖書を通して神様からの助言を聞くことは、私たちの人生の歩みを確認する大切な機会になるものです。
ぜひ教会の礼拝に(^^)/ 日曜日午前10時半から12時 火曜日午後7時から8時
どなたでもお越しになることができます!

posted by pastoryama at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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