2013年08月17日

「わたし」について考える@

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私たちは普段「わたしとは??」何てことをあまり考えませんよね。けれども「わたし」を問うことはとても大切です。
先日教会員の浦島さんの教え子さんが作った詩を聞かせて頂きました。曖昧な記憶ですが「自分が生きていることが現実なのか...。もしかしてそれは夢ではないのか。自分が見ている物、感じていること、触れ合っている事柄が実は幻なのかもしれない」、こんな内容だったと思います。
私も小学生の頃こういうことを良く考えていました。「自分が生きていることが実は夢なのかもしれない。これが現実だとどのように証明できるのだろうか?」、こういう子どもの感性って凄く大切であるように思います。

私たちの感じること、考えることは「わたし」という自己によって決まっています。それは決して絶対的なものではありません。
例えば一切れのパンを見た時に、普段は何気なく見えるパンであっても、空腹の時に見たら凄く美味しそうに見えるでしょう。
特に意識したことの無かった異性が、自分の苦手なことを上手にこなしている姿を見たら急に心がときめく、なんていうことも起こるでしょう。
人間は常に「わたし」を中心に生きています。そして多くの場合関心を持つのは「わたし」が見たもの、「わたし」が感じ考えたことなのです。けれども、そのように見たり感じたりする「わたし」という存在そのものを問う機会は中々ありません。

例えば子育てをしているとしばしば体験することです。普段何気なく感じている子どもの行動が、忙しい時、余裕が無い時には腹立たしく感じられて思わず怒ってしまう。それは「わたし」が変化することで、子どもの行動についての見方・考え方・反応が変わってしまったということです。
もう少し別の例で考えてみましょう。○○恐怖症というのがあります。例えば私の父親は子どもの頃、桜の木から落っこちた経験があってそれ以来高所恐怖症です。つまり、木から落っこちた出来ごとによって「わたし」が傷ついたのです。ですから、傷ついた「わたし」はその後高い場所に行くと危険を感じるようになったのです。
高い場所が必ずしも危険な訳ではありません。ただ高い場所で傷ついたことがある「わたし」には、常に高い場所が危険に感じられるのです。

今日は「わたし」を問うことの意味をお話しして終わってしまいます。次回、この続きを考えていきましょう。
まず一つ知って頂きたいことは、「わたし」が感じたこと、思ったことを絶対化してはいけないということです。腹が立ったり、悲しくなったり、恐ろしくなったり、好きだと思ったり、そういう一つ一つの感情は、その時々の「わたし」によって生まれてくるものです。
「わたし」を怖がらせたり、怒らせたりする対象が悪いのか、それとも怖がったり怒ったりする理由や問題が「わたし」の中にあるのか、このことを冷静に慎重に考える必要があります。
人や状況を変えることではなく、傷ついた「わたし」に気がつくこと。疲れている「わたし」、悲しんでいる「わたし」に気が付き手当てすることで結果的に見えてくるもの、感じられることが変わってくるということはしばしば起こるものです。
ぜひこの機会に「わたし」に目を向けてみましょう!

牧師とお話しなさりたい方、川奈聖書教会に気軽に連絡下さい。
44-1728 Email kawanachurch@ybb.ne.jp


posted by pastoryama at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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