2017年08月12日

車線変更を繰り返さない子育て

夏休み、車で出かけると交通渋滞は避けられませんね。三車線くらいの道路で渋滞に合うと、なぜか隣の車線の方が早く進んでいるように見えるから不思議です。でもそう思って車線変更を繰り返して早く進める訳ではなく、実際には逆効果でしょう。別の車線に移るとまた別の車線の方が早く進むように見えてきて、そうやって車線変更を繰り返しながら自ら時間をロスしているようなもの。基本的には同じ車線をそのまま走るのが一番早いのではないでしょうか。

人生や子育ても同じです。何か物事がうまくいかない時、成果が上がらない時、私たちの目には他の車線が良く映ります。良い結果が出ないのは自分の走っている車線が悪いから。車線変更した方が良いのではないか、そうすれば違う結果が得られるのではないか、と考えてしまうのです。

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先日伊東の花火大会がありました。思わず写真撮ってしまいます。

ピアノの先生をしている友人が「最近の親御さんは、自分が願う様に子どもが成長しないと直ぐに先生を変えたがる」と話していました。心理士をしている友人も「最近の患者さんは、自分が願うペースで回復しないと直ぐに別のカウンセラーに移りたがる」と話していました。待つことが苦手なのは現代人の特徴かもしれません。
思う様にいかないことがあると受け止められず、原因を特定したくなります。「誰誰のせいで」「○○が原因で」、そう考えることで目の前の現実から逃避してしまうのです。
でもそういう生き方は渋滞の中の車線変更と同じ、多くの場合遠回りにしかなりません。今願う結果が出ていなかったとしても、その道に留まることが一番の近道であることは多いのではないでしょうか。

内村鑑三が自らの人生の転機になった出来事として、師であるシーリー教授のこのような言葉を書き残しています。
【あなたのしていることは、子どもが植木を鉢に植えてその成長を確かめたいと毎日土を掘り返し根っこを抜いているようなものだ。なぜ成長を神と日光に委ね、安心してあなたの成長を待たないのか】

それぞれが人生で咲かせる花には違いがあります。その大小にも違いはあるでしょう。でもそれはあまり問題ではありません。
私たちが花を観て「大きいから綺麗、小さいからつまらない」、そんな風に考えないのと同じ。子どもたちそれぞれがステキな花を咲かせてくれます。大小は問題ではありません。
でも親はわが子に大きな花を咲かせて欲しいと考えて、良かれと思って車線変更を繰り返させてしまうようなことがあります。そうやってせっかく咲くはずの種を傷つけ、すでに成長をはじめている根を痛めてしまうのです。
大切なことはその子らしく咲かせてあげること。そのために一番大切なことは、信じて待つこと。一人一人が素晴らしい花を咲かせる種を持っていて、それを成長させてくださる神様がいらっしゃることを、です。

私も自分の娘には、思い通りにいかない時に自分の足りない所・課題を率直に認めながら、しかし成果が出なくてもこれまで自分が頑張ってきたことを簡単に否定してはいけないこと。なかなか前に進めない時にも、なおそこに留まって努力することが人生の最短距離であると励まします。そう教えながら、これは子どもの問題である以上に親自身の課題だなと思います。
成長と共に親が子どものためにできるプラスのサポートはどんどん少なくなっていきます。良かれと思って行動しても裏目に出ることばかり。そういう中で親が子どものためにできる最大のサポートは、表面的に現れる出来事に左右されず確かに地中で根は成長していて、やがて咲く花は大小に関わらず素晴らしいものであると信じていること。そうやって成長させてくださる神様に信頼することです。

あなたの子育てを応援している、牧師の山口です。

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2017年07月24日

忖度という罠

「忖度(そんたく)」という言葉に注目が集まりました。辞書的には「他人の心をおしはかる」という意味ですが、特に最近は部下が上司の意向を推し量るというようなニュアンスで使われることが多いようです。

私たちの身近にも見られるのではないでしょうか。あからさまには自分の思いを明言せず、しかし関係性や影響力を用いて自分の希望していることを察するように促し人を誘導する手法。そうすることで自分は矢面に立たずに済み、問題が生じた時に責任を負う必要がない。「私はそんなことを言ってはいない。あの人が勝手にしたことでは無いか」と言い逃れるのです。

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 娘の運動会、ハチマキを締めなおす真剣な姿を友達に激写されてしまいました...

こういうことは様々な依存関係の中で頻繁にみられるものです。
例えば親子の関係の中で考えてみましょう。目に見えて虐待と言えるような出来事は起こっていないけれども、精神的・心理的に子どもを抑圧している親。あからさまに子どもに対して「こうしなさい」とは言いません。しかし子どもは親がどのような価値観を持っているか、それまでの関係性の中で叩き込まれていて、実際には親が望んでいる選択以外できないのです。けれども親は自分の意思を明言しません。あたかも子どもが自分で選択したかのように演出します。いつの間にか子どもも、自分が親の意思に誘導されていることが分からなくなり、自分の意志による選択であるかのように錯覚します。
そのようにして、親子双方が「子どもは自分の意思で選択しているのであって、親の強制など無い」と思い込みます。しかしそれは偽りです。
子どもがもし親の暗黙の意思に逆らうならば、親はあからさまにそのことを批判はしないかもしれません。しかし、顔色や態度・言動を通して暗に子どもにプレッシャーをかけるのです。そうやって、子どもの選択を暗に批判します。子どもは親無しに生きることができません。結局、従うしか選択肢は無いのです。
傍目には親が自分の意思を子どもに強制した証拠は何もありません。ただ、親子の関係性の中では明らかに親の子どもに対する強制は実態を持って存在しています。

こういうことが社会の様々な場面で見られます。何がしかの力を持っている人に繋がることで得られる恩恵の見返りとして、暗黙の了解が強制される、そういう共依存的な関係性。
もしそこで矛盾や過ちを指摘する人がいるならば、上に立つ人からも従属している人からも声を合わせて「そんなことは言っていない。そんな事実はない」と否定し攻撃を受けるでしょう。たいていそうなった場合、暗黙の了解の中で作られた偽りの世界の方が真実よりも遥かに強いものです。「暗黙の了解」において守られてきた世界の中に、絶対失うわけにはいかない何がしかが存在しているからです。

組織の中で、コミュニティーの中で、家庭の中で、もちろん教会においても、「王様は裸だ」と言える勇気を持つことは大切です。そして、その役割を誰か個人に求めるべきではありません。一人一人が「王様は裸だ」と言える誠実さを持つことと共に、誰でも「王様は裸だ」と言える風通しの良さ、寛容さを全体で死守していく意識が必要です。

このような歪んだ関係性に陥らないために意識すべきキーワードは「依存」です。上記した親子の例を考えると、子どもが親の不条理に従うのは生きていくためでした。生きるために子どもは親に従わざるを得ません。ですから、子どもは一方的な犠牲者です。
しかし大人の関係性においては違います。失いたくないなにか、どうしても手に入れたいなにか。それは人との繋がりであったり、仕事やポストであったり、名誉であったり、楽しみであったり、安心であったり、色々ですが、そういう自分の欲求を守るために、その代価として暗黙の了解・忖度の世界に陥ってしまうのです。

旧約聖書の偉人ヨブが言いました。「主は与え、主はとられる。主の御名は誉むべきかな」、与えられた物に感謝しつつ、しかし失うことを恐れない心。神様が与え、神様が取られるのであれば、神様がとられ、神様が与えてくださるのです。
何かを得るために、何かを失わないために、真実をゆがめることは止めましょう。失うことを恐れずに「王様は裸です」と言える姿勢、そしてそういう都合の悪い真実を受け止めていく柔らかな心を養っていきたいものです。何かを守るために暗黙の了解という悪魔の策略に心を売り渡し、素晴らしい人生を台無しにしてしまうことがありませんように。

あなたのたった一度の人生を応援している川奈聖書教会 牧師の山口です。

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2017年06月29日

問題を抱えながら生きること

生きていると様々な問題が起こるものです。牧師という職業柄、問題を抱えた方の相談を受けることが割と多くあります。相談するということは問題の解決を期待してお話しくださるわけですが、多くの場合、解決に繋がる具体的なアドバイスは中々見つからないのが現実です。

人間関係の問題、健康の問題、家庭・家族の問題、経済的な問題、皆さんの相談をお伺いする中で人生には本当に多くの問題があることに驚きます。実際私たちの人生の大部分にはこれらの何がしかの問題が常について回るものです。「あの問題が解決すれば」と思い悩んでいた課題がようやく解決したとして、しかしあっという間に新たな問題が生じるのが人生。
そうすると、もし仮に「問題を抱えている時には生活を楽しめない」とか、「問題の渦中では人生の喜びが感じられない」ということであれば、その人の人生の時間の大半は喜びの無いものになってしまうでしょう。

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私は犬好き。。。

猫好きで多頭飼いをしている友人が「1匹の猫が調子が悪くて辛そうにしている様子を見ていると自分も辛くてたまらない。でもそんな時に、ほかの猫たちの元気な姿に癒される」というようなことをおっしゃっていました。
もしかして薄情な言葉に感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれはとても大切なセンスだと思います。何かの問題の渦中にあると喜びも幸せも全てが感じられなくなってしまう、それでは人生の大切な時間の多くを無駄にしてしまいます。

大切なことは問題解決先行型にならないこと。問題を解決することに執着せず、問題を抱えながら生きる力を身につけることが重要です。
問題解決先行型の人は、一つの問題に意識も感情も集中してしまいます。一日中そのことばかりを考えてしまい、色々な喜びや楽しみが実際にはあるにもかかわらず、そのことによって生活の全てが問題に覆いつくされてしまいます。そうなることで、ますます問題を抱えることがしんどくなってしまったり、問題に対して感情的になってしまいます。

「問題が解決したらスッキリして色々なことが楽しめる」のではありません。問題を抱えながら生きる人生だからこそ、生活の中に喜びや感動が必要なのです。そして神様は問題の渦中においてこそ、恵み・喜びをたくさん用意してくださっているのです。
ですから1匹の猫ちゃんが調子を崩して辛そうな時、他の元気な猫ちゃんの姿を喜んで良いのです。喜ぶことで、調子を崩した猫ちゃんを支えていく力が生まれてくるのです。

私は家庭では基本的に仕事の話しや自分が抱えている問題について話題にしません(話すことが悪いという意味では無くあくまで私のスタイル)。でもそれは「仕事は仕事、家庭は家庭」と割り切っているということではありません。仕事上の様々な問題、また皆さんから相談頂いている色々な問題を、家庭にいる時にも始終考え悩んでいたら、結局私が問題に関わる力・問題を抱える力を失ってしまいます。
ですから「割り切る」ということではなく、自分の抱えている問題、また支えを必要としてくださっている方々の問題に向き合っていくためにも、家庭における恵み・喜びは常に大切にしていなければならないと思っています。

「問題の渦中でも、喜びや感動・楽しみはいつも与えられている」、このことが分かってくると、問題解決先行型の生き方から問題包容型の生き方に転向できるのではないでしょうか。
あなたのたった一度の人生を応援している川奈聖書教会 牧師の山口です!

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2017年05月29日

失敗を繰り返す人、失敗から成長できる人

聖書の中でイエス様が「口から出て来るものは、心から出て来る」と教えてくださいました。
私たちが生活の中で何か思いがけない失言をした時に「心にも無い事を言ってしまい...」などと言い訳をすることがあります。けれどもどうでしょうか。心にも無いことが突発的に口から出てくるのではありません。イエス様がおっしゃるとおり、普段隠している心の中の思いが何かの拍子に飛び出してしまうのです。

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恒例の川奈聖書教会チャペルコンサート、6月17日に開催です!フルート奏者、菅井春恵さんをお迎えします。ぜひぜひ足をお運びください。

生きていれば手痛い失敗は誰でもするものです。失敗からしか学べないことがたくさんあります。私もこれまでたくさん失敗をして、戒めていただき、許していただき、何とかここまで歩んでくることができました。そういう経験を通して段々注意力を身につけていくものですが、それでも失敗しやすいパターンというのはそれぞれにあるものです。言葉で失敗する人、感情的になって失敗する人、突っ走って失敗する人、色々です。
自分でも注意しているつもりなのですが、分かっていても失敗してしまう私たちの現実の中で、その失敗をどのように受け止めるのかが重要です。

例えば言葉で失敗した時に「心にも無いことを」と、うっかりミスや突発的な失敗と捉えて“これからはもっと注意深くすれば”と受け止めるなら恐らくその人はまた同じ失敗を犯すでしょう。失敗というのは心にあるものが出てきて起こるのです。失敗の原因となる要素がその人の内側にある以上、注意力では防ぎきれません。
ですから失敗した時に「思いがけず」と誤魔化すのではなく、犯した失敗を通して抱えている問題を直視し、原因となっている場所を手当てしていかなければ人間は何度でも同じ失敗を繰り返してしまうのです。

一例ですが、例えば失言の多い人というのは思想の問題もあるでしょうが、その場その場で相手に取り入ろうと過剰に喜ばせようとして言わなくて良いことまで言ってしまう、つまり相手に良く思われたいという思い。逆に言うと、このままの自分ではダメだという自己否定感の問題を抱えている可能性があります。
感情的になって失敗する人というのは、自分の思い通りに物事が進まない時に感情によって自分の望む結果を得ようとしてしまう。これは、子ども時代に怒ったり駄々をこねたり感情を表すことで親を思い通りに動かせた経験の多い人。また逆に、親が非常に感情的で理屈ではなく感情で従わされる経験が多かった方。そういう所からの問題を抱えていることも考えられます。

いずれにしても、放っておけばどんなに気をつけても同じ失敗を繰り返してしまいます。逆に繰り返しやすい失敗を通して、自分の抱えている問題や痛みに気が付くこともできるのです。
「心にもないことを」と誤魔化さず、心から出てきた言葉として向き合っていくと、失敗を通して私たちは成長することができるのです。

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2017年02月20日

本物と偽物 〜[物]について〜

伊豆半島・伊東での生活がもうすぐ15年目に入ります。信じられないスピードです。次の日曜日、私たちの教会は創立29周年を迎えます。いつの間にか、教会の歴史の半分の時間を牧師として歩ませていただいたことになります。本当にありがたいことです。

縁もゆかりもなかった伊東で生活してたくさんのことを教えられました。伊豆半島・伊東と言えばやはり豊かな自然です。そういう場所で生活をしているからこそでしょう、「物」についての気づきが多くあります。
性格的に割とあっさり系なので、物に執着するというのがあまりありません。唯一の例外が楽器ですが、まぁこれは実用を兼ねているので…。
でも最近は良い意味で物の価値というのを感じるようになりました。友人たちのおかげです。

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私たち家族は教会の近くにある築30年くらいの家に住んでいます。十分すぎる住まいで感謝していますが、ただ年季が入っているのでちょっとしたことで手入れをする必要が生じます。
玄関のドアノブが硬めで滑りやすい感じがありました。川奈は風が強い地域で、娘たちが楽器をやっていることもあり、いつかドアに指を挟むのではないかと心配していました。ただ、玄関ドアを換えるのは物凄いお金がかかるので、ドアノブをレバー式に交換できないかと思い、内装の専門家の友人に相談したところ直ぐに引き受けてくださりそれはそれは細部に至るまで丁寧な仕事をしてくださって、安全なレバー式のドアにしていただきました。
また、古くなった浴槽の表面に細かな傷がついてきて汚れが付着して落ちなくなってしまいました。どうしようかと考えていたところ、塗装職人の友人が特殊な塗料でピカピカの浴槽にしてくれました。

そうやって友人たちが手を入れてくれた物は、ただのドア・ただのお風呂ではなくなります。友人たちの思いが「物」を通してそこに伝わり・残り、掛け替えのない「物」に換わるのです。私にとってはこれが「本物」です。

弦楽器は長く弾き続けると段々ネックと楽器の継ぎ目が劣化してきて最終的にはネックを交換する他無くなります。「継ぎネック」と呼ばれるネックの交換は技術的に難しいですし、それゆえ修理費用も高額になります。ですから、ネックがダメになったら寿命と諦めてその楽器の役割はお終いとすることが多いようです。
ですから逆に、継ぎネックをしてある古いヴァイオリンというのは、手間とお金をかけて修理してでも使い続けたい・受け継いでいきたいと大切にされた楽器であるわけです。
継ぎネックの痕というのは言ってみればただの故障痕・修理痕です。けれども、その修理が困難であるだけに、そうまでして大切にされてきたヴァイオリンであるという勲章になりますし、その修理跡を通して感じ取ることができるそのヴァイオリンに関わった人たちの思いがあり、そこに物の価値が現れるのです。

人は人格的な神様によって創られたゆえに人格的な存在です。ロボットとは違います。ですから、人の価値は「できる・できない」ではなく、人をお創りになられた神様の心の中に現れるものです。
人間はそういう性質を持っているがゆえに、高い物・便利な物・かっこうの良い物を得ることによってではなく、人格的な繋がりや交わりを物を通して感じ取る時に幸せを体験できるし、豊かさを感じることができるのです。

物があふれる時代、安く大量に物を手に入れられる時代。でもそこにある「物」の多くは「偽物」なのかもしれません。沢山のものはいりません。1つでも2つでも「本物」に触れる機会があったら、私たちの生活は今よりずっと豊かになるのではないでしょうか。神様と伊豆の友人たちに、豊かに生きることを教えてもらっています。

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2016年12月31日

終わりっぱなしにしない生き方

もう何年も前のこと、地域のとある問題に関わることになり、教会のメンバーや地域の友人たちに協力してもらいそのことに向き合いました。
私自身が直接的な当事者では無かったのですが、とはいえ放置できない事柄であったので我が事のように関わり膨大な時間と労力を使い、奇跡的に素晴らしい結果を得ることができました。しかし良い結果が出た後に、私の目には許容できない事柄が散見されるようになり、結局きっぱりその事柄から手を引きました。
私のみならず友人たちにも多大な犠牲を払って関わってもらったことであっただけに、あやふやにすることはできないと判断してのことです。その時点で、もうそのこととは一切関わらないつもりでおりました。

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川奈聖書教会の元旦礼拝、午前10時半から執り行います。新年を教会で!どなたでもお越しください。

お人好しに見られることもありますが、私の父親は【頑固一徹九州男児】でして、どうも私にもそういうセンサーがあるようです。不誠実なことをする人や集団にはバッサリいきますし、許容できない事柄については断固拒否する頑固な性格です。
この件については価値感の違いの問題ではあったのですが、私たちの思いを軽んじられたと感じましたので今後一切関わらないつもりでハッキリとその旨を当事者側に伝えて退きました。

普通なら、あれだけキッパリ手を切った人には近づかないのが普通だろうと思いますし、誰も近づきたくはありません。
しかし数日後、当事者側の高齢の男性が私の所を訪ねてこられました。私を引きとめるというのではなく、“ここまで協力してもらったことでこのような成果を得ることができた”と協力の感謝。そして意にそぐわないことになったお詫びを伝えにこられたのでした。
ある分野で日本を代表するような方でしたが、〜だからこそと言うべきでしょうか〜、関係は終わってしまったのですが、それでも終わりっぱなしにしない。ちゃんと終わりを整えていかれる姿勢に、大切なことを教えられました。

それから更に数日後、今度はやはり当事者側の高齢の女性が雨の中和服を来て教会まで徒歩で突然お見えになりました。その方もやはり、私を引き留めるとか弁明のためではなく、これまでの協力への感謝とこちらの意に沿えなかったことのお詫びを伝えにきてくださいました。
私の心は完全に閉ざされていたのですが、それでも母親よりも更に1世代上の方が雨の中歩いて挨拶に来られて無下に追い返すようなことは人としてできません。結論は変わりませんが、しかしわざわざ訪ねてきてくださったことを感謝し祝福を祈って別れました。やはり、終わりを整える姿勢、終わりっぱなしにしない姿勢に教えられる経験でした。

それから随分時が経ち、今もその方々とは関わりがありますし、外からではありますが無理のない範囲でサポートさせて頂くことがあります。2人の人生の大先輩から大切なことを教えて頂いた経験でした。

先を見ること、将来に繋いでいくことの大切さをご高齢の方から教えられた印象的なエピソードです。
現代人は何でも使い捨て。人間関係も使い捨てです。使えると思う人間関係があると必死にアピールしてきますし、思い通りいかないと一転メール一本の挨拶も無く放りっぱなし。しばらく経って、何事も無かったようにまた自分の都合で現れて...、そういうことが非常に多いように思います。今のことしか考えられない、自分のことしか、目先のことしか考えられないからでしょう。
これからまだ何十年と生きる可能性がある人が先のことを考えられず、今を使い捨てにしてしまう一方で、それ程長くは生きられない高齢の方が先を見ている。将来に繋げることを考えている。皮肉なようですが、しかし人生経験を通しての知恵だと思います。

「もう終わり」「もうイイや」と思えるようなことが起こりますが、しかし多くのことは続いていきます。繋がっていくし、繋げていかなければいけません。だから終わり方は大切なのです。
例えその時には道が閉ざされたとしても、道路工事を途中で放り出すようなことをしたら、やがて工事を再開するチャンスが巡ってきたとしても誰も協力はしてくれません。

もう直ぐ年が変わります。今年のことはきっぱり忘れて、新しいスタート。それも悪くはありませんが、今年あった色々なことを投げ出さず新しい年に繋げていくことも考えて頂きたいと思います。
何か直ぐに成果を出したり、形にする必要はありません。でも、捨ててしまわない、忘れてしまわない。いつか意味をもつかもしれない。いつか繋がるかもしれない。その時に「あぁ、ちゃんと整理しておけばよかった」ということにならないように、終わりを整え繋がっていく年越しになりますように。「終わりっぱなしにしない生き方」で新しい年を迎えてくださったら、2017年に充実した歩みができるのではないでしょうか。
神様の祝福をお祈り申し上げます。

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2016年10月11日

成長は階段状に

人の成長は「上り坂」ではなく「階段状」であると言われます。
子どもたちの成長を見ていると良く分かります。ある日突然できなかったことができるようになるのです。
親は「家の子は全然成長していないのではないか。何か問題があるのではない。子育てが間違っているのではないか」などと不安になるのですが、親の心配をよそにある日パッとできなかったことができるようになる。子どもの成長はスゴイです。

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次の日曜日はユーオーディアの演奏者を迎えての賛美礼拝。午前10時半〜 気軽にお越しください

これは私たち大人にも当てはまることです。成長が毎日少しずつ現れるものではなく、階段状に現れていくのであれば、成長していくために次のステップにあがるまでの踊り場を進む期間がどうしても必要なのです。
踊り場の期間には自分が何も変わっていない、何も成長していない、このままではダメなのではないかと不安になるものです。それでもコツコツと日々なすべきことを地道に積み上げられる人が伸びる人だと思います。

残念なことに待つことが苦手な人が現代はとても多いように思います。踊り場期間がちょっと続くともうイライラして「何か間違っているのではないか、環境を変えた方が良いのではないか」と別の手段や方法を求めてしまい、結局次のステップにたどり着くことができません。
手軽に情報が集められる時代なだけに、あれやこれやと情報を集め振り回され、堂々巡りになってしまうのです。

植物を植えた時に、本当に根付いているのかと不安になって土を掘り返して根っこの状態を確認していたらどうでしょうか。せっかく根を伸ばしていたとしても、掘り返し確認する作業でかえって根を痛めてしまい振り出しに戻るでしょう。同じことです。
先に根が伸びその後で芽が出てくるように、目に見える成長には少し時間がかかります。けれども、成長が階段状であるということは、踊り場期間もまた大事な成長の一部分でありそのプロセスは欠かせないものなのです。そこで忍耐し地道に続けられるかどうかは、何がしかに対する才能のある無しよりも遥かに物事の成功の是非に影響を及ぼします。

上記のことを子育てに適応させてみましょう。
思春期の子どもさんの問題が切羽詰まって感じられるのは、親御さんの当然の思いです。ただ、だからと言って根っこの状態が心配で土を掘り返すような作業をしていると問題はかえって長引いてしまいます。
引きこもっていたお子さんがある日突然やる気を出す、そういうタイミングがあります。もっと早くやる気になってくれれば、と大人は思うのですが、多分引きこもり閉じこもっていた時間も子どもには意味があったのだと思います。引きこもっている時からすでに根っこは成長をはじめ、養分を吸収しだし、そうやって発芽に備えてパワーを貯めているのです。
その時に「芽が出ない」と土を掘り返し、苗を植え替えるような作業をしてしまってはいけません。

お子さんに対して、自分自身に対して、もう少し待ってあげること。忍耐してあげること。それで変わることがたくさんあるのです。
あなたの掛け替えのない人生を応援する川奈聖書教会 牧師の山口です。

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2016年06月19日

上の子を愛せないあなたへ

今日は複数っ子の子育てについてご一緒に考えたいと思います。
私は2人兄弟の次男として育ちました。愛知で教員をしている2歳上の兄がいます。男兄弟なのでべたべたすることは無くてもコツコツ真面目に頑張る兄を尊敬していますが、それ以上兄との関係性について深く考えることはありませんでした。
しかし自分が親になり2人の子どもを育てる中で、上の子と下の子の違いに気付かされることが多くあり、私自身の兄弟関係について改めて考察する機会にもなっています。

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この時期は犬連れて山に入ると帰ってお風呂入れなければいけなくなるので、最近は川奈港がお気に入りの散歩コースです

言うまでも無く上の子というのは常に親にとって新しいことの連続です。オムツを替えるのもおっぱいをあげるのも、幼稚園や小学校に通うのも、子どもだけでなく親にとって全てが初めて。当然親も緊張しますし、神経質になったり時に過敏・過剰になったりと、1人目の子育ては本当に大変です。それに比べれば、ほとんどすべてのことが経験済みの2人目の子育ては余裕があります(あくまで比較の話しです)。
子ども自身も、下の子は幼稚園に通うお姉ちゃんの送り迎えで幼稚園に行き、小学校の授業参観についていって学校の様子を知り、そうやってこれから自分が進んでいく場所を先に把握することができますから余裕が違います。
子育てをしてみて、下の子が上の子のゆえに得られる恩恵がたくさんあることに驚きます。弟の私も「親子の初めて」を体験してくれた兄のおかげで随分助けられたのだろうと思い今は感謝をしています。

そうやって兄弟の中でパイオニアとして初めての課題に向き合っていく上の子独特の強さがある一方、子育ての相談の中で非常に多いお母さんの悩みとして「下の子が可愛い。上の子を愛せない」という訴えをしばしばうかがいます。
ぜひ知っていただきたいことは「下の子が可愛い、上の子を愛せない」という感覚はごく一般的なことですし、そう感じたり思ってしまうこと自体は理由があることで親としての愛の欠如や欠陥を意味するようなことではありません。ただ、放っておくと色々と深刻化してしまいやすい課題ですから、放置したり正当化せずに早めに対処なさることをお勧めします。

上記のような感覚を親が持つことの理由ははっきりしています。あまり長くなってもいけないので、以下簡単に2点を指摘します。

【下の子が上の子に比べると育てやすい、と感じる】⇒それは、子どもの資質の問題ではありません。最初のお子さんを育てるのは本当に大変なことです。自分で思っている以上に、あなたは第1子の子育てを頑張り懸命にお子さんをお育てになったのです。そして、その頑張りは身も心もすり減らすような痛みを伴うものであったのでしょう。
一方、2人目のお子さんは最初の経験がありますから以前より楽に子育てができます。「良かった、良かった」となりそうなものですが、そこでお母さんの中に最初のお子さんを育てた時の痛みや苦しみが残っていると、2人目は可愛い。それに比べて1人目は、、、と無意識に怒りや悲しみを第1子に転嫁するということが起こってしまいます。
かなりお子さんが大きくなっても「上の子を抱きしめられない」とか「上の子にカッとしてしまう」などの悩みを抱え続けておられるお母さんがいらっしゃいます。
でも、あなたが本当に1人目のお子さんを愛していないわけではありません。そればかりかこういう感情を持たれる方は、1人目のお子さんを人一倍必死に愛されたお母さんです。それゆえの傷が問題になっているのです。ご自分を責めないでください。

【性格的に下の子の方が素直で可愛い、と感じる】⇒繰り返しになりますが、一人目の子育ては初めての連続なので親はどうしても神経質&過敏になってしまいます。私自身もそうでした。1人育ててみると「そんなに心配いらないのだな」と分かり、2人目は良い意味で力を抜いて子育てができます。そうすると、往々にして子どもも大らかで素直な性格に育つ傾向があるようです。
一方、親が神経質な中で育てたお子さんは性格的にこだわりが強く、頑固で融通が利かないという傾向が見られるようです。それは子どもの資質の問題ではありません。その第一子の性格は、正に経験の無い親が必死に子どもを守り育てようと思って几帳面に育てた結果構成される人格で、私はそういう1人目のお子さんが持ちやすい特質はマイナスと決めつける必要はないと考えています。
お世辞にも順調とは言い難い1人目の子育てであったかもしれませんが、神経質になりすぎてしまったところも子どもを愛するがゆえに起こったこと。適切な関わりを続ける中で、第一子の特質は強みになっていくものです。頑固や自己主張の強さにイラッとする時には、そのお子さんの子育ての中で無我夢中で頑張っていた時のご自分を肯定的に思い出してみてください。お子さんの姿が少し違って見えてくるかもしれません。

「下の子が可愛い、上の子を愛せない」という感情に苦しんでいるお母さんへのアドバイスは、自分を責めないこと。自分を正当化しないこと。自分の内側にため込まないことです。
もうお分かり頂けたと思いますが、上の子を愛せないという感情はお子さんの資質の問題ではなく、第一子の子育ての中でお母さん自身が体験した苦労や残ってしまった傷・痛みに起因するもので、大切なことはその傷をケアすることです。
痛みや傷は他のことに転嫁しても癒されることがないばかりか、状況は更に深刻になっていきます。まずはあなた自身が抱えておられる痛みに寄り添っていく機会をもってください。
信頼できる友人や援助者に話しても良いですし、同じ経験をされたお母さんと話してみるのも良いかもしれません。もちろん教会にご相談いただくことができます。
あなたがダメな母親なのではありません。ただ少しケアが必要なのかもしれませんね。
大丈夫です。愛するがゆえに経験した痛みや傷は、適切に関わることで必ずプラスに変えられていきます。
あなたの子育てを応援する川奈聖書教会牧師の山口です。

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2016年06月01日

AIにない人の魅力とは(将棋名人戦の感想から)

羽生名人敗れ、佐藤天彦新名人が誕生しました。天彦8段の4勝1敗ですから結果だけでいえば完勝、完敗です。
別に将棋を指す訳では無くルールが分かる程度ですが、解説付きで見ていると信じられない程に先の手を読み合っている棋士の様子が面白く、観戦するのは好きです。
今回の名人戦は今とにかく勝ちまっくている20代の天彦挑戦者と40代半ばでなお絶対王者の羽生さんの戦いということで関心がありました。名人戦は1回の対局が2日がかりで4勝した方が勝ちという長丁場ですからもちろん全部を見ることは不可能ですが、時間のある時にニコニコ生動画を覗いたりyoutubeにアップされている動画を見たりして推移を見守っていました。

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天彦8段が圧倒的な強さを見せたのは誰の目にも明らかですが、そんな中でニコニコ動画の画面に次々表示されていく視聴者のコメントに世相のようなものを感じました。
「羽生衰えた。羽生の時代終了。世代交代」、劣勢の羽生さんの姿を見てもはや「羽生に見る所無し」と言わんばかりの言葉が数え切れず表示されていました。
確かに40代半ばの羽生さんですから、後になってこの名人戦が世代交代のターニングポイントだったと言われる可能性はあるでしょう。ただ、ある程度年齢を重ねた人が若い人に負けると「彼の時代は終わり。衰えた。時代遅れ」と短絡的・表面的な評価しかされない価値観の薄っぺらさに違和感を覚えるのです。

特に3戦目・4戦目は私のようなど素人の目にも、終始羽生さん劣勢で厳しい展開でした。プロの棋士の方に言わせると一日目の形で、もう勝負ありと見えるような状況だったようです。
経験豊かなプロ棋士たちが軒並み「勝ち目なし」と見ている中、しかし羽生さん粘りました。そして終盤に飛び出した「八八歩」の一手は、対戦者の天彦八段も観戦しているプロ棋士たちをも呻らせる予想だにしない手だったようです。大逆転とまではいきませんでしたが、2日目朝の時点で「羽生完敗」と思われていた将棋を夜まで指し繋ぎ、最後の最後で「まさか」と思わせる山場を作って見せた羽生さんの執念に感動しました。

以前、精神科医の工藤信夫先生の勉強会で先生が「ベテランの精神科医より若手の医師の方が良いケースがある。ベテラン医師は自分の経験の中で患者さんの回復の可能性を早い段階で見切ってしまう所があるが、若手は経験が無いので“何とかできないか”と無理と思えるケースでも頑張り、思いもよらない結果を出すことがある」、そんなことをおっしゃっておられました。
様々な職業でそういう面があるかもしれません。私はまだ牧師歴13年の新米ですが、それでも僅かな経験の中で下手をすると「これはこの程度だろう」と見切ってしまう危うさを覚えます。
プロ棋士が軒並み「望みなし」と言っている以上そういう展開だったのでしょう。それでも何かあるのではと信じて考え続け、誰も見つけられなかった「何か」を示して見せたその姿に感銘を受けました。
経験ゆえに状況を見切って捨ててしまうのではなく、経験ゆえに望みを繋ぎつつ可能性を追求する姿勢。私もそのようでありたいと思います。

将棋は勝負事ですが、見る側の楽しみは勝ち負けだけではありません。
それこそ勝ち負けだけで言うならば、今や最強棋士は羽生さんでも天彦さんでも無くAI(人工知能)です。もう将棋におけるAIの人間に対する優位性ははっきりしました。だから最強のAIの将棋が面白いかと言えばそんなことは無いわけです。
努力・勉強し、失敗やミスを犯し、心が折れそうな時があり、それでも可能性を追求し続け、時に勝ち、時に敗れ、衰えた能力を別の場所でカバーし、経験を若さが打ち破り、若さを経験が打ち破り、そういう人間の営みが一つの事柄の中に現れるから魅力があるのです。

結果などの表面的な事柄しか評価できない価値観の中では、人の活動領域はどんどんAIに取って代わられていくでしょう。結局、表面的な価値観は人間自身の存在意義を失わせるものです。
「損か得か、勝つか負けるか、上か下か、早いか遅いか」、そういう表面的なものよりももっと奥行きがあり豊かな価値観・感性を身につけていきたいものです。

人が生きている、生かされていることの意味を人間自身が棄損するような時代の中で、人が人であることの失われ無い意味や価値を聖書は教えてくれています。
「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」聖書


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2016年05月23日

承認欲求を満たすための禁じ手

先日、ブログに関する興味深い文章を読みました。ブログが普及しだした当初、ブログが書かれるのは自分の文章を手軽に不特定多数に著せること。そして、その文章に関心のある方のレスポンスを得たり情報交換ができること。そのように、文章を書きまた読まれることの素朴な喜びだった。
やがて、SNSの台頭によりブログにもいわゆる「イイネ」のような機能が備わったり、アクセス数を競わせるようなことが盛んになり、そうやってブログへの評価を数値化することで承認欲求が得られるツールになっていった。
やがて書き手が「イイネ」をもらうだけでは満足できないと感じるようになったところで、今度はアフィリエイトと呼ばれるブログでお金が得られる機能が付加されるようになり今に至っているという分析でした。
確かに当たっているところが多いのではないでしょうか。

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億劫なこともありますが、愛犬チャペル君のおかげで毎朝小室山や川奈港など豊かな自然の中をお祈りしながらのんびり歩くことができます。地に足をつけて歩んでいくために大切な時間です。

私がお仕えるする川奈聖書教会の初代牧師は某女子大の元教授さんでした。学者さんだったこともあり、自らがお書きになる文章に驚くほど慎重でした。思い込みで書いて間違いが無いようにと、丁寧に専門書を確認する作業を徹底しておられましたし、裏付けが十分にできない事柄を希望的観測でお書きになるようなことを厳に戒めておられました。
そうやって文章をお書きになるので当然びっくりするような話しは出てきません。どちらかと言えば先生のお書きになる文章は地味な内容が多かったのですが、しかしその分「あの先生の書かれたことに間違いはない」という信頼を得ておられました。
現代は「当たるも当たらぬも八卦」のような内容でも、とにかく関心が集まれば良いとばかりに何の裏付けもない文章が氾濫しています。

人間には多かれ少なかれ承認欲求と呼ばれるものがあります。極単純化すると、自分が生きていることの意味や価値を認めて欲しい、承認してほしいという欲求です。
そのような欲求を抱えているということは、裏を返せば私たちは自分の存在に対する不安感を常に抱えているということです。そういう私たちが日常の一コマを「イイネ」と評価してくれる人に出会える、自分が学んだり考えたことを文章にしたときに、それを評価してくれる人がいるというのはステキなことだと思います。
ただ、人間は現状維持で満足できない依存症的弱さを抱えているもので、ブログがやがてお金の対価を生み出す機能を持たなければ使われなくなっていったように、「もっと評価されたい、もっと理解されたい、もっとご褒美が欲しい」と承認欲求はエスカレートしてしまいます。

自然体の自分を5人の人が「イイネ」と言ってくれることの喜びが、やがてちょっと背伸びした自分が10人に「イイネ」と言ってもらうことの願望に変わり、やがて別人のような自分が20人に「イイネ」と言ってもらうことの欲求に変わってしまいます。
しかし偽りの自分に向けられる承認は、真実の自分の承認欲求を満たさないばかりか、むしろ真実の自分の否定になってしまいます。現実から離れ自分を装うことで評価されればされるほど、置いてきぼりされる現実の自分が否定感・拒絶感を覚えるのは道理と言えるでしょう。
ですからネットだけではなく、様々な事柄において現実の自分とかい離した自分が生まれてこないように気を付けていないと、評価されればされるほどに自分を傷つけてしまい、傷つくがゆえに更に人の評価を求めて自分を演じる、という悪循環に陥ってしまいます。

承認欲求を抱えた自分、存在に対する不安を抱えた自分であるからこそ、別の自分を演じるような禁じ手を犯さないように気を付けましょう。
人を惹きつけるための偽りの自分を100人が評価してくれるより、欠点があり失敗の多い自分が精一杯生きている、その姿を応援してくれる1人の評価があなたには必要です。

川奈聖書教会は、私たちのありのままの姿を知って愛してくださる神様をあなたに紹介します。

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2016年02月19日

被害者を非難してはいけません

凶悪な事件や犯罪・事故が起こると直ぐさま「そんな奴死刑にしろ」「生きている意味は無い」「殺せ」と、あたかも犯罪者を抹殺すれば問題が解決すると錯覚しているような、短絡的な声があがります。
何がしかの問題に関わり状況を深く知っていく時に、様々な負の要因が絡み合ってある時目に見える問題が発生することが分かります。問題行動を起こす本人一人の問題として片付けてもほとんど意味はありません。

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川奈聖書教会では教育相談室を設置してあなたの子育てを応援しています!気軽に連絡ください。44-1728

例えば虫歯が痛むので歯を一本抜いたとして、一時的には痛みから解放されても、歯を磨かない・甘い物ばかり食べるという生活習慣をそのままにすれば、また別の歯が痛み出すのは必然です。
悲惨なバス事故がしばらく前に起こりました。果たして運転手だけが、会社だけが悪いのか。その場所を取り除けば問題は解決するのでしょうか。私たちはあの事故に本当に無関係な存在なのでしょうか。
考えれば分かることですが、考えることができません。思考が停止してしまう、停止させてしまうのです。

悲惨な事件や痛ましい事故を見た時に、人間は受け止められない事柄から逃避しようとします。「本来こんなことが起こるはずは無い」と思いたくて、「たまたまそこにとんでもない人間がいて、とんでもない会社があってそれゆえに」と、特定の犯人に責任を全て負わせ、現実に起こっていることの悲しみ・痛みを回避ししようとする現実逃避です。それでは何の解決にもなりません。

事件・事故を見聞きして起こるもう一つのことは被害者に対する非難です。
例えば性犯罪とかセクハラなどが起こった時に、「被害者にも問題があった」という被害者非難という問題がしばしば起こります。
けれどもどうでしょうか。ケガをしてまだ傷も癒えない苦しみの渦中にある人に、「あなたにも問題がありましたね。あなたにも原因がありましたね」などと言うことがあり得るでしょうか。けれども、実際ハラスメントの被害にあった方の多くが、このような二次被害を経験します。
なぜ被害者を非難してしまうのか。加害者への短絡的な非難と原因は同じです。
受け止められないような出来事・事件に巻き込まれ苦しんでいる方がいると「本来こんなことは起こるはずが無い」と現実から逃避したくなるのです。もしこれが現実に起こりうることだと認めると、その人自身が不安に襲われ受け止めきれなくなってしまう。
そこで被害者の落ち度を見つけることの中で、「私にはこんなことは起こらない。普通はこんなことは無い」、そのように逃避しようとするのです。

ですから、しばしば被害者を非難するのが似たような境遇や共通点を持つ方であることが多いのです。教会が痛ましい事件の被害を受けた時に「あそこの教会はこんなことをしているから」と他の教会関係者が被害者を非難したり、援助者が被害を受けた時に「準備が足りないから。安易に関わり過ぎるから」などと似たような立場の人が被害者非難をしたり。
こういうことは正に、自分の身に同じようなことが起こるかもしれない、という恐れを回避するための逃避です。

虐待・家庭内暴力のようなことは私たちのごく身近にいくらでも起こっていることです。その中の本当に僅かな事件だけが報道で取り上げられる訳ですが、それは氷山の一角です。そして、悲惨な結果が報道されると「周囲の人間は何をしていた」「児童相談所は」「学校は」と、犯人探しが始まります。
一方で、捨て身になってそのような案件と日夜関わっておられる方々がたくさんおられます。そういう関わりにおいては、身の危険を感じるようなことが決して珍しくはありません。そして、そのような捨て身で関わってくださる援助者たちの地道な活動が、非常に深刻な問題を抱える家庭を何とか支えているというケースがたくさんあります。そういう援助者たちが、被害者非難のはけ口にされるようなことがあってはいけません。
自分を常に安全地帯に置きながら、加害者・被害者を非難するだけの無責任な態度は「百害あって一利なし」と言わざるを得ません。

もちろん何がしかの事件や事故が起こった時に検証は必要です。けれども検証されるべきは直接の加害者・被害者だけではなく、社会を構成する私たち一人一人が自分自身を省みるという姿勢を持ってなされるべきことであって、検証と称して自分を部外者のように振る舞いながらああだのこうだのと評論したり、詰まらないコメントをするような姿勢はやはり「百害あって一利なし」です。

受け止められない、信じられない、認めたくない様々なことが起こるこの時代、この社会の中で、逃避ではなく「これが私たちが作った社会の現実」「これが私たちが構成している社会の現実」であるという厳しい事実に正面から向き合いながら、何ができるのか、何をしなければいけないのか。「わたし」をその渦中において考えるべきではないでしょうか。
当事者としての悔い改めから始まる言葉・行動が求められているのです。

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2016年02月04日

「悪者を必要としている“私”」という落とし穴

悪口の心理とはなんでしょうか。誰かの悪口で盛り上がっている時に、私たちは無意識に「彼らのようではない私」という図式での自己肯定を喜んでいるのです。
敵を作ったり、悪者を作ることで自分を肯定しようとする手法に私たちは容易に取り込まれてしまいます。しかしそこには何も良い物はうまれません。

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いよいよ2月8日(月)から中高生対象の英会話教室始まります!まだ間に合いますよ〜。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/tirashi4.index.html

「誰それのようではない私」「悪者と戦う私」という心理は、自分を肯定するのにもっとも容易な手法と言えるかもしれません。しかし良く考えると、そこで「私」が何者であるかは何も説明されてはいません。
そればかりか、何がしかを否定したり非難することで自分の存在価値を確認したり自分を肯定しようとする生き方の中で、その人は常に敵を必要とし、悪者を必要としてしまいます。
否定したり非難する相手がいなければ、自己を肯定することも、自分の価値を確認することも出来なくなってしまうからです。

こうした、対立構造の中に自己肯定を見出そうとする心理には、共依存との共通性が認められます。
共依存は「必要とされることの必要」という少々ややこしい言葉で説明されます。自分の存在に自信が無い人は、誰かから必要とされることを求めるのです。
例えばアルコール依存症で問題行動ばかり起こしているダメ夫を甲斐甲斐しく支えている妻の内に、共依存的な問題が認められることがあります。

一見すると、ダメ夫を寛容な心で支え続けている愛に溢れた妻のように見えますが、実は自分がいなければ生きられないダメ夫を支えることを通して妻は自分の存在価値を確認しているのかもしれません。
そうした時に、もし夫がアルコール依存症を脱して自立的な生活を始めたらどうでしょうか。妻は喜ぶどころか困ってしまいます。
自分が居なくても生きられる夫では、妻は自分の存在価値を確認出来なくなってしまいます。ですから妻にはダメ夫が必要なのです。これが「必要とされることの必要」、共依存です。
このように考えていった時に、実は夫の問題行動を必要としている妻が、夫の問題行動を支えてしまっているという新しい構図が見えてくるのです。

「戦争グループ」と「平和グループ」という対立構造があったとして、「平和グループ」に属する人が「戦争グループ」という敵を必要としているならば、その「平和グループ」は平和を生み出すことはできません。いやむしろ、「平和グループ」が「戦争グループ」を支えているとも言えるでしょう。

敵や悪者、問題・対立を必要としている人が、平和や和解・正義を振りかざしてもそれはまやかしに過ぎません。掲げている看板だけでは見えない真実を見抜く目が必要です。
まず私たちは、否定する誰かを必要とし、それゆえに表向き平和を求めながら結果として対立を生み出し、対立を支えてしまう者であることを認めるところから始めなければなりません。
他者を否定すること無しに語ることのできる「私」を獲得することが必要なのです。

聖書は「神に愛され、生かされている私」という揺るがない「私」を語る言葉を与えてくれています。
たった一度のあなたの掛け替えの無い人生を応援している、川奈聖書教会 牧師の山口です。
http://www.geocities.jp/kawanachurch/


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2016年01月20日

なんと呼ばれたいですか?

色々な呼ばれ方をします。一番多いのは「山口先生」。でもそれだけではありません。娘たちからは「パパ」、友人たちからは「グッチーorボクさん」。ご近所さんは「山口さん」、親・兄弟は「こうじ」、妻からはいまだに「こうじくん」です…^^;
色々に呼ばれることを大切にしたいと思っています。
学校の「先生」、病院の「先生」、最近は少なくなりましたが政治家を「先生」と呼ぶ方もいますし、牧師も「先生」と呼ばれます。
先生としての責任を回避してはいけないと思いますが、一方で常時「先生」になってしまってもいけません。

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聖歌隊の親睦会&新年会を大室高原のmiracoloさん(http://www.miracolo.jp/)で開催しました。いつも美味しいお料理と楽しい時間をmiracoloさん、ありがとうございます!

ある時点まで「先生」というのは自分より年上の人でしたが、段々自分より若い「先生」に出会う機会が増えてきました。私が最初に出会った年下の「先生」は娘の幼稚園の先生でしたがそれは新鮮な経験でした。
子どもがお世話になる先生に対して、親である私が敬意をもって「先生」として関わることは大切なことだと思っています。
以前、教会にお招きしたあるベテランの牧師さんは、ご子息と主任牧師を交代した時から教会ではそのことを弁え息子さんである主任牧師に敬語で話していると教えてくださいました。
牧師は教会において確かに先生としての責任を与えられています。けれども、当たり前のことですが牧師があらゆる事柄において「先生」である訳ではありません。
私は尊敬すべき信徒の方々に囲まれています。人生経験・社会経験・専門知識、様々なことで信徒の方が私よりも秀でており、私の先生になってくださいます。
最近は自分より若い教会のメンバーが少しずつ増えてきましたが、やはり若い方々を見ていて尊敬すべき所、教えられる所が多々あります。

一つの立場、一つの土俵にしか立てない人は不自由ですし成長することができません。その人は自分の肩書きが通用する土俵にしか立つことができないので、他の土俵で生かされる能力を持っていたとしてもそれを発見することができません。
一つの測り・一つの土俵だけで構成される集団というのは、相互に作用し影響しあう関係性が生まれないので閉鎖的で発展性がありません。
例えば私が常に先生である集団は私の能力以上に成長できませんし、私の限界が集団の限界になってしまいます。しかし、相互に先生として影響し合える集団は、一人のリーダーの能力・限界を超えて成長することができます。
このように個人・集団、両面において自分の得ている敬称・肩書きに固執しないことが成長することの秘訣です。

いつも先生であろうとしないこと。いつも生徒でいることに甘えないこと。様々な土俵にあがり、様々な視点があることを知り、尊敬しあう関係性に生きること。
豊かさを味わい成長していくためには相互に影響し合えるかがどうかがカギになります。
あなたの人間関係はどうでしょうか。あなたが属している集団、あなたが生活している地域はどうでしょうか。
「共依存から相互依存へ」、神学校卒業以来13年間ずっと考え続けているテーマです。

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2015年11月19日

子どもに教えるべき本当の「特別」

「あなたは掛け替えの無い特別な存在」、親はわが子にそのように伝えたいと願うでしょう。大切なことです。しかし時に「特別」の意味を履き違えしまうことがあるかもしれません。
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21日(土)午後1時半から2時半、教会ピアノ教室の発表会を行います。ピアノを通して子どもたちの健やかな成長を願い、3年間続けてきました。ぜひ応援にいらしてください。またピアノ教室や教会塾に関心の方は気軽に連絡ください。

子どもの頃、私が通っていた空手教室の流派の大先生のお祝いの式典でこんな光景を目にしました。
空手道の式典ですから偉そうな先生が前に並んで厳粛な感じで執り行われていたのですが、式の途中小さな子どもさんがチョロチョロっと前に出てきておどけた仕草をしました。途端に張り詰めた空気がゆるんで、前に並ぶいかめしい先生たちがニコニコと顔をほころばせたのです。そのお子さんは大先生のお孫さんでした。
その様子を見ていて今度は別の小さな子どもさんが、やはり前に出てきて同じようにふざけたのですが、そのお子さんはあっという間に「あっちに行きなさい」と連れ出されてしまいました。そのお子さんは「普通」のお子さんだったからです。
中学生の私はその光景を非常に嫌な思いをしながら見ていたことを思い出します。

子育ての中で子どもの「特別」の意味を履き違えないように気をつける必要があります。本当の意味での「特別」を教えるためには、子どもの立ち位置を「特別」にしてはいけないのです。
「普通」の子どもとは違って大先生の孫である「特別」な子どもは、そもそも他の子どもたちと立っている場所が違います。違う場所に立っているがゆえに「特別」であると自分を認識していた子どもが、その「特別」を失った時に経験するのは劣等感です。大人が与えてくれた下駄を履いて他の子どもを見下していた子どもさんは、下駄が無ければ自分を肯定できなくなってしまいます。
フラットな関係性の中で自らを肯定する力が養われていないので、普通の関係性の中に生きることができないのです。
つまり立場・立ち位置としての「特別」を与えられて優越感を経験することは、結果として子どもの健全な自己肯定感を損なわせてしまうことになりますし、人間関係を構築していく上で大きな問題を抱えてしまいます。

先日、ある学校で修学旅行の際にクラスの大勢の子どもさんが持っていけるお小遣いの上限を超えて持ってきて問題になったという話しを聞きました。親御さんたちの「自分の子どもだけには多く持たせてやりたい」という思いが働いたのでしょう。
しかし、子どもにとって大切な経験はたくさんお小遣いがあるから「特別」楽しめることではなく、決められた枠の中であれこれ考え工夫し得られる自分だけの「特別」な楽しさではないでしょうか。

大人が与えた下駄を履いての「特別」は、子どもに本当に与えなければいけない「特別な存在である」という自己肯定感をむしろ損なわせてしまうものです。
比較することの中での特別性では無く、比較できないことの中に見出される特別性を子どもに伝えることができたら、子どもの人生に掛け替えの無いプレゼントができたと言える子育てになるのではないでしょうか。

川奈聖書教会はあなたの子育てを応援しています!ぜひ教会学校に子どもさんをお送りください。
毎週日曜日 午前9時15分から10時30分

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2015年10月08日

どうしたら満足できる?

間もなく「教会塾いっしょ」のスペシャル企画「私はダメじゃないことがわかるお話し会」が開催されます。
今日は講師を務めてくださる大室高原の大切な友人、イタリアンレストラン ミラコロ http://miracolo.jp/ オーナーシェフ 小笠原貴史さん(以下 おがちゃん)のところにおじゃましてご夫妻から色々お話しを伺ってきました。ホントにステキなご夫妻です(^^♪

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10月19日(月) 午後5時から6時 主な対象 小学校高学年から中学生

おがちゃんの話しをうかがい特に印象に残ったことは「自分はラッキー。とても良い時代に事業を起こすことができた」と“今”をとにかくポジティブに受け止めてらっしゃることです。
ではどのように良い時代なのかと言えば、例えば「宅急便のスピードや確実性」によって新鮮な食材を全国各地から手に入れられること。
またブログやFacebookなどネット環境の充実によって以前なら届くことができない方々に向けて情報を発信できること、などなどです。
確かにレストランにとって大きな恩恵が受けられる事柄だと思います。けれども、それっておがちゃんだけが特別に受けられるサービスでは無いですよね。宅急便もインターネットも誰でも当たり前に利用できるものです。でもそれはひと昔前では考えられないことで、確かに“今”だからこそ受けられる特別な恵みです。

聖書の中に「わたし(神様)の恵みはあなたに十分である」という言葉があります。
満たされた人生を送ることの秘訣はまだ得ていない何かを求めることではなく、すでに得ている恵みを恵みとして認めそれを十分に味わい生かすところにあります。
悪いパターンは今すでに頂いている恵みを恵みとして認識できず、せっかく得ている恵みを「当たり前の物」「価値の無い物」と見逃してしまって、持っていない別の何かを求めてしまう生き方です。そのような生き方の中で満足や充足を得ることは決してありません。持っていないものを求めれば求める程、今得ている物を無意味・無価値にしてしまうからです。

「神の恵みは私に十分与えられている」、この聖書の約束を信じることは人生の祝福の秘訣と言えるでしょう。「あれが欲しい、これさえあれば」という思考は、十分に得られないことが原因で起こるのでは無くて、今得ている物を喜び生かしていない生き方の中に起こってくるものです。
そういう生き方に対して聖書は歯止めをかけてくれています。有名なモーセの十戒の中に「隣人の物をむさぼってはならない」という戒めがあります。この教えもまた、自分が得ているものに満足しなさいということであるし、また満足できる物を私はあなたに与えているという神様の約束でもあります。
新しい何かを求める前に、今神様があなたにくださっている恵みを一つ一つ確認し、それを大切にし生かすことを考えてみませんか。
きっと神様があなたに与えてくださっている恵みに気付き、満たされて生きる人生が始まります。
たった一度のあなたの人生を応援している、川奈聖書教会牧師の山口でした。
川奈聖書教会 http://www.geocities.jp/kawanachurch/
日曜礼拝:午前10時半〜12時  火曜礼拝:午後7時〜8時 気軽にお越しください!


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